第四話 図書館での再会
そんな出来事があって、二日後。
トラブルの申し子である私は、本日も絶賛尾行され中だった。三限の民俗学の講義を終え、一号館から学バスの停留所までの道すがら、何やらじっとりとした視線を感じたのが始まり。
普通の人なら、気のせいだと片付けてしまうかも知れない。けれど私は、その道のプロと言って差し支えないほどの経験があった。これはいつもの“厄介ごと”だ。
ちなみにいつも一緒にいる素子は、一人で四限を受けている。故に巻き込まなくて済むことだけが救いかもしれない。
とにかく、学内で撒いてから駅に行かなくては。途中の乗り換え駅で人混みに紛れて撒くこともできるが、失敗した時に面倒である。自宅の最寄駅を知られるのも、そもそも大学の最寄駅から上り方面か下り方面かを知られることすら嫌だ。その一心で、私は歩いていた。
力んで上がってしまう肩をどうにかこうにか押さえつけ、自然に見えるように並木道を抜ける。途中チラチラと紅葉を眺める素振りで背後を確認し、追跡者との距離を確認した。
やっとのことでたどり着いた図書館。学生証を、入口のゲートに叩きつけるようにタッチして入館する。貸出・返却カウンターのある吹き抜けを横切り、正面にある階段を小走りに駆け上がった。
この図書館の一階の棚は、背が低いものばかりだ。その点二階に上がってしまえば、天井付近まで書架があるお陰で、撒きやすい。今は三限終わりの三時前。まだギリギリ、人もいる時間帯だ。
行き止まりとなる移動書架のスペースより手前を使って、なんとかして撒こう。
和書の区域に駆け込み、通路と曲がり角を駆使して歩き回る。Uターンを何度か繰り返し、ヨーロッパ史の棚を横目に、時には大判の美術画集が収まった背の低い本棚の横をしゃがんで通り抜けて逃げ続けた。
しばらくして、視線を感じなくなっていることに気がつく。
(撒けた、かな……?)
前にも後ろにも、それらしき人影は見えない。周囲を見て現在位置を確認すれば、いつのまにか洋書の棚の方面に迷い込んでいたようだった。
英語は得意じゃない。第二外国語として学んでいるドイツ語の方が、幾らかマシだ。
焦っているためか、いつも以上に理解のできない英字の並ぶ背表紙が私を急き立てる。
慌ただしく左右に目を走らせながら、ちょうど目の前にあった棚の、本の上辺の隙間から向こう側の通路を盗み見た。
(っ! あっぶな!)
本棚を挟んで反対側に、男がいた。例の追跡者だ。
私から見て左方向に歩き出したのを確認してから、そろそろと反対に向けて足を動かす。隙間から逐一位置を確認しながらの後退だった。
一歩、二歩、三歩。相手が進むのと同時に、私が退がる。足が四歩目を刻んだその時、背後の壁に衝突した。
「っ──!」
「シッ! 図書館ではお静かに。……ぶつかってごめんね?」
思わずあげそうになった悲鳴が、大きな手に封じ込められる。耳元で潜められた甘い声が響いた。同時にふわりと漂ったお香のような匂いに、クラクラする。
そろりそろりと振り返れば、見覚えのある垂れ目と視線が交わった。
吉田松太だ。電車で痴漢されている私を助けてくれた恩人。
「吉田、先輩……」
「あれ、僕名乗ったかい?」
「し、知り合いが、教えてくれたんです」
緊張で視線が泳ぐ。それはもう、バタフライのように。悲鳴をあげたい気持ちをなんとか抑え混んでいれば、ここが本棚の一番端にあたる場所だと気がついた。
ということは、私はどうやら曲がってきた先輩にぶつかってしまったようだ。完全に後方不注意であった私に非がある。慌てて頭を下げれば、控えめな強さで肩を叩かれた。
「気にしなくていいよ。それより、顔を上げて」吉田先輩に促されて頭を上げる。微笑む彼と目が合って、そのあまりにもの美しさに思わず視線を逸らした。
下げられたブラインドの隙間からわずかに差し込む西陽を受けて、彼は宗教画のような荘厳な美しさを放っていた。直視なんてした暁には、不敬だとバチが当たるかもしれない。
グリンと顔を前に向ければ、隙間から男がこちらの通路へと曲がる様子が見えた。にわかに慌て始める私に気がついたのか、吉田先輩は私の腕を取ると踵を返した。
壁際に向かい合わせの形に二席ずつ設置されている閲覧席。その中の、バックパックが置かれている一席に向けて歩き出す。机と壁の間を指し示し、そこで耐性を低くしろとジェスチャーで示した。大人しく従えば、先輩は椅子に腰を落ち着けて私を隠すようにバックパックと上着を置く。
机の側部に張り付くようにして身を小さく丸め、息を潜める。天板に置いてあった本を手の取り、静かに文字を追い始めた吉田先輩を見上げた。人差し指を立て、唇に当てる。腹が立つくらいに、一挙手一投足が美しい。高鳴る心臓が肋骨を突き破って出てきそうになった。
「もう、いいかな」
先輩の声に、心臓を押さえ込むように胸に当てていた手を離す。
いつのまにか、追っ手は過ぎ去っていったようだった。
差し出された手を反射的に掴めば、すでに上着を羽織ってバックパックを背負っていた先輩が微笑んでいる。行こうかと促され、後に続いて本棚の間をすり抜けた。
「今更だけど、ああしてよかった?」
「はい。二度も助けて頂いて、ご迷惑をおかけしました……」
「うーん? そうじゃなくてさ、ホラ」
図書館内であるため、お互い小声で会話する。吹き抜けから階下を確認した先輩の言葉に、首を捻った。
ややあって、彼の言わんとすることを理解する。
「ありがとう、ございます?」
「どういたしまして。舛花さん」
階段手前で立ち止まり、ペコリと頭を下げた。眩いばかりの笑顔で返され、思わず目の前に手をかざしたくなる。
カウンターの前で司書さんに会釈しながら、ふと先輩の言葉に疑問を持った。
「私の、名前……」
「あぁ、そうそう。君、先々週のドイツ語の文法の授業でプリントを席に忘れていったろ?」
「……確かに。どうして知ってるんですか?」
先輩にくっついて、小走りでゲートを抜ける。建物から出たことで声を潜めなくて良くなった先輩は、大きく伸びをすると振り向いた。
「僕もドイツ語取っててさ、次の時間にあの席使ったのが僕なんだよ。すぐに忘れ物として教授に預けたけど、書き込みの字が綺麗だったから、記憶に残ってて」
「それで、そのプリントの主が私だってわかったのは、どうして?」
「先週、君が教授から忘れ物のプリントを受け取っているところを見たから」
「だから一昨日は驚いたよ」と、先輩は形のいい眉を下げる。
対して字を褒められるのは初めての経験だった私は、しばし思考が停止した。お世辞だとしても、とても嬉しい。
じわりじわりと朱が滲む頬を誤魔化すように、私は口を開いた。
「あ、でも、改めて自己紹介させてください。私、舛花澪って言います。文学部の一年です。前回も、今回も、助けて頂いて本当にありがとうございました。先輩は、その、私の恩人です!」
「恩人だなんて。あー、人として……、そう、人として当然のことをしたまでだよ。それじゃあ、僕も改めて……」
謙遜する吉田先輩は、そこで一度言葉を区切りくしゃりと顔を笑みの形に崩すと、心臓を震わせるような美しい低音を紡いだ。
「僕の名前は吉田松太。文学部の二年だ。次は今日や一昨日みたいな切羽詰まった状況じゃなくて、普通に会ってお話しできるといいね」
異なる目蓋の二重幅のせいで大きさまで違って見える瞳が、緩く弧を描く。ちらりと見えた白い歯は、真珠のようだった。
ポーっと見惚れてしまいそうになるのを、頭を振って払う。
「それじゃあ、ちょっと教授に用があるから。またね」と研究室のある二合館へ向かう背中を、意地で保った顔で見送った。
茹だった頭の中を、吉田先輩の声がリフレインする。
社交辞令だとしても、あんなにも誠実で優しい素敵な人に、字が綺麗だと記憶の片隅に捉えられていたことが、普通にお話ししたいと言われたことが、嬉しかった。
あまりにも先輩を前にした私は落ち着きがなさすぎるのではないかと心配になるが、あの人の前では何人たりとも落ち着いてはいられないだろうから、仕方がないと思うことにする。
なんならスキップでもしそうな勢いで、並木道を歩いた。注意深く背後を確認するのも忘れずに。一応後をつけられていた身だ。あまり浮かれてもいられない。
どうやら追尾はされていないようだと前を向いた瞬間、目の前に影が躍り出た。息が止まりそうなほどに驚き、足が止まる。
「柳木くん……」
眉間にシワを寄せ、険しい表情を浮かべる柳木雷が、仁王立ちしていた。
「舛花さぁ──」
不愉快だという感情を隠すことなく、彼は口を開く。そうして私は、少し 上向いた気分を全て打ち消されるような冷や水を掛けられた。




