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夜明けの来ない世界で君と笑う  作者: 相川あきら
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第二十八話 糸し糸しと言う心

「君が、君自身が大切だから」


 ミルクチョコレートのような甘さを孕んだ声だ。鼓膜ばかりか脳髄まで揺さぶる誘惑に、思わず身が固くなる。驚愕に目を見開く私を、蕩けるような視線が絡めとった。薄暗い部屋の中で、どこか潤んだような瞳を行燈の明かりが際立たせる。

 ドコドコ音を立てて私の心臓が暴れ始めた。まるで公園に連れて行った三歳児のように胸の内側を暴れまわり、肋骨でできた柵を壊して飛び出ようとしている。


「なっ、にを……」


 何か言わなければ。そう思って絞り出した声はつっかえつっかえで、せっかく潤した口腔内が再び砂漠になっていることを悟る。お盆に置いたグラスを手に取り、もう一度水を口に含んだ。

 吉田さんは私が落ち着くのを待つと、目を伏せて言葉を探すように左右に揺らした。少しの逡巡の後、どこか困ったような、恥じ入るような表情で吉田さんが言葉を紡ぐ。


「白状するとね、僕も最初は君の香りに惹かれたんだ」


 それは、厳密に言うと嗅覚に作用するわけではないものの、便宜上“匂い”と呼称する魂特有の気配だ。その人固有のもので、一人として同じ匂いを持つ人間は存在しない。とは言ってもやはり似たような香りで系統に分けることはできるらしく、鬼によって好き嫌いも存在するらしい。

 けれどいくらこぼれ落ちたものを拾い上げているとは言え、ただでさえ自分たちは勝手に拝借している身だ。直接的に相手の心身に何か影響を及ぼすようなことはいが、選り好みするのも気が咎められる。

 それ故彼らは基本的に匂いの良し悪しに拘らない。漏れ出たものを最低限摂取していくスタイルをとっているのだが、どうせなら好みの霊力を頂きたいという欲が有るにはあるのだそう。


「いい匂いのする子だなって気になって、痴漢の被害に遭っているのを見て、助けなきゃって思った。駅のホームで話して、ようやく君の魂があまりにも無防備なことに気がついた」


 吉田さんが、私の鎖骨の下あたりを指差した。ここに、魂があるのだろうか。触れない距離ではあるが、意識してしまい肌の表面がむず痒く感じる。いや、もしくは私の魂が彼を感じとっているのかもしれない。

 ときめきで体温は上昇しっぱなしだが、頭は妙に冷静だった。


「だから、放っておけなかった? ならそれはただの親切心では?」


 親切心、もしくは庇護欲。彼の生来の気質であろう。困っている人は放っておけない。弱い人間を見つけたから、助けてやらないといけないと思っただけ。きっとそうだ。

 私はお世辞にも人から好かれるタイプとは言えない。幼い頃から、この見えてはいけないものが見える目のせいで、人付き合いには障害がつきものだった。“見える人”と“見えない人”は、相容れない。文字通り見えている世界が違うのだ。だから私はひた隠す。

 今でこそ慣れたので無反応でいられるが、まだ十にも満たない頃にはよく道端の霊と目が合っては悲鳴を上げていたものだ。

 何もない空間を見ては悲鳴を上げる子供が、果たして友達に囲まれた日々を送ることができるだろうか。いや、無理だろう。

 友達だった人の背中を見送るうちに、私は自然と人と必要以上に親しくすることをやめた。線を引き、これ以上踏み込んでこないでくれと示す。素子と親しくしているのは、その線引きをきちんと弁えてくれる人だからだ。だから、少しずつ許容範囲を増やしていって、今に至っている。

 そんな私が、お世辞にも吉田さんのような素敵な人に好かれるわけがない。

 確かに吉田さんはその誠実さゆえに親しくしたいとは思ったし、それなりに友好的な関係を築きたいと願った。剰え想い合うことを夢見てはいたものの、本気ではない。喩えるなら「非課税の五千兆円が欲しい」と同じレベルの“願うだけ”の願いだ。

 だってきっと、彼の隣に立ち続けるのは並大抵の努力では済まない。見た目も内面も申し分のない人に、私のようないろんな意味で穴だらけの人間は釣り合わないだろう。それだけじゃない。彼と私は生きる世界が異なる。命の終わりがあるものと、命の終わりが基本的にないものとでは、いつか齟齬が生まれる。


「君をもう一度抱きしめたい思いを、必死で押さえつけてるのに?」


 そんな可愛くない考えから出てきた嫌味を、吉田さんは優しく否定した。想いのこもった瞳に、後ろ向きな考えで構築した防御壁が崩れ去る。傷つかないようにと組み上げたはずなのに、傷ついてでもこの人が欲しいと思ってしまった。


「君に嫌われたくない。好かれたい。だから、優しくしたい」


 布団に支えのためについていた指先に、吉田さんの指が触れる。控えめに絡めとられ、心臓が跳ねた。あたたかな体温が伝わる。

 思わず逃げ腰になった私を、吉田さんの指が引き留めた。軽く身を乗り出して、仰反る私を追いかける。


「教えてくれるかな。僕は元服の前から結婚する相手が決まっていて、色も好まないたちだった。よく知りもしない許嫁より、妹と母の方が大切に思っていたからね……」


 瞬きのために閉じたまぶたの裏に、着物姿の吉田さんが浮かんだ。きっと当時から誠実で優しい人だったのだろう。

 これは惚れた欲目だろうが、絶対に格好いい。薬屋の跡取りの長男と言っていたから、教養ある人格者。向かう所敵なしではないか。

 思考がマイナスの海に沈み、やはりそんな人に私が好かれるわけがないと気分が重たくなる。


「だから、これが恋なのかわからないんだ。経験がないから」


 迷うような言葉を紡いだわりに、声には確信を持ったような強さが合った。絡み合う指をなぞられ、思わず伏せていた目を上げると、熱を湛えた瞳が私を射抜く。

 建てたそばから、防御壁が瓦解されていく。

 喉の奥で、変な音がした。逃げられない。狩猟をする獣のような眼差しに、それを悟る。


「無い魂を捧げて君が戻るなら、君の為になるなら、僕は全て捨てても惜しくは無いと思った」


 相変わらず肋骨の中で大運動会をしている心臓が、一際大きく跳ねた。

 「目は口ほどに物を言う」とは言われるが、口だけで十分物語っている。マグマのように熱く、砂糖とメイプルシロップをかけた生クリームのように甘い声。追撃するように、被食者の喉笛に食らいつく鋭い牙ような瞳が私を突き刺した。

 愛おしいと、吉田さんの全てが訴えかけてきていた。


「でも今は、君のこれからに寄り添いたいから、捨ててもいいと思った命がとても惜しいよ……」


 彼は年齢を詐称しているのではないだろうか。百年ほど前、そして記憶の中で見た御母堂の服装から江戸末期辺りだと推察するが、本当は平安の人かもしれない。

 だってこんな、こんな熱量のある告白、なかなかない。藤原くんに教育されでもしたのか。

 どうにか何かを返そうと、唇を開いては閉じてを繰り返す。こんなにも熱い想いに、私は答えられるのか。私の想い程度で、足りるのか。

 必死で吐き出した言葉はあまりにも細く、触れれば消えてしまいそうな微かな声になってしまった。


「そう言ってくださるのが、とっても嬉しいので、嬉しい今のうちに死んでしまいたいくらいです」


 これ以上ないほど蕩けていた瞳が、笑みの形に結ばれる。


「それは困るよ……」


 甘さを目一杯湛えた声で、吉田さんは私にささやいた。

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