第二十七話 顛末
どこか覚えのある香りが鼻腔をかすめ、意識が浮上する。見上げた天井に既視感を覚えた。吉田さんの、いや杜若教授のお宅だ。
目を動かして、辺りを見回す。と、枕元に今まさに水差しを置こうとしていた婦人と目があった。確か、杜若教授の奥様だ。寿美子さん、と言っただろうか。
「あら、お目覚めかしら」
黒曜石のような煌く瞳に見つめられる。その肩から、さらりと黒髪がこぼれ落ちた。
今し方畳の上に落ち着けた水差しを取り上げ、ガラスのコップに静かに傾ける。水の注がれる音は、私の心を落ち着けた。
「あ、えぇと、寿美子さん、ですよね?」
「松太さんから聞いたのね? えぇ、杜若寿美子です。お水飲む?」
間違ってはいないだろうかと恐る恐る問い掛ければ、にっこりと微笑んだ彼女が肯定する。そのまま水を勧められ、私はコップを受け取ろうと身を起こした。
けれど、それはあえなく断念される。
上半身に力を入れた瞬間、考えられないほどの激痛が胴体どころか四肢の末端までもを駆け抜けたのだ。思わず口から呻き声が迸り、ふかふかの布団に逆戻りする。
痛い。身体中が。筋肉という筋肉の全てが悲鳴を上げているようだった。
寿美子さんはそんな私の醜態に目を丸くすると、「松太さんと龍雲さんを呼んで来ますね」と言い残して出て行ってしまう。
苦痛の時間は、永遠に続くようだった。本当は数分にも満たない短さなのだろうが、この痛みに苛まれている状態では一日千秋ならぬ一秒千秋に感じられる。まるであの憎しみの炎の中に舞い戻ったかのようだった。
ややあって、吉田さんの声が聞こえるのと同時に襖が開いた。薄暗い室内に反して灯りの点る廊下が眩しい。光を背に受けた逆光の二人は、入室して襖を閉じてようやく顔を視認することができた。
言わずもがな吉田さんと、もう一人。
(ご、ご先祖様……!)
撫で付けられた黒髪、一重の鋭い目、一文字に結ばれた唇。落ち着いた色合いの、素人目に見ても上等とわかる着物を纏い、私と目を合わせて立礼をする。精悍な顔つきの男性は、音を立てずに吉田さんの隣に腰を下ろした。
どこからどう見ても、私が意識を失う前に見たご先祖様だ。
「よかった。目が覚めたんだね?」
吉田さんは私の上に身を乗り出すと、額にかかった髪の毛を払い除けてくれる。視界が晴れて見易くなった。相変わらず腕は上げることすらできないほどに痛みを訴えていたので、ありがたい。
「龍雲さん、見てやってください」
「あぁ」
身を引いて座り直した吉田さんに代わり、龍雲と呼ばれたご先祖様が身を乗り出す。彼が大きな手を私の額にかざすと、身体中を蝕む痛みがするすると引いていった。
「彼は老竹龍雲さん。僕たちの仲間で、治癒の能力を持つ鬼だよ」
なるほど、治癒か。そのまま何かを改めるように布団越しにかざした手を滑らせる男性──龍雲さんを感じながら、ちらりと顔に視線を向けた。
とてもじゃないが、現代人には見えない。意識を失う前に見たものだから、完全に三途の川の向こうから迎えに来たご先祖様の一人だと思っていた。だって、その、非常に見た目が武士なのだ。
邪魔するものは全て斬ると言わんばかりの鋭い瞳も、スッと伸びた背筋も、帯刀していないことが不思議なほどの佇まい。どう矯めつ眇めつして見ようと、武士だった。武士に抱く人々のイメージを総合して擬人化したらこうなるとでも言うように。
邪魔をしないようにじっと待っていると、間もなく検分は終わったのか、龍雲さんが半ば倒していた身を起こした。
「お大事に」の一言と共に、微妙に口角が上がる。感謝を述べつつ身を起こせば、すぐに吉田さんがサポートをしてくれた。龍雲さんは用は済んだとばかりに退出してしまう。
「辛い思いをさせてしまったね」
眉を垂らして申し訳なさそうな笑みを浮かべた吉田さんが言った。おそらく私が彼の過去を垣間見たことに気がついているのだろう。
相変わらずカラカラに渇いている口を湿らせるために、枕元のお盆に乗っていたお水を取る。寿美子さんが注いでくださったものだ。
「いえ……。あの、お怪我は大丈夫ですか?」
水を一口煽り、私は吉田さんに問う。今見る分には問題があるようには見えないが、背中を袈裟懸けに切り裂かれていたのだ。心配ではある。
「大丈夫だよ、ありがとう。君のおかげだ」
「よかった……」
「僕よりも君の方が大変だったんだけどね?」
吉田さんは小さく微笑むと、熱を測るように手のひらを私の額に当てた。続いて両眼を覗き込み、指の背で頬を撫ぜる。龍雲さんのお墨付きをもらってもなお心配だったのだろうか。
「君は危うく魂を解かれるところだったんだよ?」
ほんの少し怒ったような色が滲む声に、危機感がなかっただけで相当危ない橋を渡ったのだなと自覚した。
彼曰く、元から防御力が皆無である私が意識の朦朧としている吉田さんに霊力を譲渡したことにより、一時的に境目が曖昧になってしまったのだそうだ。そのせいで同調が起こり、私の霊力が妖力に傾いていたのだとか。
「それって……」
「君が危うく鬼になるところだった。引き戻せてよかったよ。本当に」
引き寄せられるように抱きしめられ、耳元で吉田さんがほうと安堵の息を吐く。後頭部の髪に指を差し入れるように撫でられた。
されるがままに受け入れていたが、ややあって慕う相手に抱きしめられていることを自覚する。途端に心臓は爆速でビートを刻み出した。
激しい動機を誤魔化すように引き剥がして、自分も吉田さんが助かって嬉しい思いを捲し立てる。
ポカンと呆気にとられたような表情を浮かべた吉田さんは、優しい笑みを浮かべると徐に唇を開いた。
「妖怪はね、あまり死に瀕した時に助かろうとしないんだよ。助けようと積極的に動くことも稀で……」
どこか諦観したような声音に、だからあの時藤原くんからも杜若教授からもそれほど焦りを感じなかったのかと納得する。
「そもそも本来死んでいるはずの存在なんだ。魂は霊力の塊で、それが解けて妖力に変換されるって話しただろう?」
妖怪になった時点で、魂は解けている。故に輪廻を巡るための魂を有していないのだ。生命の理から外れた存在になっているのである。
それはつまり、人の霊力をもらって生き延びているだけの死人に過ぎない。動く屍と同義なのだ。
故に死にかけても助かろうとする積極性はない。駄目だったらそれまで。彼らは仲間であるために助けようとは動いたが、何がなんでも生かそうとは思っていなかった。
「僕も本当はあのまま死んでしまってもいいと思っていたんだけど……」
目を伏せて言い淀む吉田さんに、なんと言えばいいのかわからなかった。それなら、私は余計なことをしたのだろうか。助けない方が良かったのだろうか。
「でも、君の顔を見て、死んだらいけないと思った。君を置いて行ってはいけないと」
知らぬ間に俯いていた私の頬に、あたたかい手が添えられる。上向けるように、撫でられた。
「だから、助かってよかったよ」
晴れやかな笑顔だった。今まで見た中で一番。ほんの数ヶ月の付き合いだからそう思うのかもしれないが。本当に、心からの笑顔だった。
「……妹は、置いていけませんもんね」
あまりにも素敵な笑顔に、ひねくれたことしか言えない。自分でも思うくらいに可愛くない反応で返した私に、吉田さんはくすくすと声を上げた。
「いや、妹じゃないよ」
ジトリと睨むように目を向けた私に、吉田さんが笑いかける。何か愛おしいものを見るように唇を開いた。




