第二十六話 闇から伸びる手
誰かが私を呼んでいる。
誰かが私を探している。
名前を呼ばれた。何度も。女性の声だ。若くて、未来への希望や夢に満ち溢れている声。きっと幸せな日々を送っているのだろう。そんなことが思い描ける声。
暗闇の中、私はそれを道標にしてただひたすら足を動かした。暗中模索とはまさにこのことだ。一寸先も見えない闇の中、手探りで前進する。今どこにいるか、さっきからどれだけ進んだかすら分からない状態で、ただ一つその声だけが希望だった。
不意に闇の中から白い手が伸びてきて、私はそれを捕まえた。しなやかな細い指。傷のない、大切に手入れしていると人目でわかる指。その指にしっかりと手を握られ、私は酷く安堵した。
白い手は私を導く。家路を共に歩く母のように。私の辿りつくべき場所へと連れて行ってくれる。
(母さん)
身のうちから、それを愛おしいと思う感情が湧き上がってきた。なによりも大切だと、安心できるものだと。
これは母の手だ。私を愛し、私が愛する母の手だ。どんな時も優しく慈しみ、時に厳しく叱咤してくれる母の手だ。
(本当に……?)
私の母は、本当にそんな人だった?
確かに、私を愛してくれてはいるのだろう。それでも、幼い頃から“見えないはずのものが見える”私を、どこか恐怖していた筈だ。私を導く手は母の手ではなかった。私は母の理解を得られないまま、二十年近くを生きてきた筈だ。
父なはずがない。父は私の誕生日も年齢も正確に把握していないほど子供というものに興味がないはずだ。生活費以外を与えられた記憶がない。
ならこの手は、誰の手だ。
あんなにも強く握りしめていた手を離す。呆気なく分かたれた白い手は、ぶらりと振り子のように揺れた。
じわり、じわりと、その手を起点にするように持ち主の身体全体が闇に浮かび上がる。留袖の着物。前に締めた帯。丸く結い上げられた髷。
酷く憔悴したようにやつれた着物姿の女性が立っていた。年の頃四十あたりだろうか。目は焦点を結ばず、不安げに揺れている。
「松太郎」
ああ、彼の名だ。私が呼ばれていたのではない。吉田さんが呼ばれていたのだ。これは、彼の記憶だろうか。
迷子のような瞳で、女性は吉田さんのかつての名前を繰り返し呼ぶ。両手が、何かを探し求めるように持ち上がって揺れた。私はそれに応えられない。応えてはいけない。
「梅。お梅、そこにいるの?」
痩けた頬を涙が伝った。ごめんなさい、ごめんなさいと謝る声が、壁もないのに反響する。頽れ、頭を掻き毟り、髷が乱れてもなお、絹を引き裂くような悲鳴は続いた。
彼の記憶でもないのかもしれない。彼が思い描いた、母の最期のイメージと言う方が相応しいだろう。
私のまともにシールドを張れないポンコツ魂が、彼の柔らかい部分に触れてしまったのか。
伸ばしてはならないと分かっているのに、私はいつの間にか手を伸ばしてしまった。私は彼女の求める息子でも、娘でもないのに。
「あっ……」
ぱたり、と。痩せ細った指が地に落ちた。さっきまではあんなにもしなやかだった指は、ほとんど骨と皮だけになっている。何かに叩きつけたのか、傷だらけになってしまった手。
下卑た男の声が鼓膜を揺さぶった。母を、殺した男だ。嘘の情報で母を騙し、死んだ妹の生に希望を持たせた。そんなものないのに。母の尊厳を、死してなお貶めた。殺したばかりじゃ飽き足らず。
肋骨の内側で、憎しみの炎が産声を上げた。血管を通って身の隅々まで焼き焦がされていくような強い感情。許さない。誰が。僕の母を、何のために。
爪の先から、作り替えられていくような感覚。己の霊魂が、解け、巡り、黒い別の力へと変わっていく。身体が、組み直されていく。非力な人間から、人を一捻りで殺せる獣へと。
(復讐してやる)
苦しめて、苦しめて、苦しめて苦しめて殺してやる。タダでは死なせない。生まれてきたことを後悔し、赦しを乞うても関係ない。罪人の血を捧げて母の菩提を弔おう。必ず殺す。追い詰めて殺す。
噛み締めた歯がギチギチと音を立てた。額の皮膚を突き破って生えてきた角に、鋭く伸びた爪に、自分が異形になってしまったことを悟る。それでも関係ない。殺してやる。
憎しみの炎が血となって身体中を駆け巡る思いだった。憎悪に心も体も全てを支配され、そのことしか考えられない。
景色が凄まじい勢いで移り変わって行った。目まぐるしく視界が回る。
男の身の回りで不可解な現象を巻き起こした。簡単だ。鬼の身、それも成り立てであれば、人の見えぬ速度で動くことも容易い。母の霊が、恨みを持って祟っているように見せかけた。
追い詰められ、無様に悲鳴を上げた男を追い詰める。口からは知らぬ間に笑い声がもれていた。涙も鼻水もよだれも、顔から出せる全ての水分でぐちゃぐちゃになった男が雑木林の中に逃げ込む。そんなところへ行っても、無駄だというのに。
転げた男が、木の葉塗れになって見上げていた。足元に縋り付いて泣くのを蹴飛ばせば、涙濡れの謝罪が響く。謝っても母は帰ってこない。同じようにこいつを殺しても母は帰ってはこない。それでも。
「殺してやる!」
『──さん』
何かに気を取られた。男から視線が外れ、木立の中に目を向ける。
野犬だ。一列に並んだ野犬が、口から舌をだらしなく垂らして荒い呼吸を繰り返していた。ご馳走を見つけたとでも言うように高く吠える。
『──なさん』
そのうちの一匹が、身を屈めて後ろ足で地面を蹴った。飛びかかって来た犬を払う。地面に転がった野犬はすぐに身を起こすと再びこちらに向かって来た。もう一度あしらい、男に向き直る。
『──はなさん』
声が、聞こえた。振り下ろす寸前で五指が止まる。その隙を縫うようにして野犬が男の喉笛に噛み付いて──。
「舛花さん」
柔らかい声が、私の鼓膜を揺らした。乾いたタオルに水が染み込むように、身のうちを暴れ回る憎悪が端から鎮火されていく。体内を清涼感が反響して、血が上った脳みそが冷やされていった。
「戻っておいで。それは君が抱えるべき憎しみじゃない」
頬が撫でられている。柔らかいタッチで触れる指が、そのまま髪を梳く。
男の姿がブレた。野犬も消える。肌寒い、冬の空気が肺いっぱいに流れ込んできた。地面に着いた膝が冷たい。
「君に憎しみは似合わないよ」
「よし、だ、さん……?」
焦げ茶の瞳が、私を覗き込んでいた。二重幅の異なる、アンバランスな両の瞳。
少し血色の悪い唇が、噛んで含めるように私に向けて言葉を紡ぐ。
「君にそんな感情は似合わないよ。ごめんね? 苦しめてしまった」
「私、私……」
カラカラに渇いた口は、思うように音を奏でてくれない。言葉が詰まる。口は動くのに声は出ず、代わりに目からぼろぼろと大量の涙が溢れ出た。
「うん。ありがとう。僕はほら、回復したから大丈夫だよ」
優しい笑みを向けられて、力んでいた体から力が抜ける。今になってようやく両肩に食い込む爪を感じた。誰かに肩を掴まれていたようだ。
「こんなところにいたのか!」
どこか聞き覚えのある声が響き、視界の端に烏羽さんと、いつか見たご先祖様が入り込んでくる。強い安堵に身を委ね、私の意識は再び闇へと消えた。今度はあたたかで、優しい闇だった。




