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夜明けの来ない世界で君と笑う  作者: 相川あきら
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第二話 誠実な人

「大丈夫?」

「ぇ、あ……?」


 走り去る車体をぼんやりと見つめていれば、心配が色濃く滲み出る声が耳に届いた。落ち着いた低音が鼓膜を震わせる。

 控えめに肩を叩かれて、私はようやく錆び付いたブリキ人形のようなぎこちなさで、声の主を振り向いた。

 完全に押し流されていたが、よく考えたら、いやよく考えなくても迷惑をかけてしまったのでは。私のトラブルに、知らない人を巻き込んでしまった。降りるべきではない駅で降ろしてしまったのではなかろうか。

 瞬時に頭を過った考えに、硬直する。

 相手の男性はそれを良くない方に捉えたのか、パッと一歩身を引いて私から離れた。


「あ、いや、なにもしないよ。……でもあんなことがあった直後に肩を触るのは軽率だった。申し訳ない。まず、謝らせてくれ」


 一歩間隔をあけて立つその人は、敵意がないことを示すように肩のあたりに両手を掲げて見せる。

 ホームを足早に通り抜けて行く人並みが、立ち止まる私たちを迷惑そうに横目で見ていた。

 謝らせてくれも何も、もう今謝ったのでは?

 回らない頭で、ぼんやりと考える。


「すぐに助けに入れなくて、申し訳なかった。あいつの影に隠れて、君が最初見えなくて……」

「……ぇ、あ、いえ、そんな! 助けていただいただけでも、ありがたかったです!」

「やたら近いけど、何かこう、あからさまな動きじゃなかったから、どう割って入ればいいかわからなかったんだ」


 申し訳なさそうに眉を曇らせて紡がれた言葉に、うっかり泣いてしまいそうだった。

 あまりにも誠実な言葉だ。

 生まれてこの方数々のトラブルに見舞われ、かつその周囲のギャラリーにも恵まれなかった私にとって、彼は天の助けそのものだった。あの場から連れ出してくれただけでも十分なのに、それが遅れたと悔やんでいる。

 命の恩人とも呼ぶべき相手が自責の念に駆られている様に、私は慌てて手を振った。気にしなくていいと示すように。


「大丈夫です! 本当、たいしたことなかったので、腿をちょっと、触られたくらいで……」

「腿を……?」

「はい。ね、たいしたことないでしょう?」


 トラブル博覧会の私の人生において、痴漢に遭う頻度は高くもないが珍しくもない。そりゃあ、理解の及ばない相手の思考に毎度毎度恐怖を覚えるし、慣れることはないのだけれど。でも、今回はだいぶ浅い段階で助けてもらえたので僥倖と言えた。

 それを伝えようとしたのだが、どうやら私は選択を誤ったらしい。

 恩人は眉間に深いシワを刻み込むと、何かを払うように首を振った。


「君は、滝野学園の学生で間違い無いよね?」


 顔に感情を読ませない笑みを貼り付け、確認をとられる。頷いて肯定を示せば、ホームの壁際のベンチを指さされた。


「僕も滝野に通ってるんだ。ちなみに二年生。それで、この時間に電車に乗ってるなら、君は二限以降の出席だろう? 少し時間には余裕があるんじゃないかな」

「い、一応は……?」


 確かに今日は、小テストの予習のために早めにキャンパスに行こうと余裕を持って家を出ている。

 でもそれがどうしたと言うのだろうか。

 一応同じ大学に通っている先輩なようだが、面識はないはずだ。

 問うように恩人である先輩を見つめるも、戸惑いは黙殺された。少し強引とも言える勢いで、ベンチへ誘導される。大人しく冷えた椅子に腰掛ければ、彼は私の手を指差した。


「そんなに震えているのに、たいしたことないって? 少し休憩して落ち着こう」

「あ……」


 見下ろした指先が、我が事ながらかわいそうなくらいに震えていた。それはもう、今カメラを構えたら残像がたくさんある写真が撮れそうなくらいに。

 食い込みすぎた爪が手のひらに傷を残し、うっすら血が滲んでいる。

 先輩がジャケットのポケットから清潔そうなハンカチを取り出すと、私に握らせた。汚してしまうからと慌てて手を離せば、ハンカチは汚すものだと傷口に当てられてしまう。


「ちょっとここで待っててくれ」


 せめて見苦しくないように、震えを止めようと躍起になっていれば、先輩は私の隣にバックパックを置くと自動販売機の方へ駆けて行った。程なくして戻ってきた彼の手には、ミネラルウォーターとお茶のペットボトルが握られている。


「どっちがいい?」

「え、いや、そんな……。悪いですよ」

「いいんだ。どっちがいい?」


 ボトムスが汚れることも気にせず、恩人は私の正面に膝をついてペットボトルを差し出した。一度は断るも、どこか圧のある笑顔で選択を迫られる。

 自分が勝手に買ってきたものだから、お代もいらないと出した財布も押し戻されてしまった。

 押し負けて水を選ぶが、手が震えて蓋が開けられない。みっともなさに恥じ入っていれば、彼は私の手からそれを抜き取ると、見えるようにキャップを捻った。


「怖い思いをしたんだから、震えるくらい当然だよ。恥じることも、隠す必要もない」

「でも……」

「それよりも、ちゃんと捕まえて駅員に突き出すべきだったね」


 何か口にしたら、少しは落ち着くかも。そう促され、ペットボトルに口をつける。

 冷たい水が喉を滑り落ち、胃に収まった。ほんの少し頭がクリアになり、気持ちを落ち着けた状態で恩人を見る。

 ここまできてようやく、彼がとても見目麗しいタイプの人類であると気がついた。


(うっそでしょ……)


 混乱していて全く気がつかなかったが、ファッション誌の中から飛び出してきたと言われても納得してしまう顔立ちをしている。現金なもので、新たに注目する何かが見つかったからか、震えがおさまっていくように感じた。

 わざとらしいほどに顔を逸らし、視界の端で相手の顔を捉える。流石に凝視するのは躊躇われた。

 深い茶色の髪の毛に、少し目尻の垂れた瞳とキリッとした眉。どこか子犬を連想させる面立ちだが、それでいて左右で異なる二重の幅が、絶妙にアンバランスで色気のようなものを醸し出していた。

 端的に言って、美しい。男性に対してあまり使ったことのない形容詞だが、素直にそう思えた。


「落ち着いた?」

「ぅえっ! ひゃ、はい!」


 その芸術品のような容姿に見惚れていれば、私が選ばなかった方のお茶を手で弄んでいた彼が首を傾ける。反射的に上げてしまった変な声に、彼はおかしそうに顔を綻ばせた。


「そんなに驚く?」


 キュッと細まった目に、上がる口角。くしゃりと笑みの形に崩してもなお美しい相貌に、感嘆すらしてしまう。

 なんとか惚けそうになる意識を引き戻し、ご迷惑をお掛けしましたと頭を下げた。

 君は悪くないよと言う優しい声に、こみ上げるものがある。

 今までのトラブル人生で、私は周囲の人間はあてにならないと学習した。けれど今日はどうやら幸運だったようだ。


「それじゃあ、落ち着いたならそろそろ行こうか」


 最後の最後まで親切な恩人は、威圧感を与えないように気を使ってか、立ち上がるのさえも私に合わせてゆっくりとした所作で行ってくれる。不必要に体が触れないように開けられた間隔に、人生を何周したらここまで人を気遣うことができるのかいっそ疑問に思う。

 共に学バスの待機列に並び、当たり障りのない会話で間を持たせながらも、私が相手の名前を聞いていないことに気がついたのは、二限のドイツ語の授業に出席して三十分経ってからのことだった。

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