第十八話 頼もしい味方
一号館を出て図書館の前を通り、二号館へ向かう。自動ドアを潜り抜け、大ホールを横目にエレベーターへと乗り込んだ。
たいして広くもない密室に吉田先輩と二人。否応なしに心臓は高鳴る。心を落ち着ける為に細くゆっくり深呼吸をした時、壁に貼り付けられた紙が目に入って別の意味で心臓が跳ねた。
エレベーターに乗るということはつまり、彼がこの「エレベーター利用は三階以上の利用者に限る」という張り紙を無視するタイプではない限り、三階もしくは四階に用があるということだ。
二号館は一階の大ホールと展示室、二階の中教室、三階と四階の教授の研究室で構成されている。ということは、彼の目的地は教授の研究室ということだ。研究室なんて入学式の次の日に履修登録レクチャーの時にしか入ったことがない。嫌な心臓の高鳴りに、背筋が汗ばむのを感じる。
小学校の頃から職員室の類を大の苦手とする私は、今でも事務室や学生課に入ることすら苦手意識があるのだ。よくお世話になっていたとか、叱られるイメージがあるとかそういった理由ではない。あまりにも縁遠い場所であった為、慣れないのだ。職員室に何か悪いことをした子が呼ばれる場所というイメージがあるため、どうしても忌避感がある。
手のひらに滲み出す汗を誤魔化そうとしていると、軽い電子音と共にエレベーターが止まった。吉田さんに追従し、蛍光灯が照らす廊下を突き進む。三つ目のドアの前で足を止めた彼に倣い、私も立ち止まった。
すぐ横のドアには、銀色のプレートが取り付けられている。「杜若陣」と彫られたそれを見て、ふと先日の記憶が蘇った。
「杜若教授って、確か吉田さんがお世話になっている?」
名前を聞いて、恐ろしく豪奢な日本家屋が目蓋の裏に浮かんだ。鬼に襲われたあの日、吉田さんが運んでくださった家だ。
お世話になっていると言うことは、杜若邸の主人である教授も、もしかしたらそのお連れ合いも吉田さんと同じく鬼なのだろうか。そんな疑問を抱えながら見上げると、吉田さんはあっさりと肯定する。
「そうだよ。この人も鬼だから」
木製のドアを軽くノックして入室を許可を待つ。記憶にある杜若教授の声とは異なる、溌剌とした声が中から聞こえてきた。間髪入れずにドアが内側に引っ張られる。
開いた戸の先。パチリと、アーモンド型の焦げ茶の瞳と目が合った。クルクルとした癖のある同色の髪の毛。控えめなサイズの鼻に、ふっくりとした唇から覗く白い前歯。キリリとした眉と愛嬌のある顔立ちのアンバランスさが、子犬のような青年が立っていた。
「うわぁ! はじめまして!」
「っは、はじめまして……」
なにも子犬感があるのは顔だけではなかったらしい。思わず一歩引いた私を追うように踏み出し、両手をしっかり握ってブンブンと振った。随分と活発な様子だ。
気圧されていることを取り繕えずに目を丸くしていれば、横で見ていた吉田さんがフォローを入れてくださる。
「時臣、落ち着いて。舛花さん、このお散歩前の犬みたいになってるのが藤原時臣。奥にいるのが、杜若陣さん」
少々ぞんざいな手つきで青年を押し退けた吉田さんに促され、部屋に入る。音を立てて背後でドアが閉まった。
「舛花澪です。よろしくお願いします」
二人に向けて、頭を下げる。空気が動いたことで部屋に漂う仄かな香の匂いを感じ取り、杜若邸で同じものを嗅いだことを思い出した。たまに吉田さんからも感じる匂いだ。
顔を上げて再び目が合った藤原さんに、ちぎれんばかりに振られる尻尾の幻を見る。まさしくお散歩を前にしたわんちゃんだった。
「法学部一年の藤原です」
「杜若陣です。と言っても、もう知ってるかな。僕の授業取ってるだろう?」
爽やかな喜色の滲む声に続いて、杜若教授のゆったりとした声が部屋に響く。山と積まれた紙の束──おそらくレポート──から目を上げた杜若教授は、長く伸びた前髪の奥の目を細めて笑顔を浮かべていた。
今まで教授をそこまで注視することがなかったので気付いていなかったが、なるほど鬼であるだけあって、整った面立ちをしていた。長めの前髪と分厚い眼鏡でそのほとんどが隠されているが、ツンとした唇も高い鼻も、彫刻のような完璧な配置をしている。全体的に彫りが深くハッキリとした顔立ちのようで、どこか異国の血を感じた。
「はい。その、毎週楽しみにしております……」
教授に対して講義の感想を言う経験がないので、しどろもどろになりながら答える。杜若教授は気分を害した様子もなく、むしろ「松太たちはもっと面白い話をしろと文句ばかりだからね。そう言ってもらえて嬉しいよ」と茶目っ気たっぷりに返してくださった。
「陣さん。余計なことを言わないでくれ」
「はは、ごめんね」
吉田さんはそれに不満げな顔をして抗議すると、私に向き直る。居住まいを正した彼に合わせて背筋を伸ばせば、それを見ていた藤原さんがクスリと笑った。
「さっきも言ったけど、二人を紹介するのは君に何かあったとき頼る相手を作る為だ。僕も四六時中そばにはいられないし、奏もいつでも手が空いてるわけじゃない」
「そうですね」
「だから、もしもの時は二人を頼ることも視野に入れてくれ」
吉田さんの真剣な声音に釣られて、私も気持ちを引き締める。
そんな空気を緩めるように、藤原さんが口を開いた。
「もしもじゃなくても、連絡してくれていいんだよ」
「そうだね。講義でわからないところや、詳しく知りたいことがあったら聞くといい」
「僕たちってほとんど不死だから、時間は有り余ってるんだ。知識量は人間が一生で得られないほど蓄えてる」
芝居がかった動きで胸を張る藤原さんに、吉田さんも同調する。
なるほど。不死というと物語では悪役の追い求めるものか悲劇といったイメージがあるが、そういった利点もあるのか。
そんなことを思っていた私に、吉田さんが耳打ちする。
「若く見えるけど、この中では時臣が一番おじいちゃんだよ」
「えっ」
「あ、ひどいなぁ! それは言わないお約束でしょ」
小声でもたらされた衝撃の事実に、一瞬時が止まった。百歳以上であることが確定している吉田さんより、年上ということか。
「上代文学は流石に無理だけど、中古文学は彼に聞くといいよ。生々しい話を交えて教えてくれる」
「それってまさか……」
「そのまさか。まぁ上代文学をちょっと昔の話程度の認識で、教養として身につけた人だから守備範囲ではあるだろうけど」
「え、あ、そ……」
思った以上の長生き具合に、空いた口が塞がらない。中古文学の時代を生きて、上代文学が“ちょっと昔の話”なら、概ね平安人ということではなかろうか。
失礼を承知でまじまじと藤原さんを観察する。
「ほら見ろ混乱しちゃってるじゃん! ここは軽いジャブで教授からいくべきだったでしょ!」
まさか苗字が藤原ということは、あの藤原氏に縁があるのでは。口説き文句に白居易の『長恨歌』を引用したりするのだろうか。
そんな目で見てしまったのか、藤原さんの悲鳴のような声が部屋に反響する。指差した先の杜若教授が面白そうに口を開いた。
「僕はだいたい十六世紀かな。南の方で生まれて、鬼になってからもフラフラしてたから曖昧だけど。織田信長と年が近いはず」
「は……?」
全く軽くはなかった。“軽いジャブ”と言うあたり明治大正あたりの学者かと思ったが、十六世紀といえば戦国時代じゃないか。
あまりにもの混乱に、頭が痛くなってくる。天を仰いだ私は「織田信長と年が近い」というパワーワードを必死で飲み込むのだった。




