第十七話 鴉天狗警察
重たいドアを引っ張り、隙間から温められた教室の中に滑り込む。滝野学園の講義室は、その時間帯に授業で使われていなければ誰が使用しても良い決まりだ。むしろ不必要な食堂の混雑を避けるために、昼食持参派はそちらで食べるように推奨されている。
今回吉田さんに指定された講義室は、二限も三限も使用予定がない。つまり、人の目のない教室ということだ。私たちは交際中とは言え偽装。その実片想いの相手と二人っきりでお昼なんて、少々心臓に負荷がかかるのではなかろうか。そう思っていた。教室に入って、墨をこぼしたような黒い眼と目が合うまでは。
「こ、こんにちは……」
「……こんにちは」
絹糸のような細い声が、歯の隙間から漏れ出る。木製の座面に腰を下ろし文庫本に視線を落としていた吉田さんのご友人は、ちらりと私を見ると低い声で返した。
「松太に呼ばれたか」
「はい。あの、吉田せ──吉田さんは?」
「飲み物を買いに行った」
パタリとページを閉じると、ご友人は目の前にある席を示す。二人がけの机の通路側に、吉田さんのものらしき荷物が置かれていた。座れという意味だろうが、荷物のない方に腰を下ろしたらすぐ横は壁である。逃げ場のない閉塞感のある場所に、威圧感のあるご友人がいる中で座る気持ちにはなれず、吉田さんの席の通路を挟んだ隣に腰を下ろした。
微妙に開いた距離を、なんとも言えない顔で見つめられる。それには意図して気づいていないフリをして、何ともなしに窓の外に視線を向けた。程なくして横顔に視線が突き刺さる。
「そうビクつくな。とって食いやしない」
空間に溶け込むような低く穏やかな声が、教室の空気を揺らした。今までのどこか鋭さのあるものとは違う、どちらかと言えば申し訳なさすら孕んだ声は、ご友人が発した言葉だ。
思わず顔を凝視してしまう。驚きのあまり何も言えずにいると、ご友人はそれを悪い方にとったようで、敵意がないことを示すように私に掌を向けた。
「……いや、原因は俺だな。今までの俺の態度が悪かった自覚はある。すまない」
頭を下げたご友人が、居住まいを正す。
「改めて、鴉天狗警察の煤竹奏だ。今までの非礼を詫びさせてほしい。少々、気が立っていたのだ」
ご友人改め、煤竹さんは、今までの鋭さが嘘のような顔で右手を差し出した。いや、顔面の構成パーツの人間離れした整い方ゆえに畏怖のような感情は未だに覚えるが、態度の軟化ゆえに打ち消されている。
反射的に握った手は、優しかった。痛くない力加減で、気を遣われているとすぐにわかる握り方だ。
「我々鴉天狗もあの鬼の動向は警戒していたのだ。にも関わらず君に手を出させてしまった。我々の怠慢だ」
真摯な態度で語られたのは、私の知らぬ間に進んでいた妖怪側の動きだった。
元から私は妖怪に狙われやすいタイプとして、彼らの中ではパトロール対象になっていたらしい。人間は妖怪に対面した場合、自衛の手段を持たない。それこそ、霊能力者でない限りは。それ故に私のようなタイプは、鴉天狗警察が定期的に厄介な妖怪に目をつけられていないか捜査するのだそう。
妖怪の世界の決まりでは、その存在理由と生存条件ゆえに、存在を示すために脅かすこと許容されているが、必要以上に危険に晒すことは許されていない。それは私たち人間のためでもあり、無闇に人に危害を加えた先の“信じる者”の減少により存在が危ぶまれる妖怪のためでもある。
しかし、吉田さんが私を庇う動きを見せたことで、鬼が私に目をつけてしまった。妖世界ではそもそも不用意な接触もあまり好ましくないとされているらしく、吉田さんの行動は善意から出たものではあるが褒められるものでもなく、当たりが強くなってしまったのだそうだ。
加えて、私の身に迫る危機を避ける為に鴉天狗の護衛を派遣したにも関わらず、私は襲われる結果となってしまった。組織の威信に関わる一大事に、吉田さんの自責の念からの護衛の申し出に対しても意固地になってしまったらしい。
「未熟なところを晒してしまった。今後はこのようなことがないように努める」
顔全体で「不覚」という意思を表す煤竹さんは、今にも切腹しそうな勢いである。年齢と容姿に似合わず武士のような性格をしているのだろうか。もしや本当に武士なのでは。百歳年上の吉田さんと同じように、彼もまた容姿からは考えられないほど長命なのだろうか。
そんな些末なことを考えながら、下げていた頭を上げてもらう。思いの外すんなりと従った煤竹さんは、ポケットから金色に光るものを出すと私の目の前にかざした。光を反射して、ゆらゆらと揺れながら煌めく。
「呼び鈴だ。鞄にでもつけてくれ。携帯でもいい」
ちりりと音を立てたのは、一円玉を一回り小さくしたサイズ感の鈴だった。煤竹さんの手の中で涼やかな音色を奏でている。綺麗な組紐が通され、なるほどストラップ状になっていた。
煤竹さんが言うには、これを鳴らすと鴉天狗警察の誰かが駆けつけてくれるらしい。吉田さんがそばにいる以上必要になるかは分からないが、ないよりはあったほうがいいだろう、とのことだ。その真剣な形相から、汚名を返上したいのだろうと察した。
「これ、揺れて鳴ったりしたら……」
けれど鈴という形態上、固定しなければ自然になってしまうこともあるだろう。そんな疑問を投げつければ、煤竹さんは心配いらないと首を横に振った。
「意図して鳴らさない限りは、こちらに通知は来ない。助けが必要なときに振ってくれ」
なんとも便利な呼び鈴が、私の手の中に落ちる。ポケットから出したスマートフォンのカバーに結びつけて見せれば、煤竹さんは満足そうに首を縦に振った。
「ありがとうございます」
ペコリと頭を下げる。
「礼には及ばない」という煤竹さんの声に合わせて顔をあげれば、入口のドアが音を立てて開いた。
「あれ、先に食べててくれてもよかったのに」
暖かい空気が逃げないようにするりとドアの隙間から滑り込んできた吉田さんは、オレンジキャップの暖かいお茶のペットボトルを机に置く。三人揃って用意した昼食を広げ、お昼が始まった。
ゆったりと椅子に腰掛けた吉田さんは、まずお茶に口をつけながら私と煤竹さんを交互に見つめる。
「仲良くなったかい?」
「……お前聞いていたな?」
どこか面白そうな、からかうような表情をしていた。煤竹さんが眉を顰める。なんの話か分からずにキョトンとしていると、吉田さんは悪戯っぽい表情で「ほんのちょっとだけだよ」と嘯いた。
「鬼の持つ特殊能力だ。こいつは聴覚が優れている。俺たちの会話を盗み聞きしてたってわけだ」
なるほど、お千代さんが言っていた「人知を超えた力」というわけか。納得するも、さすがに少し不快感を感じて眉に力が篭る。
煤竹さんが吉田さんに責めるような視線を向けた。
「聞こえたのは最後の鈴のくだりだけだよ。そこまで近づけば、申し訳ないけど否応なく“聞こえてしまう”んだ」
遠くの音を聞く場合はある程度コントロールが可能だが、近いと無条件に耳に入ってしまう。意識を逸らせばまた別だが、これから“行く先”と認識していれば、どうしようもない。
そんな説明になんとなく納得してしまう私に反して、煤竹さんはなおもムッとした表情をしていた。そこに吉田さんが何事か耳打ちすると、煤竹さんが鋭く拳を突き出す。笑顔で受け止めた吉田さんの様子を見るに、二人は気が置けない仲なんだなと察することができる。
一通り戯れた二人は同時に昼食に向き直ると、ややあって吉田さんだけ顔を上げた。おにぎりを一つお腹に収めて一息ついた私と、バッチリ目が合う。
「君は少し危なっかしいから、奏だけじゃなくて助けになる何人かを紹介するよ」
なんの前触れもなく笑顔でなされた宣告に、手のひらから二つ目のおにぎりがこぼれ落ちた。




