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夜明けの来ない世界で君と笑う  作者: 相川あきら
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第十三話 人柄

 特に何を調べるでもなく、机の上に乗せた独和辞典を捲る。視界に飛び込んでくるドイツ語をただぼんやりと眺めた。耳馴染みのある言葉も、ドイツ語になるだけで何でもかんでも力強く感じられる。やたら濁音と促音が多いし、アクセントもその印象を強める一因だろう。

 はぁ、と口から漏れるため息を、紙パックのオレンジジュースに口をつけることで誤魔化した。なにか元気が出るようなものを摂取したいと生協に寄り道して買ったが、たいして効果はないようだ。咥内に広がる酸味が、ほんの少し頭をスッキリとさせるだけ。


(鬼。鬼、ねぇ……)


 視線は辞典のページに落としていながらも、頭の中では全く別のことを考えていた。脳内を駆け巡っているのは、出掛けに会いにいったお千代さんとの会話についてだ。

 彼女は、あの変質者も吉田先輩も「鬼」だと言った。

 鬼について、私は知ることが少ない。もっと言えば、妖怪自体とあまり接点がない。お千代さん曰く昔はそこら中にいたらしいが、科学の発展した現代の世では妖怪を形作る“信じる力”が薄くなっており、次々と姿を消したのだそうだ。

 それでも生き残ったいわゆる“知名度”の安定している妖怪は、年に数回人間の前に姿を現すことで忘れ去られることを回避しつつ、人に紛れて生活しているらしい。確かに私も和菓子屋で小豆洗いが接客をしているところ──そこはおはぎを作ったりしているべきではないのか──を見たし、七五三の着物の着付けをしてくれた人が砂かけ婆でビビり倒した思い出がある。

 今までの私の人生で、厄介ごとを運んできたのは圧倒的に生身の人間の方が多い。それでも、怖いものは怖いのだ。彼らは生きる世の理が違う。

 私は生者の世界で生活しているため、仕方なしに生身の厄介ごとを処理して生きてきた。そして今、厄介な鬼に関わってしまった。あれからあの変質者がどうなったのか私は知らない。そして、その変質者と吉田先輩は、同じ鬼だという。


「おに、か……」

「ん、なんか言った?」

「いや、なんでもないよ」


 考え込んでいたためか、気づかぬうちに思考が口から漏れ出ていたようだ。ポツリと溢れた呟きを耳ざとく聞きつけた素子が、素早く反応した。

 朝イチで謝罪と共にお詫びのチョコレートを献上した素子は、それでも異変は見逃さないとばかりに定期的に私の様子を伺っている。私と柳木くんの会話内容を把握していないとはいえ、彼との話の後で様子がおかしくなった私を心配してくれているのだ。ここまで来ると申し訳なくなってくる。


(これ……)


 誤魔化すように教科書に挟んでいたレジュメを整理していると、今学期の初めに配られた授業の参考プリントが目に止まった。右端に記された自分の名前を指でなぞる。

 吉田先輩が言っていた忘れ物のプリントは、これのことだろう。字が綺麗で印象に残ったと言っていたが、自分ではあまり自分の字が綺麗だとは思わない。丁寧に書くように気をつけてはいるが、他人が見ると違うのだろうか。


『すぐに助けに入れなくて、申し訳なかった』


 ふと、初対面の時の先輩の誠実な言葉を思い出した。助けが遅れたことへの真摯な謝罪。あれは、鬼だろうと人だろうと関係ない、彼本人の人柄──鬼柄?──ではないだろうか。

 それなら、彼はやはり。

 そこまで考えたところで、講義室のドアが開いて根岸先生が入ってくる。終わりのない迷宮のような思考に蓋をし、十二月の頭に実施する中間テストの連絡に意識を向けた。

 時間は飛ぶように過ぎ去り、古いスピーカーがチャイムの音を鳴らす。バタバタと教室を出ていくクラスメイトを見送り、素子とテスト勉強の話をしながら立ち上がった。

 食堂を目指して廊下を歩いていると、正面から吉田先輩と連れ立って歩くご友人が歩いて来る。会いたい時には遭遇できなかったのに、顔を合わせたくなくなった途端に遭遇率が上がるのか。

 徐々に距離が縮まり、およそ一足一刀の間合いといった段階で、視線が絡み合った。吉田先輩が何か言いたげに唇を開く。声を発する前に、私が口を開いた。


「あの! 少しお話いいですか?」


 私が話しかけたことにより、吉田先輩もご友人も、ついでに素子も呆気にとられたように私を見ている。視線を一身に集めながら、私は祈るように高い位置にある瞳を見つめた。

 吉田先輩はそんな私の目を見て何かを悟ったのか、緩く頷く。素子に一言断りを入れて、歩いてきた道を逆行するように足を進めた。

 「場所はこちらで決めてもいいかい?」と言う吉田先輩に誘われたのは、ドイツ語の教室がある一号館の、一番上の階。それも一番奥の講義室だった。ただでさえ一号館は設備の古さから評判が悪く人が少ないのに、中途半端なサイズの教室が並ぶこの周辺はさらに輪をかけて人がいない。


「知ってしまったんだね?」


 私を先に教室に入れ、ゆっくりと音を立ててドアを閉めた吉田先輩は、妖しげな笑みを浮かべて問うた。上がり調子の語尾で疑問形の体裁を取っているのに、断定を強く感じる。

 後方のドアの前に、ご友人が移動した。そこでようやく、出入り口を押さえられた密室に閉じ込められていることに気がつく。

 しまった。退路を塞がれた。

 顔色は変えないように努力したが、変なところで警戒心が消失する自分に内心冷や汗が滝のように噴出している。幼少より厄介ごとを引き寄せる磁石のような体質と付き合ってきてなお、わたしは変なところで危機感を失うのだ。


「先輩が、人じゃないと聞きました」


 緊張で口の中が乾き、上擦った声が出た。いつのまにか握り締めていた手を解き、落ち着くために深く呼吸をする。

 先輩はそんな私の姿を見て小さく笑うと、次いでこてりと完璧な角度に首を傾けた。


「なんだと思う?」

「……鬼」


 蠱惑的な声で紡がれる問いに、短く返す。裏返りこそしなかったものの、自分で思うより低い声が出た。

 先輩の口角が上がり、笑みの形に唇を結ぶ。垂れた目は細められ、ぶわりと背筋に悪寒が走った。頭の中でようやく警笛が鳴り響く。もう少し早く作動してくれたら、密室にのこのこついて行ったりしなかったのに。寒さ覚悟で中庭でも提案するべきだった。


「鬼だとわかっているのに、着いてきたんだ? 少し危機感が足りないんじゃないかな?」


 おっしゃる通りだ。本当に、ごもっとも。

 重圧に押し潰されそうになりながら、目線を逸らす。痛いところを突かれ過ぎて、直視できない。


「先輩は、私を三度も助けてくださいました。もしそれが全部演技だとしたら──」

「食べられてしまうね。今。鬼は人の子の魂を食らうから」


 それでもなんとか声を絞り出せば、あっけなく切って捨てられた。何一つとして反論はできない。一瞬だった。

 私の第六感の精度がもっと高ければ、言い返せたのに。根拠が勘でも何も言い返せないよりはマシだと思う。

 停滞する思考を回し、なんとか言葉を探した。


「賭けてみようと思ったんです。痴漢から助けてくれた先輩は、誠実そうに見えました」


 口から出たものは、説得力のかけらもない主観の感想。つい先ほど考えていたことが、口からまろび出ただけ。

 それでも、震え始めた四肢に力を入れて視線を返した。こうなったら意地だ。

 睨めっこでもするかのように、先輩と視線をかち合わせたまま時が流れる。たっぷり十秒ほど置いて、先輩は大きく息を吐き出した。


「……はぁ。だから守るべきだと言ってるんだ」


 降参だとでも言うかのように、首を振ってハンズアップして言う。

 途端に空気は緩み、部屋に張り巡らされていた緊張感が霧散した。先輩の纏っていた怪しげな空気もたちどころに消えて、見慣れた微笑みに見つめられる。

 ついて行けずにぽかんとする私を他所に、先輩のご友人が口を開いた。

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