第十一話 衝突
「やっばいやばいやばい!」
二日間の休日を挟み、週明けの月曜日。
私はかつてないほどの速度で、自宅から最寄駅へと走っていた。今ならオリンピックで金メダルも夢じゃないほどのスピードである。いや、多少盛ったかもしれない。でも都大会は狙えると思う。
改札を駆け抜け、ギリギリ飛び乗った車内で乗り換えアプリを使って到着時刻を計算した。なんとか始業前に教室には滑り込めそうだが、不測の事態というものもある。
結局、学バスの遅延により私が一限の英語の教室に駆け込んだのは、チャイムが鳴ってから十分も経ってからだった。
息を切らせて座席の空きを確認していれば、奥側の中央に座った素子が手を振る。椅子に置いて場所取りをしてくれた鞄を取り上げるのと入れ違いで腰を下ろして、大きく息を吐き出した。
「死ぬかと思った……」
「先生いっつも職員室からこっち来るまで生協に寄り道してマンゴージュース買ってくるから、そんな急がなくても大丈夫だよ」
「でもバスの中で九時になったんだよ? 焦るでしょ……」
バックパックから水筒を出して、一口煽る。中の緑茶は、母方の祖母の地元がお茶の名産地であるために取り寄せているブランドだ。さっぱりとした喉越しに、額の汗がいくらかマシになったような気になる。
口から、濁点のついた「あー」が漏れ出た。素子が肩を震わせながら、「おじさんみたい」と茶化す。
力の抜けた腕をなんとか動かし、教科書とルーズリーフを引っ張り出した。先週の講義内容の続きに、ざっと目を通す。
その時、教室の入り口が音を立てて開いた。担当教諭ではない。どこかで見覚えのあるような、眼鏡の男性だ。
「事務の人だ」
どこからか、声が上がった。それなら、見覚えがあるはずだ。確か大学バスのパスポートを申し込むときに、手続きしてくれた人だ。
記憶を浚っていると、男性は教卓に設置されたマイクを取り上げて口を開いた。
「ブラウン先生は、電車遅延のために到着までもうしばらく時間がかかるそうです。よって、授業は三十分遅れで開始する予定です」
表情を少しも動かさないで並べられた言葉に、教室がざわめく。そのまま同じ内容を黒板に書き記す姿を見て、私も再びため息が口から飛び出た。
「もう少し早くアナウンスがあったら、私が連絡してあげられたのにね」
素子の言葉に首肯で返す。
運動不足のために、先程のダッシュで痛むふくらはぎをいたわるように揉んだ。
去っていく事務員を見送ってしばらくすると、空いていた目の前の席に、ふらりとやってきた柳木くんが腰を下ろした。
素子が顔を歪める。その顔面のパーツが全て中央に寄ったような表情に、必死に頬の裏の肉を噛んで笑いを堪えた。
あまりにもあからさまだ。私ですらもうちょっと隠すのに。
「舛花さ、土日に寺か神社行った?」
「行ってないけど」
とは言え私も彼には不信感が山のように積み上がっているので、あたたかい態度なんてとれない。
唐突で不躾な質問に、跳ねそうになる眉を押さえ込む。意図を測るために柳木くんの顔色を探れば、彼は考え込むように鼻を指で擦った。
「そうか……」
「……なに?」
「あー、いや、なんでも……」
「だからなに?」
煮え切らない意味深な態度を見せられ、苛立ちが募る。
何をもってして私が休日に寺社の類に行ったか気になったのだろう。どこかで目撃したとかだろうか。
それにしては、はっきりしない様子だ。どこそこの神社で見たなどと言われても不愉快ではあるが、この聞いておきながら濁す態度も気に食わない。
「臭いが……」
「におい?」
「臭いがしないんだよ」
隣で、素子が身動ぎした。個人的な会話に干渉しない気遣いは見せながらも、何かあったらすぐに割って入るぞという態度で、こちらを見ている。
言うに事欠いてそんな変態くさい理由を告げられるとは、呆気にとられて空いた口が塞がらない。
私たちが形容し難い表情でいることに気がついたのか、柳木くんは慌てて手を振った。体臭だとかを指摘したいわけではない。雰囲気とかオーラ的なものをそう喩えているだけだと弁明するが、説得力は感じられなかった。
「わかるんだよ。親の実家が寺って話したろ」
必死な様子で言い募る柳木くんに、ヒヤリと背筋に冷たいものが走る。
言及される。素子の目の前で。
世の中には秘密を打ち明けるのが信頼の証だとする人もいるだろうが、私はそうは思わない。“それを話す”こと自体に忌避を覚える人もいるだろう。打ち明けることそのものがトラウマであるなら、それすらも理解して黙っているという信頼関係もあると思うのだ。
私と素子がそこに達することができるかどうかは、まだ知り合って半年ほどなので断言はできないものの、そうなればいいなとは思う。
「私はあなたが何を言ってるのかわからない」
踏み込むなという意思を前面に押し出して、柳木くんの言葉を遮る。
これ以上来るな。そこで止まれ。ここで話すな。万感の思いを込めた視線は、彼には届かなかったらしい。
「さすがに踏み込まれたくないんだってわかるけどこれは──」
「なら踏み込まないでよ」
「本当に大事なことなんだって!」
私に拒絶され、柳木くんが声を大きくした。瞬間、教室は水を打ったように静まり返る。
突き刺さる幾つもの視線に、嫌な汗がブワリと吹き出した。
どうしてこの人は懲りずに私に関与しようとするのか。こちらはその気など一切ないのに。できれば離れた位置で、関わり合いにならずに大学生活を終えたいと願っているのに。
集まる視線を気にしたのか、柳木くんは前のめりになって声をひそめる。近づいた距離が不快で、反射的に身をのけぞらせた。
「詳しくは話せないけど、お前に張り付いてた悪霊の気配が消えてるんだよ」
「……は?」
手入れのされていないカサついた唇が紡いだ言葉に、思考が止まる。
脳内に、一つの心当たりが浮上した。先週、駅向こうで襲ってきた変態だ。思えば校内でつけ回された時から不可解な視線を感じるようにもなっていたし、彼のいう悪霊はあの男を指すのかもしれない。
けれど、私も幽霊の類に関しては素人ではない。毛が生えた程度かもしれないが、そこらの“見えない”人よりかは断然一家言ある。
あれは、生きた人間の気配だった。幽霊や妖怪の類は独特な気配があるのだ。物心つく前に部屋の片隅に佇む曽祖母の霊に笑顔で手を振っていた私は、対幽霊歴も長いのである。
「それについては心当たりはあるけど……」
「何があった?」
「柳木くんに話す義理はないよね」
再び声を荒げそうになった柳木くんを、素子の咳払いが押し留めた。出鼻を挫かれた柳木くんは、苛立たしげに机を指で弾く。
あからさまにかけられるプレッシャーに、胃が痛い。どっかに行ってくれればいいのに、わざわざその場に止まって苛立ちをアピールするということに、彼の意固地さを見た。
要は「話すまで俺はここを離れないぞ」という意思表示だ。
正直友人でもなんでもない、私の被害を茶化すような彼にあの出来事を語るのは非常に気が引ける。それでも、彼がそれで気が済むのならと私は重たい口を開いた。
「問題ないよ。少し襲われたけど、誰かが助けてくれたし」
「誰かって?」
「わからないけど、その後吉田先輩が保護してくれて──」
バンッ、と大きな音がした。
目の前の机に、柳木くんのゴツゴツした手が叩きつけられたのだ。呆気にとられて机から身を離した私の横で、素子が声を荒げる。
それをねじ伏せるように、柳木くんは低い唸るような声を発した。
「なんでそんなに吉田松太を信用するんだよ! アイツは人間じゃないんだぞ……!」
聞き捨てならない言葉に、私の一瞬天に昇りかけた意識が戻ってくる。
人間じゃない。吉田先輩が、人間じゃない?
見上げた先の柳木くんの顔は、後悔で染まっていた。眉間に深く刻まれたシワが、言うはずではなかったことを言ってしまったと物語っている。
素子には聞こえなかったようで、彼女は苛立たしげに近い距離にある私と吉田くんの顔を引き離そうとしている。
(……人間じゃない?)
おうむ返しするように動いた唇に、彼は自分の発言が私に届いていたことを確信したのか、椅子から立ち上がった。
「忘れろ!」
そんな捨て台詞のような言葉を吐いて、素子の制止も振り切ると、自らの席に戻って荷物を取り上げる。
マンゴージュースのパックに刺さるストローを咥えながら入室した英語教師と入れ違いに出ていく背中を、私は見送ることしかできなかった。




