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夜明けの来ない世界で君と笑う  作者: 相川あきら
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第十話 警鐘

 どこか覚えのある香りが鼻腔をかすめ、意識が浮上する。薄暗がりでもわかる立派な木目の天井と目があった。

 ここはどこ。流石に私は誰、とは思わないものの、見覚えのない空間に頭が混乱する。

 和室だ。今時なかなか見ない、立派な和室。さながら温泉旅館の一室のような。視界の端に見える頭上に置かれた行燈のほのかな灯りが、床の間に飾られた掛け軸を照らしていた。

 作者も制作年代も、残念ながら知識のない私には全くわからない。それでも季節に合わせているのか、描かれた見事な紅葉は美しかった。

 そうじゃない。掛け軸に感心している場合じゃない。ここはどこだ。思った以上にとっ散らかっている思考を、どうにかまとめあげる。


(確か、変態に襲われて、誰かに助けられた……? それでここに運ばれた、とか?)


 記憶を反芻しながら身を起こし、辺りを見回す。行燈の光の届くギリギリに、私のバックパックが置いてあることに気がついた。枕元に畳まれていたカーディガンを羽織り、布団から抜け出す。

 その時、背後の襖が微かな音を立てて開いた。


「あら、目が覚めたの?」

「あ、は、はい。おはようございます……?」

「ふふ、おはよう。松太さんを呼んでくるわね」


 顔を覗かせたのは、三十代半ばくらいの女性だ。恐ろしいほどに整った顔立ちには、どこか既視感を覚える。起き上がった私を見て安堵したように肩を撫で下ろすと、襖を閉めてしまった。残された私は、追いかけることも出来ずに当初の目的通りバックパックのところへ這って行く。

 なんだったんだ、一体。彼女は誰だ。

 混乱する頭をどうにかなだめ、サイドポケットからスマートフォンを取り出し、スリープを解除する。

 表示された時刻は、ナンパに絡まれて立ち寄ったトイレで確認した時刻の、一時間半後ほどを示していた。あれがショッピングモールを出てすぐの出来事であることを加味すると、一時間と少し、私は意識を失っていたらしい。

 ぱたぱたと足早に歩く音が耳に入り、顔を上げた。勢いよく襖が開いて、人影が覗く。吉田先輩だった。

 私と目が合って大きく息を吐き出した先輩は、へにゃりと力の抜けた笑顔を浮かべた。


「あぁ、よかった。目が覚めたかい?」

「はい。あの、えぇと……」


 流れるような動作で部屋に入ってきた先輩は、私の手前で膝を折ると座り込む私の顔を覗き込む。緩く笑みの形に結ばれた口元と、安堵に垂れた目尻に胸が高鳴った。

 まず礼を言うべきだと叫ぶ私の常識的な部分と、山と積まれた聞きたいことを問いたい欲求が、喧嘩を始める。口籠る私を見て察したのか、吉田先輩は先回りするように口を開いた。


「ここは、僕がお世話になってる人の家だよ」

「お世話に……。下宿みたいな?」

「そんな感じかな」


 会釈を流した素っ気無い態度など嘘のように、柔らかに会話が紡がれる。どうやらこの家は、柳木くんが言っていた彼の親戚で滝野学園で教鞭を執る教授の家らしい。自宅から通うよりも交通の便がいいと、お世話になっているのだとか。

 話を聞くに、彼はショッピングモールの裏手の道で倒れていた私を見つけ、ここに運んでくれたようだ。家主である杜若(かきつばた)教授と帰宅時間が偶然被り、教授の買い物に付き合っていたところ、裏道に面した出入り口を通る私を見て心配になって後を追った。


「倒れている君を見た時は、肝が冷えたよ」

「倒れてた……」

「虫の知らせって言うのかな? 何か予感がして、追いかけたんだ。もっと早く追いかければ、怪我をすることもなかったんだろうけど」


 後悔の滲む声音に、吉田先輩を見つめる。

 「けが……」と呟けば、苦々しい表情を浮かべた彼が自分の左側頭部を撫でた。


「ここ、たんこぶになってるだろ」


 つられるようにして、私も右の側頭部を触る。確かに、ぷっくりと腫れ上がっている部分があった。

 「痛い」と小さく上げた悲鳴に、先輩の方がよほど痛そうに顔をしかめる。


「この家のかかりつけ医に見てもらって、とりあえず異常なしとは言われたけど、しばらく気をつけておいて。何かあったら病院に」

「助けていただいた上にお医者様にまで見せていただき、ありがとうございます」


 お医者まで手配してもらっていた事実に、体が震える。この日本間の感じがこの家のデフォルトである限り大分豪奢なお家だと思われるのだが、呼んですぐ来る医者までいるのか。住む世界が違う。

 平身低頭で感謝と詫びを伝えれば、頭を上げてくれと促された。


「そう言えば、私の他に、誰かいませんでしたか……?」

「誰か……。いや、居なかったように思うけど」

「そう、ですか……」


 確か、意識の途切れる前に変態と対峙する二つの影を見たはずだ。吉田先輩の関係者だろうかと問うてみれば、少し考え込む様子を見せた後に否定を返される。

 それなら、あの男を退治してくれた恩人が別にいるのか。握り締めたままのスマートフォンに視線を落として考え込む。

 なぜ姿を消してしまったのだろう。通りすがりの親切な人に想いを馳せていれば、おもむろに吉田先輩が口を開いた。


「それより、家に連絡した方がいいんじゃないかな? ここについて三十分ほどで目覚めたけど、帰りが遅くて心配してるかも」

「あぁ、今日はどちらの親も仕事で遅いので、大丈夫だと思います」


 一応一報は入れたほうがいいだろうが、今でなくていい。そう思いつつ、返事をする。

 それよりも、あまり長くお世話になることは気が引けて、できるだけ早くお暇したかった。

 そんな私の焦燥が神に届いたのか、襖の向こうから涼やかな声が響く。


「松太さん。烏羽(からすば)さんが駅まで送ってくださるそうよ」


 この声は、おそらく先ほどのご婦人だ。

 吉田先輩は声を張って了承の意を示すと、私を振り返った。


「今のは教授のごし──」

「……ごし?」

「御夫人の、寿美子(すみこ)さん」


 噛んだのか、それとも言い間違えたのか、少し照れたようにそっぽを向いた先輩が、頭をかく。

 仕切り直すようにわざと大きめの声でハキハキと話す姿を見て、頭のてっぺんから爪先まで完璧な先輩にも可愛らしいところがあるんだなと思った。


「こんばんは。お嬢ちゃん」


 吉田先輩の先導でどう考えても豪邸にカテゴライズされる内装の家を脱出した私は、家の前に停められた車に寄りかかる男性を見て目を丸くした。

 吉田先輩、このご友人の男子学生、下宿先の教授の御夫人である寿美子さんときたら、いい加減慣れそうなものだが、人間離れした美丈夫が立っていたのだ。度肝も抜かれよう。

 正統派美術品顔の吉田先輩とも、繊細そうに見えて鋭い刃物のような先輩のご友人とも違う、糖分過多な甘いマスク。大人の色気と言うのだろうか、そういったものに免疫のない私は完全に圧に負けてしまった。


「こ、こんばんは……」

「オイオイ、そう固くなりなさんなって。取って食ったりしないさ」

「烏羽」


 一言を絞り出すのがやっとな私に、軽い調子で答える。深みのある落ち着いた声が、ビリビリと鼓膜を揺らした。

 圧倒される私に気がついたのか、吉田先輩が少し険しい顔をする。


「ふは、なんだァ? 随分と過保護だな。確かに狙われやすそうだが──」

「烏羽!」


 揶揄うように身を乗り出した男に、吉田先輩が声を荒げた。

 それを聞いてようやく、目の前に立つ男が寿美子さんの言った「駅まで送ってくれる“烏羽さん”」なのだと気がついた。

 どうやら引き際は間違えない人らしく、最後にちらりと私と吉田先輩を見比べて、車のドアを開ける。スポーツカーを乗り回していそうな見た目に反して、普通によく見る日本車だった。

 恐る恐る乗り込めば、反対のドアから吉田先輩が入ってくる。ほんの数十センチの距離な上、おまけに密室。高鳴る心臓を誤魔化すように視線を泳がせていれば、バックミラー越しに目の合った烏羽さんがニンマリと目を細めた。


(バレた? これはバレたのでは?)


 全く恋心を忍べていない自分に、愕然とする。初対面の人相手にすら隠せていないとは。平兼盛の気持ちが身に染みて理解できる。

 非常に安全運転な送迎はあっという間に終わりの時間を迎え、再度吉田先輩と送ってくださった烏羽さんに頭を下げた私は、恙無(つつがな)く帰宅することができた。

 誰もいないがらんどうの自宅に出迎えられ、ほうと大きく息をつく。変に緊張したせいか、疲労度がいつもの五割増だった。

 スマートフォンに届いた素子の謝罪メッセージに、スタンプを送り返して冷蔵庫を漁る。麦茶をコップに注ぎ、口をつける直前に手洗いもうがいも済ませていないことに気がついた。

 カーディガンを脱ぎ捨て、洗面所兼脱衣所に行ったついでにお風呂のスイッチを入れる。夕飯は昨日のあまりがあると言っていたから、風呂が沸くのを待ちながら軽く食べて、入浴を済ませたらすぐに寝てしまおう。

 洗面所の鏡に映った私は、どこかぼんやりとした表情を浮かべていた。

 大きく息を吸い、吐き出す。手を洗って、うがいを済ませて、タオルで拭った手で髪の毛をかき上げて気がついた。


「これ、血……?」


 指先に付着する、乾いた赤いかけら。手でわさわさと乱してみると、タンコブになった側頭部からパラパラと落ちる。

 多くはないが、掻き毟って出来た傷の瘡蓋が剥がれたと言う程度でもない量。明らかな出血の痕跡。

 吉田先輩は出血するほどの傷があったとは話していなかった。タンコブができているから気をつけて、としか。

 鏡に映る自分の顔から、血の気が引く。何か良からぬものに触れてしまったように、私の脳内に警鐘が鳴り響いた。

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