第一話 出会いはハプニングと共に
人生にハンドルを取り付けて、自分でコントロールできればいいのに。そうすればきっと私も、もうちょっとマシな生を歩めたのだ。平平凡凡でいい。欲張りはしないから、程よい起伏のトラブルの少ない人生を。そう願うことはわがままだろうか。
私は幼い頃から、厄介ごとに好かれるタイプだった。望んでもいないのにトラブルが私の周りに集まってくる。それこそ夏場に街灯に群がる羽虫のように。相手は大抵は生身の生きた人間だけど、たまに、そうたまに、生きていない人間やそもそも人間じゃない場合もあった。
これを言えば頭がおかしいと思われるだろうから今まで誰にも言ったことはないのだけれど、私には幽霊だとか妖怪の類が見えるのだ。そこに存在しないものが見えるのである。
もしみんなが言わないだけで、道端に半透明の血だらけの女の人が立っていたり、目が一つしかない男の人に見つめられたことがあるって言うのなら話は別だ。でもそうじゃないなら、やっぱり私は見えちゃいけないものが見えてるってことになる。私はそれを、両手足の指を足しても到底足りないほどに経験したことがあるのだ。
私がうっかり人ならざるものを見てしまった時、大抵は、何も起こらない。あいつら──つまり実際にあるのかは知らないが、妖怪とか幽霊のコミュニティー──にも何かしらルールのようなものがあるのか、私が見える人間というだけで興味を持ったふうに近寄ってくることはあるけれど、積極的に接触してくるようなことはあまりなかった。
ごく稀に、幽霊から成仏を手伝ってくれと依頼されることがある。でも残念ながら私は見えるだけで聖なる力の類はないから、祓ったり導いたりなんてできない。そういう時は申し訳ないけれど知らんぷりに限る。下手に協力しようとして生きている人間に不審がられるのは、懲り懲りだからだ。あくまでも私が生活しているのは、生きている人間のコミュニティーなのである。
それで、まぁ、私は非常に厄介ごとに好かれるタチなのだけれど、その厄介ごとはやっぱり生身の人間相手の方が断然多かった。
今もそう。私の後頭部に鼻を埋めて、荒々しい呼吸を繰り返す不審者が、目下の厄介ごとだ。
時は約十分前に遡る。今年の春から通い始めた大学に向かうため、いつもの通りに私は電車を乗り換えた。
ドアのすぐ横。私の降車駅まで開かないそこは、通学中の定位置と化していた。座席の横板にもたれかかり、本を読むのだ。でも今日に限って、私は立った状態でウトウトと船を漕いでいた。それ故に、私は自分の背後に立つ不審な人影に気が付かなかった。
眠かったのだ。単純に。昨夜は予習のために遅くまで起きていたし、連日どうにも寝付きが悪くて就寝時間が不規則だった。
ほんの十分、大学の最寄駅に着くまでの間だけ。本当は座席に腰を下ろした状態がベストだったが、多分そこまですると寝過ごしてしまう。降車駅では目の前のドアが開くから、乗り過ごすこともないだろう。
ふわりふわりと夢の世界へ片足を踏み入れた私は、一分と経たずに現実に立ち戻った。
(え、なに? 誰……?)
背後にピッタリ張り付くように立つ誰かの存在を感じたのだ。電車の揺れに合わせて私の背と相手の腹が当たり、生暖かい他人の体温が、羽織った薄いパーカー越しに伝わる。
まず最初に友人の悪戯を疑ったが、そんな悪ふざけをし合うような相手は、残念ながら交友関係の狭い私には存在しなかった。一応いることにはいるが、通学に使用する路線が違う。
また、そこまででもないが仲のいいクラスメイトは、次の停車駅で乗り込んでくるのだ。
つまり、この背後の不可解な存在は見ず知らずの人間ということになる。
うっすら聞こえる呼吸音からして、多分私よりも背が高い。私自身が日本人女性の平均をやや上回る身長のため、おそらく男性だ。
俯けていた首はそのままに、ゆるゆると視線だけをあげる。正面のドアのガラスを見た。
(いや、本当に誰よ……)
ガラス越しに見えたのは、やはり男性だった。もちろん知人ではない。私の後頭部をジッと凝視しながら突っ立っている。
異様だ。
通勤ラッシュのピークを過ぎた時間帯で、車内はそれほど混み合ってはいない。まばらに立っている人はいるが、ここまで接近して立つ必要性があるとは到底思えなかった。
人間は理解できないものを恐れる。必要のない密接な距離感と不躾な視線に、私の体は恐怖に固まった。
訳がわからない。
正直伝わってくる体温は不快でしかないし、どうにかしてこの場から離れたい。
ドア横のバーを手のひらが痛くなるくらいに掴む。あと少しで折れるんじゃないかというほど力を入れたところで、車窓から見える流れて行く景色のスピードがゆったりになったことに気がついた。
降りよう。降りるフリをして、車両を替えよう。
車体を揺らしながら、電車が止まる。反対側のドアが開く音がして、私は体を動かした。
(ひっ……!)
瞬間、首筋にかかった生温かい風に震える。下ろした髪の毛越しに、吐息を感じたのだ。
気持ちが悪い。ゾワゾワとした寒気が、背中を撫であげた。こんなの、ドラゴンの吐息を正面から浴びせられる方が幾らかマシだ。
きつく目を瞑り、体を縮こめる。車内マナーだからと腹側に回したリュックが恨めしかった。これ以上ないほどにドアに擦り寄り、男から離れる。
それでも、その隙間はすぐに埋められた。密着とは言えない程度に、振動に合わせて体が触れ合う。
付かず離れず、熱気の伝わる距離感。
吐き気がする。
これでやめろと訴えたところで、逆に私が自意識過剰と罵られるだけだろう。意図的に触られているわけではいないのだから。ただ近くに立っているだけ。揺れでぶつかってしまっただけ。息をしているだけ。
退こうとした私を妨害するように頸に息を吹きかけ、自分は決して離れて行かないのを棚に上げて、私が過敏だと被害者のような顔で言うのだ。
周囲も助けてはくれないだろう。
だって今までの人生ずっとそうだった。
私が厄介ごとに巻き込まれようと、誰も手を貸してはくれなかった。助けてなんてくれなかった。私のちょっとした不注意を並べ立て、私が悪いと断罪するのだ。
下唇を血が滲み出るほどに噛み締める。
怒りと悔しさに、視界が赤く染まった。
荒い呼気が、髪の毛をかき分ける。スカートの生地越しに、太腿を指が撫であげた。
とうとうここまで。手のひらに立てた爪が、肉にめり込んだ。
「斎藤さん! おはよう」
その瞬間、落ち着いた滑らかな声が、私と男の間を切り裂いた。体に沿って下ろしていた左手首を暖かいものが包み、ぐいとドアと男の体の間から引き出される。
二、三歩よろけて、何か硬い壁に受け止められた。
「はぇ……」
「おはよう」
「あの、私──」
「おはよう」
「あ、お、おはようございます……?」
声の聞こえてくる方に顔を向ければ、全く見覚えのない顔に見下ろされている。さっきの背後に立つ不審者とは違う人だ。
どうやら私を引っ張り出してくれたらしい。壁だと思ったのは胸板だった。鍛えているのかびくともしない。体幹が強いことも一因かなと場違いなことを考えた。
私は斎藤なんて名前じゃないとか、そもそもどなたですかとか、幾つも浮かんだ台詞は笑顔で黙殺される。つっかえながらもなんとか挨拶を返せば、いつのまにか降車駅に到着していたようでホームへと引っ張り出された。
少し肌寒さを孕んだ風が、顔を撫でる。
閉まるドア越しに目があった男が不愉快そうな顔をしているのを見て、ようやく私は自分が窮地を脱したことに気がついたのだった。




