希望と絶望
クローバー号の船内。整然と並べられたカプセルの間を揺れながら動く人影がある。
『みんなを危険な目にあわせておいて、わたしだけ地上に残るなんてそんなことできないじゃない。みんな安心して、わたしが責任をもって送り出してあげるから。みんなの命はけっして無駄にはしないわ』
「こちらハル。聞こえますか? こちらハル。ヨシアキさん、ナツヒサさん、聞こえますか?」
ハルはヘルメットの通信ボタンを押し、話しかけた。ハルの声はクローバー号に最低限残されていた通信装置を経由して惑星の管制室へと送られた。ハルはまったく気づいていなかったが、クローバー号の通信機器が中継となりハルの声が惑星へ送られたのは単なる偶然、いや奇跡といってよいだろう。
ハルは地上へ呼びかけながら、ふとヘルメットにぼんやり映る自分の顔を見て驚いた。長い髪は乱れ、あちこちまだらに汚れ、いくつかある傷口からは血がにじんでいる。そのうえ顔全体がむくんでいるようだ。いつからこんな顔だったんだろう。うつろな心でその姿を見つめながら、ヨシアキからの返事を待った。
*
砂嵐もだいぶ収まり、やっとまともに前を向いて歩けるようになった。地上に残された建造物の間を手探りで歩くのは、思いのほかやっかいで、足を引っ掛けては何度も転んだ。やっと平坦な場所へ出たと思うと、ヨシアキはヘルメットの前面に表示された、管制室からの音声通信ありの通知に気がついた。同時に表示されているハルの名前を確認すると、ナツヒサのヘルメットをつつき、会話が聞ける設定にするよう促した。スイッチを押し会話状態にすると、雑音に混じっていつものハルの明るい声が聞こえてきた。
「こちらヨシアキ。ハルだな? いまどこにいる?」
「…ザザッ…もう一度お願い…」
「こちらヨシアキ。どこにいますか?」
「ザザッ…クローバ…ザザッ…。大気圏を脱出…ザッ…、予定通り…ザザッ…けて航行中。順調に進んでいるわ」
「よく聞き取れなかった。もういちどいってくれるか? いまどこにいるんだ?」
「こち…ザッ…クローバー号の中よ。ラ・プリム銀河を目標に航行中。すべて順調よ」
ヨシアキはハルが何をいっているのかすぐには理解できなかったが、その意味に気がついたとき、愕然とした。隣でふたりのやり取りを聞いていたナツヒサの顔は青ざめている。
このわずかの間に砂嵐はふたたび完全にやみ、ヨシアキが見上げた空にはどこまでも深い群青色が広がっている。昼間にもかかわらず、恒星がいくつもぎらぎら輝き、ラ・プリム銀河がひときわ明るく輝いている。そういえば、子供の頃にこんな景色を見たことがあったような気がする。あれは実際の風景ではなくて絵本の中の風景だったのだろうか。昔の宇宙船乗りはこんな景色の中を宇宙へと向かったのだろうか。
スピーカーからの雑音はしだいになくなり、ハルの声もはっきりと聞こえるようになっていた。
「ハル、おまえ何やってるんだ。ずっとそこにいたのか?」
「ええ、みんなを無事に送り出すことがわたしの使命だから、やっぱり地上に残るなんてできなかったの」
「もう戻ってこれないんだぞ!」
「わかってるわ」
ナツヒサがたまらず横から割り込んできた。
「ハルさん! ナツヒサです。クローバー号の燃料はまだ残っていると思うから、今すぐ引き返せばなんとかなります!」
「それは本当か! ナツヒサ、どうすればいいんだ」
「ちょっと聞いて!」
はじめて聞くハルの強い口調に2人は黙った。
「ふたりともありがとう。戻れないのはじゅうぶん承知のうえよ。でもこの計画はどうしても失敗させるわけにはいかないの。カプセルの中で眠っているみんなのことを考えてみて。どれだけ大きな決心をしてこの計画にのぞんでくれたか。みんな命をかけてるのよ。わたしひとりの命なんてどうってことない」
「そんな……」
「ハル、おまえ…」
「それより、もうすぐカプセルの放出が始まる時間になるわ。おねがい、みんなを無事に“希望の地”に送り出せるか、静かに見届けさせて」
「……わかった。頼んだぞ、ハル」
ナツヒサは無言で地面を見つめるばかりだった。
*
〈33、32、31…〉
確認用に設置されたカウンターの赤い文字は秒読みを始めている。
『あと少しね』
ゴロン、ゴロン、ゴロン。船内では低い音を立てながらモーターが動きはじめ、その音と振動は宇宙船全体にこだましはじめた。
〈18、17、16…〉
『いよいよだわ』
ガラロン、ガラロン、ガラロン。先ほどとは違う別の少し高い音もまじり始めた。それらの機械音に包まれながら、ハルはつばを飲み込み、カウンターを見つめている。
〈9、8、7…〉
ガラロン、ガラロン、ガラガラガラガラ、ピピピピピピピピ!
突然船内にけたたましい警告音が響きわたり、明滅する赤い光に包まれた。
『なに?』
カウンターには〈エラー〉の文字が表示されている。
『あともう少しだったのに、どうしたらいいの!?』
ハルは通話機の電源を入れ話しかけた。
「こちらハル! トラブル発生! トラブル発生! 誰か聞こえたら応答願います! こちらハル、トラブル発生!」
「…………」
「誰か聞こえますか!」
「……ヨシアキ…んとか聞こえる……起こった……」
「よかった。警告音が鳴ってエラーになってしまったの。どうしたらいいの? このままじゃ、これまでの苦労がすべてだいなしよ」
「…いちどいってくれ」
「扉が開かないみたいなの。どうしたらいいの?」
「…やっとまともに聞こえるようになったぞ。こちらの声は聞こえているか? その警告音は何だ?」
「ちゃんと聞こえているわ。カプセルを送り出す扉が開かないみたいなの」
「わかった。ナツヒサから話をさせるから、ちょっと待ってくれ。まずは落ち着け」
「ええ、わかったわ」
少し間を置きナツヒサの落ち着いた声が聞こえてきた。
「ハルさん、もう少し状況を詳しく教えてください」
「はい。カプセルを放出するカウントダウンが始まって、残り7秒のところで止まってアラームが鳴っているの。カウンターにはエラーの文字が表示されているわ」
「わかりました。とりあえずハルさんはヘルメットをちゃんとかぶってください。扉を開くと空気がすべてなくなってしまいますので。だいじょうぶですね?」
「ええ、だいじょうぶよ」
「おそらく扉のロックが外れなくなっているんだと思います。左側中央の扉の脇に赤いレバーがあるのがわかりますか?」
「ちょっと待って、そっちへ移動してみるわ。……ロックと書かれているレバーならあるわ」
「それです。それを反時計回りに180度回してください」
「了解」
ハルがハンドルを回すと、カチッというかすかな手応えを感じた。赤いレバーはいつの間にか緑に変化している。
「回したわ」
「次はカウンターの前に移動して、右下のアラームボタンを押してください」
「はい。……………あ、警告音がやんだわ」
船内はふたたび静寂に包まれた。ハルは自分の荒々しい息づかいに気づきハッとした。
『冷静なつもりでいたのに、こんなにも動揺していたのね』
「ハルさん………。ハルさん?」
「あ、ええ、聞こえているわ」
「最後に、カウンターの右にリセットと書かれたオレンジのボタンがありますよね? そのボタンを押すとカウントダウンが始まります」
「ありがとう。やってみるわ」
ハルがボタンを押すと、カウンターがふたたび動きはじめた。
〈6、5…〉
扉が開きはじめ、船内の空気が音を立てて吐き出される代わりに、闇が滑り込んできた。
〈4、3、2、1…〉
カプセルはひとつずつ宇宙空間へと滑るように飛び出していった。青く小さな炎を灯し、それぞれプログラムされた方角に向かってゆっくりと進んでいく。
「うまくいったわ! 大成功よ!」
「やった!」
ハルは最後に射出されたカプセルを見送ると、それらの軌道をコクピットにあるレーダーで確認した。それぞれの輝点は宇宙船を中心にして扇状に散らばっていく。
『これでもうやれることはやったわ。あとはうまくいくことを祈るだけね』
緊張から解き放たれたハルはぐったりとして、しばらく放心していたが、やっと思い出したように通話機のボタンを押していった。
「ハル、任務を無事遂行しました。ふたりともありがとう。楽しかったわ。もうすぐ通信も届かなくなりそうね。みなさんによろしく。じゃあね。さようなら」
*
「ハル聞こえますか。聞こえたら応答願います」
地上ではヨシアキがさかんによびかけていた。すると、わずかな反応があった。
「……もうす…も……くな………さ…に…よ……う…」
「おい、ハル。もういちどいってくれ。ハル、聞こえますか? 応答願います。ハル!」
「ハルさん!」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
帰ってくるのはかすかな雑音ばかりで、二度とハルの声が届くことはなかった。
男たちは無言で群青色の空を見上げた。満天の星がきらめき、いくつかの星がまたたいて、消えた気がした。
「水…」
「ナツヒサ、どうした」
「これ水じゃないのか?」
ナツヒサはヘルメットに付いたいくつかのしずくを指さしていった。
「水だって? 水なんて落ちてくるはずが…」
ヨシアキは自分の目を疑った。
『確かに水滴のようだが、地上に水なんてあるはずがない。水とは違う何かの液体だろう』
ナツヒサに話しかけようと振り向いたとき、瓦礫の割れ目にある緑色のものが視界に入ってきた。
「あれは何だ。植物、なのか?」
思わず声に出していた。目が慣れてくると、あちらこちらの隙間に生えているのが見えてきた。
「これはいったいどういうことだ……」
*
『みんな無事に新しい希望の地に着けますように』
レーダー上のカプセルの輝点はすべて見えなくなってしまった。ハルは飛び立っていったミノリやナオキをはじめみんなの手の温もりを思い出していた。
『けっこう飛んだのね。スプラニークがもうあんなに小さくなってしまったわ』
突然ハルの目の前にランプが表示された。防護服の酸素がなくなる警告だった。残り2パーセント。替えの防護服や酸素などはない。ハルはこの現実を受け入れるしかなかった。
いつかこうなることはわかっていたが、心の準備などできるものではない。はぁ、はぁ、はぁ。冷静でいようとしても緊張で息が荒くなる。汗が長い髪をべったりと濡らし顔にはり付いているのがわかる。どくん、どくん、どくん。心臓の音が大きくなる。汗が目に入り視界がぼやける。はぁ、はぁ、はぁ。まだ、死にたくない……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、う、うぐっ………意識を失いかけたハルは体に電気が走ったように感じ、無意識のうちに手を伸ばした。それは助けを求めるものではなく、愛しい誰かを追いかけるかのようであった。
『ねぇ、待って……』
ハルの目にはいつか見たステンドグラスの色鮮やかな草花の光景が広がっていた。
『あぁ、なんてきれいなの………』
しかし実際には、ハルが手を伸ばした先には、静寂に包まれ冷えきった船内と、壁を隔てたその先に漆黒の宇宙空間が広がっているだけだった。
ハルは…動かなくなったハルは、これ以上ない満ち足りた表情をたたえ、その体は、ふわりと浮かび上がった。
*
ハルを乗せたクローバー号は燃料のかぎり飛び続け、ほどなく燃料が底をつくと、そのまま宇宙空間を漂う塵になった。
ラ・プリム銀河がどこまでも美しく輝いていた。