act.1
この浮遊島に降る雨は、下からやってくる。
ぽつぽつ、ぽつぽつと。
私は視線を下ろして、待望の雨雲に心を躍らせた。
足下から濡れてくるというのは、人間たちにとっては不快極まりないらしく、みんなすぐに家へ閉じこもってしまう。私にとってはいいような、悪いような。
いや、結局はいいんだ。
誰も聴く人がいないからこそ、歌えるのだから。
私は雨をあびながら、そっと木の板を繋ぎ合わせただけのキャットウォークに腰かける。ぎし、と軋んだ。
魚の下半身をぶらぶらと踊らせて静かに息を吸う。
ピアノ伴奏は、いつだって頭の中で響き渡ってくるから。
「らんらーらんらんらーらっらっららー」
口ずさむ。
私の透き通る声は、足元に広がる曇り空と、頭上に広がる青空に溶けていく。
誰もいないリサイタル。
たった独りぼっちの、ステージ。
歌う曲は、かつて世界に君臨した四人の魔王を巡る悲しい物語の唄。最初は仲が良かったのに、空の魔王を巡って、大地と海の魔王がいがみあい、最後は互いに滅ぼしあって世界が変化してしまうというもの。
この世界の、はじまりの唄でもある。
――《死神の歌姫》。
そんな呪いを背負わされた私には、ちょうどいい。私の周囲に出現した赤黒い魔法陣を忘れるように、そっと目を閉じた。
▲▽▲▽
見渡すかぎり、空。上も下も、左も右も、どこを向いても、青空だ。
――そんな空に、私は溺れている。
はっきりと言おう。全くもって不愉快である。
何せ、私は直径にして十センチ程度の魔法硝子球の中で、しっちゃかめっちゃかにされているのだ。世界に君臨する魔王たる私でなければ耐えられないだろう衝撃が何度も襲ってくる。妖精の一匹や二匹ぐらいスプラッタになっているだろう。
目まぐるしく上下左右の感覚が変わる中、カプセルに入った私を腰に据えた男は、それはそれは楽しそうに目をキラキラさせながら笑っていた。
「ははは、すごい、全く制御できない! これが重力波浪……! 重力の嵐か!」
──最悪である。
こいつの持っている呪いが特上でなければ、むごたらしく食い殺してやるところだ。
だってそうだろう? 私は魔王なのだ。
本来、もっと丁重に扱われて然るべき偉大なる存在だ。だがこの男に、そういう類のデリカシーやモラルを求めてはいけない。
「なぁ、ムカイ。制御できないのは理解してやったが、せめてこの乗り心地くらいはどうにかならないのか?」
仕方なく私は苦情を申し入れるが、爽やかさに限っては素晴らしい笑顔のまま、ムカイは首を左右に振った(ように見えた)。
縦横無尽に身体を振り回される中で、器用に腕を伸ばし、背負った頑丈な龍布製のバックパックの下端から伸びる、gas-boosterと刻まれた金属の筒を小突く。
「もう推進剤はすっかり空っぽですよ! ああ、それよりも音声を残さなきゃ、この感動を! せっかくの重力波浪だ!」
やはり最悪である。
辟易極まってため息が漏れた。
――重力波浪。
今、私とこの常識という常識を全て綺麗に落としてきた男が見舞われている現象の名だ。
これは、重力異常により空に浮かんだ天空都市特有の自然現象である。
多かれ少なかれ、質量を持つものは重力の元となる重力子を持つのだが、それらが何らかの特殊相互干渉を起こすことで、天空都市の重力異常が加速し、重力の嵐を起こす。これが原理だ。
巻き込まれた物質は重力の方向性を乱され、渦を巻きながらどこかへ飛ばされてしまう。
滅多に起こらない現象であることから謎が多く、研究者も注目している。ムカイもその一人──などではない。
単なる興味本位で自ら巻き込まれたアホである。
そう。このアホのムカイのせいで、のどかな、かつては繁栄していたのだろう天空都市遺跡から空に巻き上げられてしまったのである。
現在地は、不明。
絶望的な状況にも関わらず、喜々として巻貝式の魔声録音機に声を吹き込むムカイ。通常であれば命の危機なのだから怯えて当然なのだが、こいつにそんなものはない。否、不要なのだ。
全くもって能天気。
また一つため息をついたところで、急激に私たちの動きが止まった。まるで風船にめりこんでいくかのような感覚に見舞われる。
同時に、私は強い魔力干渉を受けた。
「これは――」
ようやくまともな空の景色を拝めたが、喜んでなどいられない。
私はすぐにこの全身を包む異様な感触の正体を見極める。それはムカイも同様のようだった。
「まさか、重力境界線!」
重力と重力が衝突してできた、緩衝地帯のことだ。
この世界において、重力とは実に自由奔放でワガママな存在なのである。
私たちは、そんな存在に衝突し、勢いを殺されたのだ。
「そのようだな。境界線を突き抜けるぞ!」
「うっひゃー!」
私が強い警戒をもって言ってやったのに、ムカイはむしろ高揚した。なんなんだ、もう。
重力の違和感が変わる。
押し留められていたはずが、突き飛ばされるような感覚になった。境界線を越えたのだ。
これが何を意味するのか。
重力の元となっている重力子を大量に保有する存在――つまり大質量を持った浮遊島か何かが近くに存在しているということだ。
重力波浪による乱気流が境界線によって押し留められ、私たちはゆっくりとその重力の元へ引っ張られていく。
ふう。
安堵を入れてから、私は異様な気配を感じる。ぞわぞわと、全身が粟立った。
ああ、この感覚は!
心の底からの、この喜びを味わって笑顔を隠せるはずがない。
すると、何かを感じ取ったか、ムカイが一気に表情を凍らせた。
「あ、あの……クズノハさん。いきなりそんな魔王みたいな笑顔やめてもらえません?」
「魔王みたいなとは失礼な。私は紛うことなき魔王だぞ。頭をモウロクさせるな愚か者」
心外な申告を、私は辛辣に返す。
「それよりも、さっさと探索魔法をかけろ」
「物凄く嫌な予感しかしないんですけど。っていうか、魔王様も使えるじゃないですか」
「使えるが、そんな簡単な魔法に我が魔力を使うなどもったいないだろうが」
「相変わらずの傲慢ですね。分かりましたよ。僕もちょうど気になってたところですし。──空の魔王よ、我が命の灯火を対価に、我が願いの通りに力をここに示したまえ。──探索」
目を細めつつも、ムカイは手を掲げて探査魔法を発動させた。浮かんだ魔法陣はサンライトイエローの光を放ちながら砕け散り、波紋となって広がっていく。私もそれに薄く魔力を乗せて便乗する。
しばらくすると、ムカイは集中するために閉じていた目を見開いた。
「この反応は!」
「そう。この濃厚な瘴気は、呪――」
「誰かが、飛ばされている!?」
「そっちか! そっちなのか!?」
「当たり前じゃないですか! まさかこの重力波浪に巻き込まれたか?……急がないと!」
前のめりになりながらムカイは腰のベルトを触る。瞬間、バックパックの下端から生える金属筒の先端から噴射が始まった。
っておい。
ついさっき、もう推進剤がないとかほざいていなかったか? もしかしなくても私は謀れたのか? こんな若造に? 魔王である私が?
私はギロリとムカイを睨みつける。
「おいムカイ」
「今は人命救助最優先っ!」
人命救助優先。それの意味するところは。
「……喰わせろよ?」
殺意を乗せて名を呼んでも、ムカイに構う様子はない。知っている。いつもそういう男だ、こいつは。
だからせめて言質を奪うのだ。
「拒否しても喰らうでしょ、勝手に」
ごもっともだ。
苦笑する合間にも、景色が加速していく。
やがて見えてきたのは、異様な浮遊島だった。
樹木に囲まれた、錆びついた古代車両型建造物の群れと、それらを繋ぐ、木の板を貼り合わせただけの空中通路しかない。
見たこともない島に、私は少しだけ訝るが、ムカイはそれどころではなかった。
そこから少し離れた場所に、人が飛んでいた。ムカイが見つけたのは、あの冴えない白衣の白髪男のことだろう。
男は何やら必死にもがいている。頑張って島へ戻ろうとしているようだが、魔力は感じられない。つまり魔法使いではない。
なら無駄だ。魔法も使わずに、どうやって空中から島に戻るつもりなのか。
呆れた私は目を細め、魔力で重力境界線を探る。
このままでは間に合わないな。
ムカイが追いつく前に男は境界線に衝突し、スプラッタになるだろう。
あの重力境界線は、物質を外から内へはやんわりと通すが、内から外へは逃がさない。それどころか、凶悪なまでな破壊力で弾く代物だ。
男もそれを知っているからこそ、足掻いているのか。
「大丈夫ですか!」
ムカイは声をかけながら飛び寄っていく。
ムカイを見つけた男は、とたんに凄まじい形相で必死に叫んだ。
「た、助けてくれ――――っ!」
「大丈夫です、ちゃんと助けますよ!」
「は、早く助けてくれ、このままじゃあ! このままじゃあ死んじまう!」
「だから大丈夫ですよ。貴方が死んだら、ちゃんと助けますから」
白髪男の顔面が凍り付いた。当然だ。必死の叫びに対して、ムカイが笑顔で言い放ったのはあまりに常識外のものだったからだ。
「おい、それって――」
意味を悟った男は声を漏らし、境界線に触れた。
破壊が、始まる。
「ぎゃああああっ!!」
耳にしぶとく残るような、重たい衝撃音。
男は凄まじい勢いで弾かれ、けたたましい音と共に、その肉体を血の霧と化す。短い断末魔だけは、私の耳を楽しませてくれた。
それを見届けたムカイは笑顔のまま懐からナイフを取り出し、なんの躊躇いなく首筋に押し付けて走らせる。
ぶしゅっ。とケレン味の帯びた音が響いた。
こっちは悲鳴などない。
私としても都合が良い。いちいちコイツの悲鳴など聞きたくなどない。飽きたからな。
ムカイの命が潰えていく中、その全身から呪いが姿を見せる。私は大きく口を開けた。さあ、食事の時間だ。
次回の更新は明日朝です。