75 お隣さんとブルーチーズ
「ふんふんふ、ふーん」
お隣さん家に陽気な鼻歌が響く。
歌っているのは、上機嫌な様子のシャルルだ。
彼女は姿見に映した自分を眺めている。
かと思うと、おもむろにバストを寄せてあげた。
「ふふふ。結構育ってきているのです。これならお姉ちゃんみたいな大人の女になるのも時間の問題……」
シャルルは小柄である。
さらには、大人ぶりたい年頃でもある。
ゆえに彼女は、自らのちんまい容姿を若干気にしていた。
「うーん。背も少し伸びてきた気が……。気のせいかも? いや、きっと気のせいじゃないのです!」
いま、部屋にはシャルルひとり。
だというのに彼女はわずかに踵を浮かせて背を伸ばし、いもしない誰かに見栄をはる。
そこにガチャっとドアを開いて、何者かが現れた。
「……なにをしておるのじゃ、シャルル」
現れたのはハイジアだった。
「あ、あはは。なんでもないのですよ。おはようございますハイジアさん。……まぁもう昼なのですけど。って、あれれ⁉︎」
シャルルがハイジアを凝視した。
なんだこれちょっと縮尺おかしくないかと、ごしごしまぶたを擦って、何度も確認する。
「あ、あれれ? 気のせいかな。ハイジアさんはわたしより、少し背が低いはずなのに……」
「おはようなのじゃ。……くくく、シャルルよ。貴様は相変わらずちっこいのぅ」
「な、ななな……⁉︎」
ハイジアが高みから、シャルルを見下ろす。
その顔には、たしかな優越感が浮かんでいた。
「なんですかハイジアさん⁉︎ そ、その大きなおっぱいは⁉︎ 背まで伸びて! 一体どうして大人になっているのですか⁉︎」
シャルルが驚愕に目を見開く。
彼女は、さっきから頑張って寄せて上げていた胸を、さっと隠した。
本能的に比べられるのを避けたのだろう。
だがそれを見逃すハイジアではない。
ニヤッと笑って、シャルルに語りかける。
「よいよい。隠さずともよいのじゃぞ、シャルル。貴様の背や胸が小さいのは、いまに始まったことではないのじゃからな」
シャルルの顔が、かぁっと赤くなった。
「そ、それはハイジアさんだって一緒なのです! ううん、一緒だったはずなのです! あのぺったんこのまな板はどこにいったのですか!」
「ええい、貴様! まな板とは何事じゃ!」
一瞬子どもの喧嘩が始まりそうになった。
だがハイジアは、咳払いをして余裕の態度を取り繕う。
「こほん……。妾はもう、貴様とじゃれあってはやれぬのじゃ。なにせほれ、このように大人になってしもうたからのぅ。ふははははははー!」
「ど、どうして⁉︎ 一体なにが起きたのですか⁉︎」
ハイジアが馬鹿笑いする。
シャルルの叫びが木霊した。
少し前までは、たしかに12歳前後にしか見えなかった女吸血鬼ハイジア。
しかしいま、彼女はなぜか二十歳ほどの容姿に成長していたのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
お隣さん家を訪ねると、成長したハイジアが出迎えてくれた。
「よう来たのコタロー」
「お、おう。誰だ? って、つかハイジアか⁉︎」
若干面食らう。
だが俺はすぐに気を取り直した。
こいつらが変なことを始めるのは、なにも今回に限った話ではない。
気にしないことにして、飲み部屋に移動する。
ハイジアも、しなをつくって成長した自分をアピールしながら、ついてきた。
「ほぉれ、コタロー。せくしぃじゃろ? ほれほれ」
元はお子さま吸血鬼のくせに、やけに色っぽく感じてしまう辺りが微妙に悔しい。
「わかった、わかった。ほら、飲み会始めんぞ」
「なんじゃ、つまらんやつじゃのう」
「で、どうしてハイジアは、こんなおっきくなっちまったんだ?」
さっそく持参したアルパカマークの赤ワインを煽りながら、ハイジアに尋ねた。
視界の端に、部屋の隅っこで三角座りをしているシャルルの姿が映る。
というかこいつもいたのか。
なんにも話さないから気づかなかった。
「お、おう、シャルル」
「…………いらっしゃいなのです」
シャルルがむくれている。
取り敢えず俺は、ハイジアが大人になっている件に話題を戻した。
「しかしまぁ、育ったなぁ」
「ふふん。つまりあれじゃな。成長期というやつじゃ」
「いや、ねーから。つか昨日までお子様だったじゃねえか」
「貴様! 妾を子ども扱いするでないわ!」
抗議を聞き流しつつ、いつものように肴を取り出した。
本日のアテは青カビのチーズ。
いわゆるブルーチーズだ。
これが赤ワインによく合うのである。
丁寧にカットしたチーズを、ひと切れ摘んだ。
舌がピリッとする。
「んー、きたきた! つか、この舌を刺すような刺激が堪んねえなぁ!」
グラスを手に取り、ワインを口に含んだ。
「くあー。うめえ!」
「……のうコタロー。貴様、さっきからなにを食っておるのじゃ?」
「おう、これか? これはブルーチーズだ! 『ロックフォール』って有名なチーズなんだぜ?」
「ブルーチーズ? はて、それは美味いのかえ?」
「もちろん美味いぞ」
「ほほう……」
ハイジアが興味を示した。
「ならば、妾にも寄越すのじゃ」
「おう。つかそれはもちろんいいんだが、ブルーチーズは子どもが食ってうまいようなもんじゃねえぞ?」
子どもには、青カビの刺激は強すぎるのである。
「なんなら、なにか別の肴を作ってやろうか?」
「誰がお子さまじゃ! コタロー貴様、さっきから妾を愚弄しよってからに! 第一見よ! この育ちきった身体を! どこからどうみても、立派な『れでぃ』じゃろうが!」
いきなり切れ始めた。
ハイジアの剣幕に、俺は若干引き気味になる。
「つかレディーねぇ。まぁいいや。なら食ってみろよ」
カットしたチーズをひと切れ差し出した。
「ふん。殊勝な心がけじゃの。それで良いのじゃ」
彼女はチーズを受け取ってから、ひょいと口の中に放り込んだ。
もぐもぐと頬を動かす。
「ふむ、結構塩気が強いの。そしてまろやかじゃ。むぐむぐ……」
「いけそうか?」
「うむ、舌触りも滑らかじゃの。普通に食べられるではないか。なにが子どもには早――んぎゅう⁉︎」
ハイジアが口を手で押さえた。
涙目になっていく。
「な、なんじゃこれは⁉︎ 舌が! 舌に刺激が!」
「あー、だから言わんこっちゃねえ。ほらハイジア、ワインだ! 口ん中洗い流しちまえ!」
グラスを受け取った彼女は、ごくごくと中身を飲み干していく。
ぷはぁと息を吐いて、ようやく落ち着いたようだ。
「うぇぇ……。なんじゃこれは……」
「だから言っただろ? こいつはチーズの舌触りは滑らかだけど、溶けたあと舌に青カビが残るんだよ。そいつがピリッときてうまいんだが、慣れないと刺激が強すぎる」
ひぃひぃと舌をだすハイジア。
それを見て、部屋の隅で三角座りをしていたシャルルが、ぼそっと呟いた。
「……くすっ。ハイジアさんは子ども舌なのです」
シャルルが意地悪そうな顔をした。
「なんじゃと貴様⁉︎ もう一度言ってみよ!」
「何度でも言うのです。ハイジアさんは子ども舌なのですよ!」
シャルルがツーンとそっぽを向いた。
「ええい、いい加減むくれるでないわ!」
「つーん! ひとりだけ大人っぽくなったハイジアさんなんて、知らないのです!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始める。
俺はそんなふたりの様子を眺めながら、もうひと切れブルーチーズを摘んだ。
控えめな匂いを嗅ぎながら、口に放り込む。
塩気が効いている。
これは酒が飲みたくなる塩気だ。
ほろほろとチーズが崩れていくとともに、濃厚なコクと風味が口いっぱいに広がっていく。
とろりと滑らかな舌触り。
「くはぁ、うんめえ!」
チーズが口の中で溶けた。
そのあとにザラザラとした感触の青カビが、舌に残る。
ピリッとした味覚が口の中を刺激してくる。
これがまた堪らない。
「つかワイン、ワイン……」
グラスを手にして、綺麗な赤い葡萄酒を飲み干す。
豊かな芳香と口に広がる酸味が、ブルーチーズの余韻と混ざり合い、口内を綺麗に洗い流していった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ハイジアとシャルルの諍いを横目に、ひとりで酒を楽しんでいると、ガチャっとドアが開かれた。
「あら、いらっしゃいお兄さん。来てたのね」
顔を出したのはフレアだ。
「おう、邪魔してんぞ」
「なになに、お兄さん。いいの食べてるじゃない。あたしにも頂戴な」
「もちろんいいぞ! フレアはたしか赤ワイン好きだったよな。このチーズとは相性抜群だぜ?」
フレアが顔を綻ばせてテーブルにつく。
そこでようやく彼女は、部屋の隅でぎゃあぎゃあやり合っているハイジアとシャルルに意識を向けた。
「なに喧嘩してるの、この子たちは。って、ハイジア。ちゃんと『成長の丸薬』は効いたみたいね」
「あっ、こらフレア貴様! ネタバラシをするでないのじゃ!」
「成長の丸薬⁉︎」
シャルルが凄い勢いで食いついた。
ずずいっとフレアに顔を近づける。
「な、なんなのですかそれは⁉︎」
「え? なぁに貴女、そんな必死な顔をして。……顔が近い、近い」
フレアの説明によるとこうだ。
昨日、彼女が趣味のポーション開発に勤しんでいたら、たまたま珍しい薬である成長の丸薬が出来たらしい。
それを偶然聞きつけたハイジアが、神速の手つきで丸薬を奪って飲んだというわけである。
「フ、フレアさん! わたしにも! わたしにもその丸薬を下さいなのです!」
「それが、もうないのよ」
「じゃあ作って欲しいのです!」
「材料も、もうないのよねぇ。一角竜のツノが必要なんだけど、そんなのこっちの世界じゃ手に入らないし」
「そ、そんなぁ……」
シャルルが崩れ落ちた。
四つん這いになってうなだれている。
そのとき――
「ギュアルルルギィアアアアアアアアアッ!!」
リビングから咆哮が聞こえてきた。
どうやら、召喚陣から魔物がおいでなすったようだ。
「はっ⁉︎」
シャルルが、がばっと顔をあげた。
「もしかしたら、一角竜かもしれないのです!」
気を取り直した彼女は、リビングへとすっ飛んで行った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
シャルルに続いて、リビングへとやってきた。
「つか、なんだありゃ?」
ハイジアとフレアもついてきている。
「ヘンテコな魔物じゃのう」
「へぇ、あれは……、ツインテールドラゴンね。珍しいドラゴンよ」
「ドラゴンなのですか⁉︎」
キラーンとシャルルの目が光る。
「フレアさん! あのドラゴンの素材で成長の丸薬は作れるのですか? 一角もツインテールも似たようなものなのです!」
「う、うーん……。全然違うと思うけど、そうねぇ」
フレアが眉を寄せた。
どうにも歯切れが悪い。
「いいえ、尋ねるまでもない。きっと作れるに違いないのです! ツインテールドラゴン覚悟ぉっ!」
シャルルが飛び出した。
奇妙な形のツノを生やした竜と戦い始める。
「シャルルのやつ、気合い入ってやがんなぁ」
変な竜の攻撃をかわして、シャルルが剣を振り抜いた。
素早い身のこなしで、竜に攻撃し続ける。
「たぁああああ!」
「ギィヤァオオオオオオオオオッ!」
シャルルの気迫がツインテールドラゴンを圧倒している。
これは倒してしまうのも、時間の問題だろう。
「のうフレア。ほんとにあの変な竜から薬は作れるのかえ?」
「……なんだか無理って言えそうもない雰囲気だし、まぁ、やるだけやってみるとするわ。……はぁ、シャルルにも困ったものねぇ」
フレアは頬に手をあて、やれやれとため息を吐いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――翌日。
俺はお隣さん家の飲み部屋で、缶ビールを飲みながらフレアの登場を待っていた。
なんでもそろそろ、丸薬の調合が完了するらしい。
「なぁ、コタローよ。シャルルは何をそわそわしているのだ?」
「いや、色々あんだよ。つかマリベル、俺にもその梅くらげときゅうりスライス、わけてくれよ」
「妾にもよこすのじゃ」
「うむ。よいぞ」
ハイジアと俺は好き勝手にビールを飲み、マリベルのわけてくれた肴を摘む。
ちなみにハイジアは丸薬の効果が切れて、もういつものお子さま吸血鬼に戻っていた。
「んく、んく、ぷはぁ! おう、シャルル。そわそわしてねえで、こっち来て一緒に飲まねえか?」
「わたしは遠慮するのです。……ああ、フレアさんはまだなのですか?」
「もうあやつは放っておくのじゃ。それよりマリベルよ、その黄金イカを妾にも食べさせよ」
「ほら、好きに食べろ」
ちょっとした肴で缶ビールを空けていく。
ガチャっとドアが開いた。
「お待たせー」
やってきたのはフレアだ。
シャルルがすごい速さで彼女に迫る。
「フレアさん! 出来たのですか⁉︎」
「え、ええ。一応できたわよ。これなんだけど……」
フレアの手のひらに、二つの丸薬が乗っていた。
見た感じは赤いキャンディと、青いキャンディだ。
「うわぁ! これが成長の丸薬なのですね。それで赤と青、どっちを飲めばいいのですか?」
「妾が昨日飲んだ丸薬は、青かったのじゃ」
ハイジアの言葉を聞きつけたシャルルが、さっそく青い丸薬に手を伸ばした。
ぽいっと口に放り込んで、ごくんと飲み込む。
途端に彼女の背が伸び始めた。
膨らみかけだった胸も、ぼいんと大きく育っていく。
「あ、あ、あ……。見る見るうちに、ハイジアさんが小さくなっていくのです!」
「ええい、妾が縮んだのではない! 貴様が大きくなったのじゃ!」
「す、すごいのです……!」
あっという間にシャルルが成長していく。
俺とマリベルは、ぽかーんとしながらそれを見守った。
「シャ、シャルルが大きく……。どういうことだ、これは⁉︎」
「お、おう。つか、シャルルのやつ、成長したらこうなんのかぁ。マリベルに雰囲気そっくりじゃねえか」
「いえーい! 大人なのです! ハイジアさんを見返してやったのです!」
「くっ……。そんなに根に持っておったのか」
シャルルは大はしゃぎだ。
「それはそうとフレアよ。その赤い丸薬はなんなのじゃ?」
「それがわかんないのよ。ツインテールドラゴンの素材で調合するなんて初めてだから。そうだ、ハイジア。貴女飲んでみなさいよ。材料的に考えても、命に別状はないはずだし」
フレアがハイジアに赤い丸薬を差し出した。
「ふむ、そうじゃのう。ものは試しじゃしな」
ハイジアが受け取ろうと、手を伸ばした。
だがそのとき――
「おっと、そうはさせないのです!」
「あっ、シャルル貴女」
「なにをするのじゃ!」
シャルルが横から丸薬を奪い取った。
ひょいぱくっと口に放り込む。
「へへーん。きっとこれも成長の丸薬なのです! これでお姉ちゃんすら越える、熟れた大人の女のひとに大変身!」
もぐもぐごくんと飲み込む。
シャルルの体に変化が訪れた。
「お、おうシャルル! こりゃあ一体……?」
「え? あれ? ハイジアさんが、だんだん大きく……」
「じゃから妾は変わらぬ。貴様が縮んでいるのじゃ!」
「えー⁈」
シャルルが、すっかり元に戻った自分の体を見下ろした。
「そ、そんな……」
「あら。赤い丸薬は、若返りを促すのね。ふむふむ、これは興味深い結果ねぇ」
愕然とするシャルルの肩に、ハイジアがポンと手を置いた。
「くくく……。あっという間に元に戻りよったのう」
「あんまりなのです。そ、そんなぁ……!」
「自業自得なのじゃ! ふははははははははっ!」
たしかにハイジアの言う通り自業自得だ。
でもまぁちょっと可哀想だし、あとで酒でも注いで慰めてやろう。
そんな俺の考えをよそに、飲み部屋にハイジアの高笑いとシャルルの情けない声が響き渡った。




