70 お隣さんトーナメント・中編
お隣さん家のリビングルーム。
広大無辺な異空間となったその部屋のただ中で、ふたりの超越者たちが向き合っていた。
一方は夜魔の森を統べる女王、真祖吸血鬼ハイジア。
もう一方は地獄の支配者、七大悪魔王が一角、蝿の王ベルゼブルこと、ルゼル。
どちらも魔王級の、紛う事なき絶対的支配者だ。
「ふふん。貴様には一度、己の立場を弁えさせねばならぬと思うておったのじゃ」
「……立場?」
ハイジアが自分の胸に手を添えた。
キッとルゼルの胸を睨み付ける。
「蝿女の分際で、毎日毎日、色気を振りまきよって!」
「……ん?」
ルゼルが首を傾げながら、たわわな胸を持ち上げた。
ずしりとして、もの凄い重量感だ。
その迫力に気圧されるようにして、ハイジアが2歩3歩と後ずさっていく。
「くッ……。お、おのれッ」
「……胸がないから、欲しいの?」
「やかましいのじゃ! 妾にもおっぱいくらいあるのじゃ!」
敵愾心を剥き出しにして叫ぶ。
彼女は両脇をぎゅっとしめ、なんとかしてささやかな胸を寄せて上げようと頑張っている。
俺はふたりのやりとりを呆れた表情で眺めた。
隣にはマリベルが腰を下ろして、ビールを飲んでいる。
「……あいつら、なんの勝負をしているんだ?」
「さあな? それよりもう1本もらうぞ?」
彼女の白い手がクーラーボックスに伸びた。
キンキンに冷えた缶ビールを取り出して、滴る水滴を手のひらで拭う。
カコンと缶を開ける軽快な音が鳴り響く。
「んくんくんく、……ぷはぁ!」
実にうまそうだ。
幸せそうに喉を鳴らすマリベルを眺めていると、大家さんが近寄ってきた。
マリベルに代わって、先ほどの俺の問いに応えてくれるつもりらしい。
「アレはね、虎太朗くん! 女の意地のぶつかり合い。激しい前哨戦なんだよ!」
「お、おう。そうなのか?」
「きっと譲れないものがあるんだろうねぇ。あ、私もビールを1本もらうよ」
大家さんはこれから起こる激しいバトルに期待を寄せて、ワクワクしている。
いつも楽しそうなおっさんである。
「んくんく、ぷはぁ! おいコタロー。ビールだけというのもなんだな。摘まみはないのか?」
「摘まみか。つか、ちょっと待ってろよ……」
すこし考えてみる。
料理をしていて、せっかくの戦いを見逃すのもなんだ。
ここは出前にしよう。
ポケットから携帯を取り出し、電波が通じることを確認してから、ピポパと電話をかける。
『はいもしもし! こちら……』
注文をしてから、向かい合うふたりに視線を戻した。
ハイジアはまだ、膨らみかけの胸をなんとか寄せて上げようと四苦八苦している。
「この! どうして寄らんのじゃ! このッ!」
「…………ふ」
「な、なんじゃ貴様! いま妾のおっぱいを鼻で笑ったのかえッ!?」
ハイジアが慎ましやかな胸を両腕で隠した。
「……大丈夫。そのうち育つから」
ルゼルの目には、かすかな憐れみが宿っている。
その視線を受けてハイジアの肩が小刻みに震えた。
「も、もうかれこれ……1000年も、このままなのじゃ……」
「……がんばって。揉むといいらしい」
「ええい、やかましい!」
ハイジアが腰を落とした。
相対するルゼルも身構える。
「……かかってこい」
「覚悟するのじゃ蝿女!」
彼女の姿が黒い靄となって掻き消える。
長い前哨戦を経て、ようやく戦いの火蓋が切って落とされた。
「ふははは! どうしたのじゃ蝿女!」
「……く、当たらない」
「とろくさいのぅ! ほれ、ほれッ!」
戦いはハイジアが優勢だった。
ルゼルは何度も強烈なパンチを繰り出すが、その悉くが空を切り、ハイジアを捉えることはない。
一方のハイジアは素早く駆け回り、時にはその姿を黒い霧状へと変化させて縦横無尽に動き回る。
「ほれ! こっちじゃぞッ!」
またしても霧となったハイジアが、突如としてルゼルの背後に姿を現した。
容赦のない殴打を加えていく。
「…………このッ」
ルゼルの重い拳が轟と唸りを上げて振るわれる。
脳天を目掛けた打ち下ろしだ。
だが彼女のその拳はまたしてもハイジアに避けられて、そのまま地面に叩きつけられた。
――ドガアアアアアン!
ルゼルの拳がリビングの床を激しく振るわせる。
「うひゃー! ここまで揺れたね、虎太朗くん!」
「うおッ!? つか、なんつーパワーだよッ!?」
轟音とともに振動がケツにビリビリと伝わってきた。
「まあまあの威力じゃな! だが当たらなければどうということはない、のじゃ!」
「……ハイジア、すばしこい」
「今度はこっちの番じゃぞ! ほれッ!」
――ドカン! ズドン!
ハイジアの拳がルゼルを捉えるたびに、力の篭もった重たい打撃音が鳴り響く。
「このッ! この乳めがッ!」
ルゼルの胸がぷるんと揺れる。
ハイジアの攻撃はルゼルの胸に集中している気がしないでもない。
心なしか彼女の目には、嫉妬の炎が渦巻いているようにも見える。
「……いたい。胸がいたい」
「思い知れ! 思い知るのじゃ! この、このッ!」
多分マジで痛いんだろう。
あまり表情を変えることのないルゼルが、顔をしかめている。
「…………もう怒った」
ルゼルの背の翅が震えだした。
もともと透明なその虫の翅は、高速で振動することで途端に目視すら叶わなくなる。
そこから発せられたキーンとした甲高い音だけが耳に届いてくる。
「――ぬ!?」
ルゼルの体が浮かび上がった。
徐々に勢いを増して暴風へと変じた風が、彼女の全身に纏わり付き、その姿を覆い隠していく。
「ギュルギリギイイイイイイイ!!」
――巨大な蝿だ。
そこに顕現したのは、蝿の王ベルゼブル。
姿を曝け出した凶悪な悪魔王を中心として、広大なリビングを所狭しと破壊の風が吹き荒れる。
「きたー! きたきたきた、きたーー!!」
大家さんのテンションが最高潮まで跳ね上がった。
薄くなった髪が風にはためいている。
「うっはあー!? きたッ! きたきた、きたーーッ!!」
大家さんは立ち上がって大はしゃぎである。
荒れ狂う嵐に吹き飛ばされないよう、二角獣の黒王号が大家さんの盾になっている。
こいつも大概、健気な馬である。
「す、凄え風だ!」
俺も姿勢を低くして、風から身を守る。
「おう、ユニ! シャルルとフレアを頼んだ!」
「ブルッフ!」
シャルルとフレアはまだ気絶したままだ。
ふたりを一角獣のユニが、その身で護った。
「ようやくルゼルのヤツも、本気になったか」
マリベルは吹き荒ぶ嵐のなかにあって、泰然とあぐらを掻いたままビールを煽っている。
体幹の強さが常人離れしているのだろう。
さすが聖騎士の貫禄だ。
「おあ!? つか妖精のヤツらが!?」
辺りをみれば、妖精さんたちがそこかしこで風に舞い上げられていた。
だが「きゃっきゃっ」と騒いで楽しそうにしているから良しとしよう。
こいつらも随分とリビングに馴染んだものだ。
「ギルルギリイイイイイイッ!!」
ホバリングして宙に浮いていたルゼルが、制止状態からいきなり急加速してハイジアに襲いかかった。
目にも止まらぬ速度である。
「――くッ!? 速いのじゃ!」
デッカい金切り声を上げて襲いかかる様には、普段の彼女のぽやーっとした様子など微塵も見られない。
突撃を避けるハイジアを、トップスピードのまま直角に曲がるという異常な離れ業で追撃していく。
「お、おのれッ!」
ハイジアがその身を霧に変えて、ルゼルの突撃を回避しようとした。
「ま、間に合わんのじゃ! ――あうぅッ!?」
小さな体が、蝿の巨体に吹き飛ばされた。
床を水平にバウンドしながら素っ飛んでいく彼女に、ルゼルが追い打ちを仕掛けるべく襲いかかる。
「おのれ蝿女! ――影よ……――」
ルゼルの影が起き上がった。
飛び回る彼女と同じ速度で付きまとうその影が、巨大な蝿の体に纏わり付いていく。
「ギュギリッ?!」
自らの影に体を絡め取られるという事態に、ルゼルが困惑する。
だが彼女はすぐに気を取り直した。
激しく翅を振るわせて、纏わり付いた影を吹き飛ばす。
だがその間にハイジアは起き上がり、体勢を整え直していた。
「ふん! 仕切り直しなのじゃ!」
「ギギュルギリイイイイイイイ!」
戦いはこれから。
向き合うふたりは、まだまだやる気満々だ。
「お、おおお……ッ。凄い!」
大家さんがふんふんと鼻息を荒くして、興奮している。
「頑張れハイジアちゃーん! 負けるなルゼル殿ー!」
「ふふ。大家殿は今日も楽しそうだな」
マリベルは涼やかな視線で戦いを眺めながら、缶ビールを煽っている。
「おう! けど気持ちは分かるぜ!」
俺も激しいバトルに、内心ワクワクが止まらない。
……ブルルルルル。
そのとき、ポケットから振動が伝わってきた。
携帯のバイブレーションだ。
「もしもし?」
『膝パッドでーす! ご注文のピザをおもしゃっした-!』
どうやら出前が届いたようだ。
玄関まで来てくれているらしい。
暴風に飛ばされないように注意して玄関に向かい、出前のピザを受け取ってくる。
「おう! 摘まむもん来たぞ!」
「ほう……。それはなんだ、コタロー?」
「あッ。ピザ頼んだのかい?」
「まあな! さっき頼んどいた『4種のチーズピザ』だ!」
いわゆるクワトロフォルマッジってヤツである。
Lサイズのピザの箱を開けると、辺りに焼けた小麦粉とチーズの香りが漂い始めた。
腹の虫がギュルルと泣き始める。
気付けばいつの間にか暴風が止んでいた。
「ピザ……? それはうまいのか?」
「うまいぜー! つかビールに合うんだよ、これがまた!」
さっそく手を伸ばしてひと切れ摘まみ上げる。
とろけたチーズがビローンと伸びた。
熱々の生地から伝わる熱を指に感じながら、パクッと齧り付く。
すると途端に口いっぱいにチーズの豊かな風味とコクが広がった。
「うんまッ!」
思わず叫んでしまう旨さだ。
溶けたチーズが舌に絡みつく。
パルメザンチーズの濃縮された旨みに、カマンベールチーズの塩気とコクが堪らない。
舌先に僅かに感じる甘みはクリームチーズのものか。
フレッシュチーズのさわやかな酸味を心地よく感じながら、むぐむぐと咀嚼する。
「んくんくんく……ぷはぁ! こりゃうめえ!」
やっぱりチーズピザにはビールだ。
キンと冷えたビールをピザごと喉に流し込んで、満足げな息を吐く。
ふと見るとマリベルが俺を凝視していた。
「おう! マリベルもひと切れ食って見ろよ!」
「うむ! ではいただこう!」
「虎太朗くん、虎太朗くん。私も1枚いいかなッ?」
「もちろんだ! 1枚と言わずジャンジャン食ってくれ」
ピザはLサイズのものを何枚か頼んである。
全員で食べても十分に満足できる量だ。
「んー、この味! これ、たまに食べたくなるんだよねぇ」
「つかピザって、中毒性あるらしいかんなぁ」
大家さんは美味そうにビールでチーズピザを流し込んでいく。
近寄ってきたユニや黒王号にも何切れか分けてやりながら、幸せそうだ。
「おう、マリベル! どうだ、美味いか?」
手に囓りかけのピザをもったまま震えていた女騎士が、ギギギと首をまわす。
カッと見開いた目で俺を見つめ、唾を飛ばしながら叫び始めた。
「美味いかだと? 美味いに決まっておろうが! このビローンと伸びる熱々のチーズのコク深い味わい! これなるがチーズか! 熟成された円やかさと濃厚な味わいは他の食材に類を見ないほどだ! しかもこのピザは複数の異なる製法で作られたチーズを絶妙なバランスで組み上げることで生地の上に素晴らしき味の饗宴を実現しているな! 塩気、コク、甘味、酸味――そのすべてが互いに協調しあい、時には自己を主張し、舌の上で見事なダンスを踊りよるわ! この生地にあるのは正にチーズの楽園! 風味に満ちたその味わいはまるで豊かさに充ち満ちた神々の楽園タモアンチャン!」
「お、おう……。そうか……」
マリベルの勢いは相変わらずだ。
俺は今日も若干引き気味になりながら、上擦った笑みを返した。
戦いの場に目を戻すと、ハイジアとルゼルは取っ組み合ったまま固まっていた。
特にルゼルは風も纏っていない。
ハイジアの金色の瞳と、巨大な蝿の複眼が俺たちを見つめている。
「おう、どうしたんだ?」
よく見ればどちらも口から涎を垂らしている。
どうやらチーズピザを凝視していたらしい。
「つか安心しろ! ピザはまだある! だからさっさと勝負つけて戻ってこいよ!」
ふたりがハッと我に返った。
バッと跳び退って互いに距離をおく。
「……これは、さっさと勝負をつけねばいかぬようじゃの」
「ギュルリ……」
どうやら決着をつける腹づもりのようだ。
ルゼルの纏う風が再びリビングに吹き荒れ、ふたりの間の緊張感が増していく。
「――あッ!? あれはなんじゃーッ!?」
ハイジアがあらぬ方向を指差した。
つられてルゼルが振り返る。
「いまじゃッ! かかれッ!」
「畏まりましたハイジアさまッ!」
一羽の蝙蝠が、暴風を突っ切って現れた。
蝙蝠はぼわわんと煙を出して、その体を艶めかしい女性の姿へと変える。
現れたのはハイジア配下のサキュバス、キュキュットだ。
「ルゼルさま、お覚悟ッ!!」
「ギィルリュ!?」
キュキュットは指から生やした10本の長く鋭い爪で、ルゼルへと襲いかかった。
「おっと-ー! ここでサキュバス殿の乱入だーーッ!」
大家さんが立ち上がり、新たな登場者を指差して興奮する。
「つ、つか卑怯だろそれは!」
「ふはははは! 眷属を使役してはいかんルールなどないのじゃー!」
なんつーやつだ。
俺は大家さんに並んで立ち上がり、ハイジアを糾弾する。
「正々堂々と勝負しろー!」
「へへーん! そんなこと知らぬのじゃーッ!」
「くッ! おうマリベル! アンタもなんかいってやってくれ!」
「いやコタロー。ハイジアの言う通りだ。眷属もあいつの力だろう」
マリベルはハイジアの行いを許容しているようである。
むしろ「あのサキュバス、なかなかの強者だな」なんてしきりに感心しているくらいだ。
もう俺にはこいつらの考えがよく分からん。
「きゃあああッ!!」
キュキュットがルゼルに倒された。
あっという間だ。
ドサリと床に体を横たえる。
とはいえこれはキュキュットが弱いのではなく、ルゼルが強すぎるだけだろう。
この間、わずか数秒の出来事である。
「くくく……」
わずか数秒。
されどそのたったの数秒は、超越者同士の争いにおいて致命的な隙であった。
「ふははは! 喰らえい、蝿女!」
回避不能なまでに深く懐まで潜り込んだハイジアが、溜めに溜めた力を解放して、渾身のアッパーカットを繰り出した。
なんか変な黒いオーラが拳に纏わり付いている。
「ギュグルリグギイイイイッ!?」
ズドンと芯まで響くような打撃音と共に、蝿の巨体が宙に打ち上がる。
宙を舞うルゼルの頭上に、霧化したハイジアが姿を現した。
「とぅあッ!」
今度は蝿の巨体を床に向けて全力で蹴りつける。
「ギグググッギギギイイイッ!!」
悪魔王ルゼルが悲鳴を上げる。
真っ直ぐに素っ飛んだ大きな体が、地面に激しく衝突した。
――ドガアアアアアアン!
リビングを揺らす衝撃と、轟く轟音。
俺たちの観覧場所である妖精郷を、もうもうと土煙が立ちこめ視界が奪われる。
「ふははは! まだまだなのじゃ!」
ハイジアが続けざまに襲いかかる。
衝撃にルゼルは一時行動不能になっている。
「貧弱貧弱貧弱貧弱ーーッ、貧弱なのじゃー!」
一撃一撃が、並の魔獣であれば消し飛んでしまうほどの威力を秘めた拳だ。
その拳を乱打してルゼルの巨体に叩き込んでいく。
「くはははははーーッ!」
「グギュルルルルィィィーーッ!」
打撃音と高笑いと悲鳴が広大なリビングに木霊する。
「お、おう!? どうなったんだ?」
土煙が晴れていく。
開けた視界のなか、そこに立っていたのは黒のゴスロリ衣装に身を包んだ少女吸血鬼だった。
「勝利! 勝ったのじゃー!」
勝ち鬨をあげるハイジア。
その足元には蝿化が解け、「きゅー」と呟きながら目を回すルゼルの姿があった。




