67 お隣さんとおでん屋台2
夕暮れ時の高架下を、俺たちはテクテクと歩いている。
やがて目の前に、古ぼけた、けれども手入れの行き届いた、昔ながらの屋台が見えてきた。
「おう、オヤジー!」
赤提灯に照らされたのれんを掻き分け、屋台のなかへと声を掛ける。
ここは俺の行きつけのおでん屋台だ。
たしか以前にも一度、お隣さんたちを連れて飲みに来たことがある。
「……虎の字か。らっしゃい」
「つか邪魔していいか? 4人だ」
「好きなとこに座れ。……なんだ? 今日は前とは顔ぶれが違うんだな?」
「おう! まぁな」
今日はルゼルにサタン、それと小都を連れている。
マリベルたちには、おでんを土産にして持って帰ってやるつもりだ。
「……コタロー。どこに座ればいい?」
「ふんっ、僕はどこでもいいぞ!」
「どうせなら、おでんを選びやすい席がいいですね」
「そうだな……。じゃあ、オヤジ、ここ座らせてもらうぜ?」
腰を下ろしたのは、おでん鍋のすぐ前の長椅子。
前回と同じ席である。
そこに4人でぎゅうぎゅう詰めになって腰を落ち着け、肩を並べる。
「オヤジ! じゃあ早速、ワンカップを4つもらえるか?」
「あいよ。って、そのお嬢ちゃんは未成年……」
オヤジはサタンを眺めて眉をひそめた。
サタンはキョトンとした表情で、オヤジを見返している。
「おう、オヤジ! そいつは形はそんなだけど――」
「わかってらぁ。みなまでいうんじゃねえよ」
オヤジが俺の言葉を遮った。
その手にはワンカップを4つ持っている。
「で、アンタらも、不思議なお客さんたちなんだろ? お嬢ちゃんたちはなんていうんだい?」
ひとつひとつ、俺たちの前にワンカップを差し出しながらオヤジが尋ねてきた。
キョトンとしていたサタンの表情が、得意気なものに変わる。
「僕か? 僕はサタン! 七つの大罪の一つ『憤怒』を司りし大悪魔。欺瞞に満ちた世界を惑わす神の敵対者。七大悪魔王が筆頭にして黙示録の赤き竜。それがこの僕、悪魔王サタンだ!」
「……私はルゼル。七つの大罪の一つ『暴食』を司りし大悪魔。……深き奈落の底に座し、地獄より煉獄を仰ぎ見る七大悪魔王がひとり。……蝿の王、ベルゼブル」
「…………くく。今度は悪魔ときたか」
サタンと違ってルゼルは相変わらずの無表情だが、そんな彼女らを眺めて、オヤジはどこか楽しそうだった。
小都は自己紹介をするタイミングを逃して、オロオロしていた。
「じゃあ早速だが、おでんをもらえるか?」
「おう、どれが食いてえ?」
「そうだなぁ……。オヤジのおでんはどれも絶品だが……」
おでん鍋を眺める。
ほかほかと湯気を立てる鍋を、バラエティーに富んだおでん種が彩っている。
こういうのは見ているだけでも楽しいもんだ。
「僕はな! コレとコレとコレだ!」
「……私はコレとコレ」
「じゃあ私は、コレをお願いします」
俺がおでん鍋を前にあれこれ目移りしていると、みんなが先に注文をした。
オヤジがその注文を繰り返す。
「タコ串にごぼう巻き、玉子、糸こんにゃく、ソーセージに厚揚げか」
「じゃあオヤジ! それを全員に頼むわ!」
「あいよ」
オヤジが手慣れた手つきでおでんをよそう。
ほかほかと湯気を立てるおでんが、皿に盛られて差し出された。
「わあ、ありがとうございます! 美味しそうですね!」
小都の言葉を余所に、ルゼルの箸がソーセージに伸びた。
流れるような箸さばきで、摘み上げたソーセージを口に運んでいく。
直ぐにパリッと気味の良い音が聞こえてきた。
「どうだ? つか、オヤジのおでんはうんめぇだろ?」
「……ソーセージおいしい。……パリッとして、ジュワッてする」
サタンも大きな口を開けて、パクッとごぼう巻きを放り込んでいた。
「はふッ、美味ひぃ……美味ひぃよぉ……! こんなの僕、ほっぺた落ちちゃうよぉ……」
パンパンに膨らませた頬を手で押さえて、感極まったように瞳を潤ませている。
「こ、これは、驚きました……」
今度は小都が、目を丸くした。
はふはふ言いながらも、行儀良く小さな口で厚揚げを食べては、その見事な味わいに唸っている。
「私もおでん作りには結構自信がありましたけど、この味は真似できないです……」
「だろ? オヤジのおでんは絶品なんだぜ?」
屋台カウンター越しにオヤジが笑った。
「そりゃあこっちは、この道何十年なんだ。いくらお嬢ちゃんが料理上手でも、そう簡単に真似されちゃ立つ瀬がねぇやな」
「うふふ。そうですね。でもいつか私も、こんなおでんが作れるようになりたいです」
今回もオヤジのおでんは好評なようだ。
その様子に満足しながら、俺もひとつおでん種を摘まみ上げた。
俺が最初に選んだのはタコ串だ。
綺麗に赤く茹であがったそれを、まずは目で楽しむ。
……たまらん。
やっぱりさっさと食っちまおう。
「フーッ、フーッ……はふッ!」
熱々のタコ串に齧り付いた。
グッと串から引き抜いて、もぐもぐと、何度も奥歯で咀嚼する。
グニッとした弾力が歯を押し返してきて、なんとも心地よい。
次の瞬間にはタコからジュワッと出汁が沁みだしてきて、口いっぱいに広がった。
「うんまーッ!」
堪らない味だ。
タコの旨みが優しい出汁と絶妙なバランスで混じり合っていく。
ぷりぷりしながらも、グニっと芯のあるその食感も味わいに相俟って、物を食べるという行為をどこまでも楽しくさせてくれる。
「んく、んく、んく……ぷはぁ!」
ワンカップを一気に煽った。
口のなかのタコと一緒に喉の奥へと流し込むと、今度は酒の豊かな風味が口いっぱいに広がって、出汁の味が米の甘みに上書きされていく。
「……ッ、くはぁ! つか、たまらんな、おい!」
見ればルゼルもサタンも、次々と異なるおでん種に手をつけながらワンカップを煽っていた。
あまり飲めない小都だって、ちびちびと舐めるように酒を楽しんでいる。
「おう、オヤジ! こっちにワンカップおかわりだ!」
「……私も」
「美味ひぃよぉ……。こっちにも! 僕にもお酒をおかわりだ!」
俺たちは旨いおでんを肴に、ワンカップをパカパカと空けまくった。
オヤジが小都の手元に目を止めた。
そこにはまだ、半分ほど中身が残ったワンカップがある。
俺たちが何杯も酒を空けるなか、小都はまだ最初の1杯を飲みきっていなかったようだ。
「なんだ、嬢ちゃん。アンタは酒ダメなのか?」
「いまはダメというほどでもなくて、以前よりは飲めるようになってきたんですけど……」
小都はもともと酒嫌いだった。
最近でこそ俺たちにあわせて、少しは嗜むようになってきたが、どうやらワンカップを1本丸ごとは多かったとみえる。
「おう、小都。なんならジュースにすっか? それは俺が飲むわ!」
「あ、はい虎太朗先輩。じゃあそうしよ――」
小都がワンカップを俺に差しだそうと手を伸ばす。
「まあ待ちな」
だが、その手をオヤジが制した。
「その前に、嬢ちゃん。これを試してみな」
「えっと……。はい……?」
小都が首を捻る。
オヤジが悪戯っぽく笑いながら、おでん鍋から黄金色の出汁を一掬いして、小都のワンカップに注いだ。
透明だった酒が、小麦色に淡く色づいていく。
「さあ、飲んでみなよ、お嬢ちゃん」
小都はコクリと頷いてから、出汁で割られたワンカップの縁に口をつけた。
ズズッと小さな音をならして、小都の細い喉がコクリと酒を嚥下する。
「……あ、これ、……美味しいッ」
オヤジが破顔した。
「ふふ、飲みやすいだろ? 『出汁割り』ってんだ」
「はい! これなら私でも全部飲めます! お酒の甘みと出汁の美味しさが、凄くよく混ざり合ってる!」
小都がコクコクと喉を鳴らして出汁割りしたワンカップを飲み干していく。
その様子には酒が苦手な様子など、微塵も感じられない。
「お、おう。小都? つか、そんなに旨いのか、それ?」
「美味しいですよ、虎太朗先輩!」
なんだか俺も試してみたくなってきた。
見ればサタンも涎を垂らしながら、小都の様子を伺っている。
「これ、やってみて下さい! サタンちゃんもルゼルさんも!」
「おう! じゃあオヤジ! 俺たちにもそれをくれ!」
「あいよ。ちょいと一味振りかけてもうめえぞ?」
「…………たのしみ」
「お、お前たちは、これ以上僕に美味しいものを与えて、いったいどうする気なんだ!」
小都に続いて俺たちも、出汁割りしたワンカップを楽しんだ。
旨い酒と美味い肴をたらふく食べて、くちくなった腹をさする。
隣ではサタンがまだ、うまさに咽び泣きながらパクパクとおでんを摘まんでいる。
そんなサタンを小都とルゼルがふたり掛かりで、甲斐甲斐しく世話していた。
彼女たちを柔らかな視線で流し見る。
少しそうして眺めてから、オヤジに話しかけた。
「なあオヤジ。……店、畳んじまうんだって?」
「…………ああ」
「つか、なんだまた?」
こんなにいい屋台なんだ。
売上だって、いまでこそまだ暑さの厳しい季節で客もまばらだが、冬になれば毎年繁盛している。
売上の問題で、店を畳むってことはないだろう。
なにか他に理由があるはずだ。
「…………」
オヤジは黙して語らない。
「オヤジ。もう長い仲じゃねーか。なあ、話してくれよ。なにか力になれることだってあるかもしれねぇ」
気がつけば、騒がしかった彼女たちも口を閉じて聞き耳を立てている。
「…………ふぅ。実はな、虎の」
オヤジがため息をついてから、重そうに口を開き始めた。
そのとき――
「ぎゃはははは! また来てやってぜ、オヤジィ!」
「おうおう! 相変わらずしけた屋台だぜ!」
馬鹿騒ぎをしながら、派手なスーツ姿の男たちが姿を現した。
「――ッ、てめぇら!」
「おう! 常連さまのお越しだぜ! ぎゃははは!」
現れたのは、5人ほどの柄の悪い男たちだ。
白や紫の趣味の悪いど派手なスーツと、パンチパーマにサングラス。
見るからにもう、ヤクザだ。
「なんだぁ? 今日は先客がいやがるじゃねえか!」
俺たちはおでん鍋前の長椅子に陣取っている。
そこにヤクザのひとりがやってきて、威圧的な態度で絡んできた。
「あ!? 兄貴! この店、ガキに酒を飲ませてやがりますぜ!」
「おうおう、いいのかオヤジ! 赤字で潰れる前に営業停止になんぞ? ぎゃははは!」
「おら、お前ら! さっさと席を空けろ!」
下っ端らしき男が俺の肩に手を置いて、席を譲らせようとしてきた。
だが俺は、その手をバッと払いのけた。
「おう……。ここは俺たちの席だ。あとからやって来て、調子に乗ってんじゃねえよ」
「…………ぁあ!?」
チンピラの額に青筋が立った。
どうやら俺の物言いが癇に障ったらしい。
伸ばした手で俺の胸ぐらを乱暴に掴んで、強引に立たせようとしてくる。
「いい度胸じゃねーか、兄さんよぉ? 俺たちが筋モンだって分かんねぇのか?」
「はっ! 見りゃわかるっつーの。つか、バカ丸出しの面しやがって」
「あぁ!?」
下っ端が顔を近づけて睨んできた。
顔面を真っ赤にして震えている。
残りのヤクザどもは、ニヤニヤと嫌らしい嗤いを浮かべて、俺と下っ端を見守っている。
「こ、虎太朗先輩ッ!?」
「いいから隠れてろ! つかサタンは小都を頼む!」
ワンカップを置いて、コクリと頷いたサタンが、小さな背中に小都を庇った。
何人ものヤクザが、俺を嘲笑いながら取り囲んでいく。
「虎の字! おい、てめぇら! ウチの客に手ぇだしたら承知しねぇぞ!」
「ぶはっ! 承知しねーって、お前に何が出来るんだよ、オヤジィ!」
「ぎゃはははは!」
「ち、ちくしょう! てめぇらッ!!」
オヤジが悔し涙を浮かべている。
その涙が溢れてしまう前に、俺はオヤジを励ました。
「おう、心配すんなオヤジ! つか俺に任せてオヤジも隠れてろ!」
とはいえ相手はヤクザもん。
威勢良く啖呵を切ったはいいが、面倒くさいことになりそうだ。
だが、俺に引く気はさらさらない。
「…………騒がしい」
――そのひと声で、辺りの雰囲気が一変した。
まるで空気が重さを持ったかのように肩にのし掛かり、大気がビリビリと鳴動し始める。
――ゴゴゴゴゴゴ……
アスファルトの大地が震えた。
「――ッ!? な、なんだぁッ!?」
ゴロツキどもが息を呑む。
チンピラらしく、ガヤガヤと落ちつきをなくして騒ぎ始めた。
「…………コタローを、離して」
いつの間にか、下っ端ヤクザの後ろにルゼルが立っていた。
ワンカップを手にした彼女の姿は、陽炎のように、ゆらゆらと揺らめいている。
俺の胸ぐらを掴んだままのそのヤクザが、背中越しの悪魔の気配にビクリと体を震わせた。
途端に男がダラダラと、滝のような冷や汗をかき始めた。
だが無理もない。
怒りの矛先を向けられていない俺でさえも、息苦しくなるような圧迫感なのだ。
ルゼルの手が真っ直ぐに伸びて、震える男の頭を後ろから鷲掴みにした。
「――ヒぅィッ!?」
そのまま無理やり首を回して、背後を振り向かせる。
頭を掴まれたチンピラとルゼルの目があった。
「…………コタローを離して」
「――ひ、ヒぃイッッ!?」
多分死ぬほど怖いんだろう。
ルゼルに睨まれた男は、まさに蛇に睨まれた蛙だ。
いやそれ以上か……。
ガタガタと奥歯を鳴らして、子どもが泣くように嗚咽を漏らし始めた。
他のヤクザどもも、胸を押さえて「はぁッ、はぁッ」と息切れをしている。
ルゼルがワンカップを煽る。
「…………んくんく、ぷはぁ。……早く離して。……死にたい、の?」
「死に――って、ルゼル! 殺すのはやめとけ! つか頭ぁ離してやれ!」
「…………ん。わかった」
彼女はポイと男を投げ捨てた。
解放されたチンピラは、四つん這いになって逃げていく。
それを尻目に、ルゼルはとことこと歩いて席に戻った。
そして再び長椅子に腰を下ろした彼女は、そのまま新しいワンカップを開けて、おでんを摘まみ始めた。
「…………ぷはぁ。美味しい」
途端に周囲から、息が詰まるほどだった圧迫感が霧散していく。
だがヤクザどもは、あまりに事態に固まってしまって一歩も動けない。
そんな男どもに、横合いからサタンの声が掛けられた。
「おい、お前たち」
「――ひゃッ、ひゃぁぃいッ!!」
「……さっさと去れ。すぐに去らなければ、今度は僕が相手になるぞ?」
赤く瞳を光らせたサタンが、ギロリとヤクザどもを睨み付けた。
またしても震え始めた大気を、肌で敏感に感じ取った輩どもが、怯えて震え出す。
「おッ、ぉおう! お前ら、今日のところは帰るぞ!」
「ひぇ、ひぇゃいッ!」
「オオオ、オヤジ! ま、また来るからな!」
連れ立ってやってきたならず者どもは、額の汗を拭いながらそそくさと、足早に店を後にした。
「悪かったな、お客さんら……。ほら、これは俺の奢りだ」
オヤジがワンカップを俺たちの前に並べていく。
その酒をありがたく頂きながら、オヤジの顔を真っ直ぐに見つめた。
「……おう。つか、話してくれるよな?」
オヤジは頷いて、重々しく口を開いた。
その話はこうだ。
以前、オヤジの屋台で好き放題に暴れていた糞ガキども。
マリベルたちに散々な目にあわされて、這う這うの体で追い出されたそのガキのなかに、ヤクザの息子がいた。
「そっか。そいつがさっきのヤクザか」
「ああ……」
「つか、さっきのあいつら。店で暴れたりしやがんのか?」
「いや、違うんだ虎の……」
なんでもヤクザどもは、暴力は使わないそうだ。
ただし大勢でやってきて、竹輪麩ひとつしか注文せず、あとは持ち込んだ酒で宴会を始めるらしい。
それも、何人ものヤクザが店じまいまで、代わる代わる毎日だ。
そんな状態じゃあ、他の客は寄りつかないだろう。
「おう……。酷え嫌がらせだな。警察には相談したのか?」
「ああ。注意はしてくれたんだがな。でも暴力沙汰でもねえし、あまり本腰入れては取り合ってくれねぇ」
「……酷い」
話を聞いていた小都が、ポツリと呟いた。
隣ではルゼルとサタンが、珍しく騒ぎもせずに、黙って酒を煽っている。
「オヤジ……。つか、それが店を畳む理由か?」
「ああ、情けねえ話だがな。……なんだかもう、疲れちまってよぉ」
おでん鍋に視線を落としたオヤジの横顔が、やけに寂しげに目に映った。
こいつは、なんとかしてやりたい……。
「おう、オヤジ! 元気だせ! つか俺も士業の端くれだ。付き合いのある弁護士なんかもいる。うまい解決法がねえか、一回相談してみるわ!」
「…………ぉぅ」
「あの、オヤジさん。私はこんなことしか言えないですけれど、……おでん、すごく美味しかったです! なんだか胸が温かくなるような、優しい味で!」
「…………あんがとよ」
勘定を済ませて席を立ち、土産のおでんを手に帰路についた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――深夜。
街路にふたつの人影があった。
夜の闇よりなお深い漆黒を纏った、ふたりの人影――悪魔王ルゼルと悪魔王サタンだ。
「へぇ。あれがあの人間たちの巣か」
「……どうして、サタンちゃんまでいるの?」
ふたりは並んで、車道を挟んだ向こう側、そこにある堅牢な組事務所の建物を眺めていた。
サタンが手に持った牛すじ串に、むしゃりと齧り付く。
「僕はあの人間どもの魂を追ってきたんだ。価値のない魂だから狩らないけどな」
「……サタンちゃん。良い子」
ルゼルの手がサタンの頭に伸びた。
彼女のもう一方の手には、ツブ貝串が握られている。
サタンは伸びてきた手のひらに「ひぅッ」と声を漏らして、身を竦ませた。
「あ、頭を撫でるな! びくっとなるじゃないか! も、もう行くぞ、ルゼル!」
「…………ん」
ふたりの人影が歩幅をあわせて、ゆっくりと歩みだした。
「ひッ、ひゃぃいッ!? ななななんだこの化け物はッ!?」
組事務所のなか。
そこで巨大な蠅の姿をした異形の怪物が、宙に浮かんで佇んでいた。
それは悪魔王ベルゼブル――荒れ狂う嵐を纏った蝿の王だ。
その怪物はただそこにいるだけで、建物中に破壊の暴風を撒き散らしていく。
――パン、パンパンッ
轟々と吹き荒ぶ風のなか、血相を変えたヤクザが必死になって応戦する。
拳銃を弾いて、鉛玉を蝿の化け物に叩き込もうとする。
だが当然のように、弾は化け物まで届かない。
「なんでだよぉ!? なんで、ハジキが効かねえんだよぉおおお!?」
「ひゃあああああああッ!? どけっ! どけえええええ!!」
恐慌をきたした男が、マシンガンを携えて現れた。
――タタタタンッ
「あはッ! あはははははひゃひゃひゃひゃ!!」
――タタタタタタタタンッ
男は狂ったように笑いながらマシンガンを乱射する。
しかしこれも、ただそこに佇んでいるだけの怪物に、傷ひとつ負わせることは出来ない。
「ななな、なんなんだッ!? なんなんだお前たちは!?」
「……僕たちか? 僕たちは悪魔だ」
蝿の怪物の側には、おでん串を持った小さな子どもの姿。
その子どもは猛り狂う嵐のなかにあって、姿勢ひとつ崩さずに悠然と立ち尽くしている。
「はぃやあああひゃあああああッ!!」
奇声をあげながら、ヤクザのひとりが日本刀でサタンに斬り掛かった。
もう訳がわからなくなっているのだろう。
だがサタンはため息をついて、襲い来る刃を指先で摘まんだ。
「ふぅ……。なんだこれは。こんなもので僕を傷つけるつもりなのか?」
サタンの指が、日本刀の刃を毟り取った。
千切れた刃を、紙くずでも丸めるように指で捏ねくり回して、ピンッと指先で弾く。
「ひぃぁッ、ひゃあああ!?」
「なななんなんだ!? なんでこんな化け物が、事務所を襲いやがるんだッ!?」
口から泡を吹きながら叫んだのは、おでん屋台でルゼルに頭を掴まれた下っ端だ。
涙を撒き散らしながら腰を抜かし、漏らした小便で股間を濡らしている。
「はぁ……。なんでもなにも……」
サタンが荒れ果てた室内に似つかわしくない、可愛らしい仕草で首を傾げた。
「お前たちを退治しないと、この美味しいおでんが、もう食べられなくなるじゃないか」
串に齧り付くサタンの隣では、宙に浮かんだ巨大蝿姿のルゼルが「うんうん」と頷いている。
「おおおお、俺たちは暴力沙汰は起こしてねえ! それなのに、それなのに、なんなんだッ!!」
部屋のなかはもう、気を失ったヤクザたちでいっぱいだ。
命に別状こそないものの、手酷く怪我を負っている男も見受けられる。
「こここ、この鬼畜! 悪党がッ!!」
ヤクザが彼女たちを罵倒した。
だがサタンはその罵りに、「ふふふ」と愉快げな微笑みを返す。
「お前は何をいっているんだ? そりゃあ悪党に決まっているじゃないか」
「……ななな、なに!?」
「あはは! 僕たちは悪魔だぞ? 悪魔が悪事を働いて、なにが悪い!」
サタンは細い肩を震わせて、クスクスと笑っている。
「じゃあそろそろ、お前も寝て貰おうかな」
瞳が朱く輝いた。
その途端、サタンの小さな褐色の体が膨らむ。
美しい白髪を掻き分けて生えた、山羊の巻き角が巨大化していく。
「…………ぁ、ぁあ」
男が這いつくばりながら、小さく悲鳴を漏らして逃げようとあがく。
「グウウウルゥグアアアオオオオオーーーーッ!!」
顕現した怪物バフォメットが、聞くものの心胆を寒からしめる咆哮をあげた。
夜闇を切り裂くがごとき蝿の王の咆哮がそれに続く。
「…………ぁ、ぁ。ぁひゃ、あひゃひゃひゃひゃ――」
這いつくばって逃げていく男の顔が、理性を失い、狂った笑みを浮かべた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――ちゅん、ちゅんちゅん
鳥のさえずりが聞こえる。
カーテンを開けると、朝陽が差し込んできた。
おでん屋台でルゼルたちと飲んだ翌日。
朝食を済ませた俺は、歯を磨きながら、ぼんやりと外を眺めていた。
「……どうすっかなぁ、昨日のこと」
思い出すのはおでん屋台での出来事だ。
なんとかオヤジの力になってやりたい。
考えを巡らせていると、テレビから俺の耳に、とあるニュースの音声が飛び込んできた。
『――次のニュースです。昨夜未明、暴力団事務所が何者かの襲撃を受け……』
「……は?」
『――暴力団員は怪物に襲われたなどと供述しており、覚醒剤等の使用も疑われ……』
思わず歯ブラシをポロッと取り落とした。
テレビのなかでは、ヤクザどもが涙ながらに警察に保護を訴え出ている。
「……つか、あのチンピラどもだろ、これ。……ああ」
大体なにがあったか想像がついた。
つか、やり過ぎだっつーの!
これは説教してやるしかあるまい。
「く……まったく……。つか、こいつぁルゼルとサタンの仕業かぁ?」
襲撃されたヤクザどもを想像して、俺は頭を抱える。
「……く、くく」
もちろん襲撃なんざ、しちゃダメだ。
だが、そうとわかっていても自然と笑みがこぼれてきた。
「くくく……、あははは! つかまぁ、やっちまったもんは、もう仕方ねえわな!」
ふたりに淡々と物事の是非を語ってやったあとは、また飲み会だ。
「おう! まずはルゼルをたたき起こすか!」
俺はVIP棚からとっておきの一升瓶を取り出して、部屋を飛び出した。




