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52 お隣さんと桂花陳酒

 まばゆく輝く召喚陣。

 光が収まったあと、そこには数十人ほどの小さな人影があった。

 その人影たちは忙しげに辺りをキョロキョロと見回している。


「よ、妖精さん!?」


 杏子(あんず)が目を丸くする。


「こここ、虎太朗さん、本物の妖精さんですよ! 1/8フィギュアじゃないですよ!? よよよ、妖精さんですよ!」

「お、おう! つか妖精って何なんだよ!?」


 小さな人影は例外なく背に蝶のような羽を生やしている。

 男も女もひらひらとした若草色の衣装を身に纏い、金の髪がそれに映える。


「えっと、……ここは、どこでしょうか?」


 一団のなか、ひとつの影が見事な背の羽をパタパタと動かしてフワリと浮かび上がった。

 その影はそのまま集団の先頭に着地をして首を捻る。


「ッ、と、飛んだぞ!?」


 思わず俺は大きな声で叫んだ。


「――アロマ様ッ、お下がり下さい!」

「……はて?」

「こちらですアロマ様! オードリュクスは周囲の警戒を!」

「任せろ!」


 アロマと呼ばれた妖精が人垣の中に引き戻される。

 代わりにオードリュクスと呼ばれた男の妖精が、針のように細い剣を油断なく構えながら前に出た。


「き、きたー! きた、きた、きたーーー!!!」


 大家さんが突然奇声を上げた。

 その声に小さな来訪者たちがビクリとして跳ねあがる。

 大家さんと振り返った妖精たちの目が合った。


「き、き、きたー! うはぁッ、妖精さん、きたーーッ! おうふッッ!!」

「ま、待て! つか落ち着け大家さん!」


 大家さんは俺の制止を振り切って走り出した。

 突然のことに黒王号も反応できていない。


「ブルルヒンッ!?」

「ちょまッ! またこのパターンかよーーッ!?」


 俺は大家さんを追いかけて走り出す。

 一拍遅れて黒王号も駆けだした。


「シャルルーー! 大家さんを止めてくれーーッ!」

「え!? 大家さん? って、まだこっち来ちゃダメなのですよーッ!? 危険かもしれないのです!」


 振り返ったシャルルとユニの脇をタイミングよく大家さんがすり抜ける。


「うぇ!? ぬ、抜かれたのですッ!!」

「マジかぁッ!? 止まれー、大家さん、止まれーー!!」

「ブルヒーーン!!」


 大声で呼びかけるも、興奮しきった大家さんの耳に声は全く届かない。

 つか、相変わらずなんつーはた迷惑なオッさんだ!


「きたー! 妖精さん、きたーーー!!! どぅふぅぅぅ!!」


 大家さんはひた走る。

 それに気付いた妖精たちが目の色を変えた。


「ッ!? 禿げとヒトと馬が奇声を上げて襲いかかってくるぞ!」

「えぇ!? ちょっと、ちょっと、ちょっとぉ!?」

「慌てるのは後だ! ハピネス、お前は詠唱を! 前衛は俺に任せろ!」

「了解よ! 近衛のみんなはアロマ様をお守りしつつ後退してッ!!」


 ハピネスと呼ばれた女の妖精が直ぐさま詠唱を始める。

 オードリュクスは集団を抜け、まずは大家さんを迎え撃たんと一直線に飛び出した。


「――旋風(ウィールウィンド)ッ!」


 大家さんの足下でつむじ風が渦を巻く。

 ハピネスの魔法だ。


 突如現れたその風に足を取られ、大家さんはバウンドしながら床に倒れ込んだ。

 最後には顔面から着地だ。

 ズザザーッと音が聞こえてくる。

 いわゆる顔面スライディングというヤツだ。


 全力疾走の勢いそのまま、したたかに床に体を打ち付けた大家さんは「おごぉ!」と潰された蛙のような呻き声を上げたあと、動かなくなった。


「えぇッ!? 今のであの禿げ倒せたの!? 弱ッ!!」

「弱っ!! ッと、だが油断するな、ハピネス!」


 オードリュクスが倒れ伏した大家さんの眼前に立つ。

 追いついた俺と黒王号を牽制しながら、大家さんの首筋に針の剣を突きつける。


「下郎、貴様らは何者だ!」


 オードリュクスが大家さんを剣でツンツンしながら誰何(すいか)した。

 大家さんはピクリともしない。


「我らを妖精族が姫、アロマ様直属の近衛と知ってのこの狼藉か!」


 大家さんは応えない。


「ね、ねぇオードリュクス。もしかするとその禿げ、もう死んでるんじゃないかしら?」

「…………ふむ」


 オードリュクスが剣で再び大家さんをツンツンと突いた。


「確かに……反応がないな」

「えッ、えええ!? お父さんッ、お父さんがししし、死んで――」


 杏子が目を見開くと同時に、大家さんがガバッと体を起こした。


「――ッ、離れて、オードリュクス! そいつまだ生きてるわ!」

「チィッ!!」


 背の羽を忙しなく羽ばたかせて離脱を試みるオードリュクス。

 だがその小さな体を、大家さんの手のひらがそっと包み込んだ。


「オ、オードリュクスーーーッ!!」

「くッ、離せ! 毛のない化け物め!!」


 ハピネスが目を覆う。


(や、殺られるッ――)


 オードリュクスは覚悟を決めてギュッと瞼を閉じた。


「こんにちはー! 妖精さぁん! うひょー! 本物の妖精さんだぁッ!! かぁわいいねぇー!!」

「……は?」

「……え?」


 緊迫したリビングに、場違いなまでに陽気な大家さんの声が響き渡った。




「では貴様らは、我らの敵ではないのだな?」


 オードリュクスはホッと息を吐いて剣を鞘に収める。

 背後にはハピネス。

 そのさらに後ろには、近衛たちに護られたアロマの姿が見える。


「もちろん敵じゃないよ! むしろ味方、いやそれどころか、もう友達みたいなもんだよ! うん、絶対もうマブダチだ! ズッ友かもしれない! よよよ、妖精さんとお友達、うっひょー!」

「お父さんはちょっと黙ってて下さい!」


 杏子が制止するも、大家さんは鼻息をフンフンと荒くして大興奮だ。

 禿げたおっさんが少年の様に爛々と瞳を輝かせる様子は、正直ちょっと気持ち悪い。


「それでここは何処なんだ? ヒトの国のようだが……」

「あ、人の国なのですけど、ここはわたしたちの世界からすると『異世界』になるのですよー」


 酔い潰れたマリベルを寝かしつけてきたシャルルがそう応える。


「異世界?」

「はい、異世界なのです。」

「よく分からんな。……ハピネス、お前は分かるか?」


 声をかけられたハピネスが首を横に振る。


「さすがにそれだけじゃ、私にも訳が分かんないけど……あの大きな召喚陣が何か関係しているのかしら?」

「そうなのですよー。仕組みはよく分かってないのですけど、定期的にあの召喚陣を通して人や魔物がこちらの世界に喚ばれてくるのです」

「ほう、そうなのか? だとすると――」


 シャルルと妖精が話し込み始めた。

 ひとまず争いごとは避けられたようだ。

 俺はホッと胸を撫で下ろしつつ、シャルルたちが話す様子をそばで眺めながら缶ビールを開ける。


「んく、んく、んく、ぷはぁ!」


 一騒動のあとだ。

 身に染み渡るビールが旨い。

 取りあえず差し迫った危険はないみたいだし、妖精のことはシャルルに任せて俺は酒でも飲んでいよう。


「あ、私もビール一本もらえるかい?」

「おう、でも大家さんはほどほどにな。酔ってまた暴走すんのとか勘弁っすよ?」

「暴走なんて、やだなぁ虎太朗くん。私はいつだって落ち着いてるよ!」

「はあ!? つかどの口で言ってんだ、うはは!」

「あ、虎太朗さん! 私もお酒もらえますかー? 何だかもうくたびれちゃいましたよー」

「おう! 杏子ちゃんもビールでいいか?」


 俺たちは酒盛りを始める。

 気疲れしたあとはやっぱり酒が一番だ。


「そういえば、自己紹介がまだだったのです。わたしは騎士シャルル! 聖騎士マリベル様率いる聖リルエール教皇国聖騎士団、その副団長を仰せつかっている者なのです! そしてこちらでお酒を飲んでいる皆さんは――」


 シャルルが酒盛りを楽しみ始めた俺たちの方に振り向く。


「おう、自己紹介か? つか俺は虎太朗だ。『こ』は『虎』な! 隣の部屋を借りて住んでる」

「私はこのマンションの大家だよ」

「そしては私はその娘の杏子でーす! 女子大生ですよー、キャハ!」


 妖精の二人が背筋を伸ばして自己紹介を返す。


「俺の名はオードリュクス。妖精族が誇る十英傑が五位。妖精姫アロマ様の(つるぎ)樹術(じゅじゅつ)剣士オードリュクスだ」

「同じく十英傑第七位。妖精姫アロマ様をお護りする守護の盾、旋風(せんぷう)のハピネスよ」


 オードリュクスは剣を垂直に、ハピネスは杖を水平に胸の前で掲げながら名乗りを上げた。


「お、おう。そうか」


 コイツらも厨二病罹患者か……

 俺は引き気味に応える。


「そしてわたくしが――」


 凛とした声が響いた。

 それに合わせて近衛妖精たちが二つの列を作る。

 その真ん中を悠然と歩む高貴な姿。

 金糸のように美しい髪に額冠を被り、七色に輝く一際大きく美しい羽を備えた妖精。


「そして、わたくしこそが妖精姫アロマ。深緑の森の最奥、奥深き隠り世、花咲き乱れ妖精たちが舞い踊る常春の国、妖精郷デ=オードランドに燦然と輝く生ける宝石、明けの光、妖精姫アロマですわ」


 アロマから後光が差した……ような気がした。


「…………お、おう」

「うわー! うわー! 妖精姫だって! 虎太朗くん、妖精姫だって!」

「ほえー、っていうかもの凄い自己紹介ですねー」

「それよりも皆さん、わたしだけ除け者はダメなのですよー。コタローさん、わたしには日本酒をください!」


 歩み出た妖精の姫は、ステンドグラスをはめ込んだような美麗な羽をキラキラと輝かせながら、優雅に微笑んだ。




「ところで、ここは異世界ということですが、……元の世界へと戻る方法はあるのでしょうか?」


 宴の席。

 俺たちの輪にまじってチョコンと座った妖精姫アロマが、心配げに尋ねてきた。


「おう、それについてはまぁ心配すんな。つかフレアが何とかしてくれんだろ、多分」

「フレアさま?」

「ああ、すげえ魔法使いなんだけどな。そこの召喚陣を使って、異世界とこっちの世界を繋いでくれたりすんだよ」

「まぁ、そのような高度な魔法を、ヒト族ごときが!? さぞかしご高名な賢者さまなのでしょうね」

「おう、なんかそうらしいなー」


 まぁ普段の酔っ払い振りを知っていると、とてもそんな風には見えんがな。


「それはそうと、アロマっつったか?」

「貴様ッ! アロマ様を呼び捨てにするなど――」


 オードリュクスがいきり立つ。

 見れば他の妖精たちも眉をしかめている。


「良いのですよ、オードリュクス」


 肩を怒らせる妖精たちをアロマが宥める。


「ヒト族にわたくしの高貴さの理解など求めてはいけません」

「しかし、アロマさま……」

「納得がいきませんか? ならこうお考えなさい。地を這うミミズや葉を()む芋虫に、わたくしの尊さが理解できると思いますか?」

「……それは思いませんが、それとこれとは――」

「それもこれも同じことなのですよ?」


 アロマが諫める。

 オードリュクスは渋々といった様子で引き下がった。


「ははははは! 何だか酷い言われようだね、虎太朗くん!」


 大家さんが俺の肩に手を添える。


「なかでも特に、あの禿げたヒト族は群を抜いて品性下劣とお思いなさい」

「――むぐッ!?」

「うはははは! 大家さんは品性下劣だとよ!」


 俺は大家さんの手を払いのけた。


「ところで、アロマ! アンタら妖精族ってのは、酒は飲むのか?」


 俺は酒のことには興味津々だ。

 アロマに代わってハピネスが問いに応える。


「勿論よ! 私たち妖精族の作るお酒は、あなたたちヒト族が作るお酒なんかより、ずーっと美味しいんだから!」


 ハピネスが胸を張った。

 アロマやオードリュクス、近衛の妖精たちも「うんうん」と何度も頷いている。


「ほう、それは一回飲んでみてーなぁ」

「ダメよ、いまは持っていないもの」

「そりゃあ残念。つかでもな、こっちの酒もそう捨てたもんじゃねーんだぜ?」

「ふふん! どうかしらね!」

「つかまぁいい。ともかく取りあえず酒は飲めるんだな。……じゃあやることはたったひとつ!」


 飲み会の始まりだ。

 こっちの酒で度肝を抜いてやる。

 ぜってー美味いって言わせてやるからな!




 アロマが顔をしかめて口元を拭う。


「これはダメですね」

「えぇ!? どこがダメなんだい、アロマ殿? ビール美味しいと思わないかい?」

「美味しくありません」


 大家さんがガックリと肩を落とした。


「ふふん、所詮はヒトの作ったお酒ね!」

「ああ、アロマ様を満足させるには程遠い」


 ハピネスとオードリュクスが、そこに追い打ちをかける。


「そうかなぁ……ビールこんなに美味しいのに、んく、んく、ぷはぁ!」


 大家さんはスゴスゴと引き下がった。


「次は私の番ですよー!」


 コスプレ女子大生、杏子が現れた。

 杏子は手に持ったカクテルを、そっと差し出す。

 白と黒のコントラストが美しいカクテルだ。


「カルアミルクです。シナモンスティックも添えてありますよー」


 聞き出した話によるところ、妖精たちは花の蜜が好物らしい。

 つまり甘いもん好きだ。


 カルアミルクは甘い。

 俺みたいなおっさんからすれば、甘過ぎて敬遠しがちなほど甘い。

 どうやら杏子は大家さんとは異なり、ちゃんとツボを押さえた一品を用意した様だ。

 というより、甘いもの好きつってる相手に、初っ端からビールを勧める大家さんの感性がおかしいだけか。


「ささ、飲んでみてください妖精さん。甘くて円やかで美味しいですよー?」


 杏子がシナモンスティックでカルアミルクをかき混ぜた。


「では今度の毒見役は俺がやりましょう」

「ええ、お願いしましたよ、オードリュクス」


 オードリュクスはパタパタと宙を舞い、カルアミルクの前に降り立った。

 アルミホイルを固めて作った急拵えの小さなカップでカルアミルクをひと掬いする。


「……見た事もない酒だが、ふん、所詮はヒト族の作りし酒。期待などは出来まいか」


 オードリュクスがカップを傾ける。


「んく、んく、んく、――――ッ、んんんッ!?」


 オードリュクスは手に持ったカップを落とした。

 大きく目を見開き、呆然とした顔をしている。


「どうしたのですか、オードリュクス? どのような味わいでしたか?」


 自らの主の呼びかけに、樹術剣士オードリュクスが我を取り戻す。


「……そ、それが、アロマ様。美味いのです! いやそんな筈は! だ、だがしかし!」


 オードリュクスは大いに困惑した。

 いま飲んだこの酒は美味かった。

 実に美味い酒だ。

 だがそれは矛盾だ。

 これほどの美酒がヒト族などに作れる筈がない。


「それをこちらにお持ちなさい。わたくし自ら判定を下しましょう」


 泰然(たいぜん)として構えるアロマが、カルアミルクを受け取る。


「うふふ。どのようなお味でしょうか? 先ほどのオードリュクスの様子からすると、少しは美味しいのでしょうね。ですが所詮はヒト族の作ったお酒。過度な期待は禁物でしょうか――――って、ンはん!!」


 カップに口をつけたアロマが、目を見開いた。


「どうですかー、アロマさん? カルアミルク美味しいでしょー!」


 杏子がイシシと笑う。

 してやったり、という会心の笑顔だ。


「んっ、んんんッ! な、なかなかのものですね。思ったよりは美味しいお酒ですわ。んんッ!」


 アロマはわざとらしく咳払いをする。


「またまたアロマさんったら、強がっちゃってー」

「……強がってなどいません。本当のことです。このお酒はわたくしが飲むには苦味が勝ち過ぎます」

「ありゃ? そっかー、残念ー」


 杏子がカルアミルクのグラスを下げる。


「――あッ」

「じゃあ次はわたしの番なのですよー!」


 アロマがあげた小さな声は、シャルルの声に掻き消された。


「じゃじゃーん! カシスオレンジなのです!」


 シャルルがオレンジ色のカクテルを掲げる。


「へえ、カシスオレンジなんてよく知ってるね、シャルルちゃん」

「えへへー、わたしだって色々と勉強しているのです!」


 シャルルが得意げに話す。


「さあどうぞ妖精さん! 甘くて美味しいのですよー!」


 シャルルはカシスオレンジをスッと差し出した。


「はいはいはーい! 今度の毒見は私がやりまーす!」


 旋風のハピネスがぴょんぴょんと跳ねながら手を挙げる。


「……いいでしょう。では任せましたよハピネ――ッて、ハピネス! 人の話は最後までちゃんと聞きなさいー!」


 ハピネスはカシスオレンジの元までひとっ飛びすると、早速カップでひと掬いして口をつけた。


「んふー、あっまーい! 美味しいわねえ、このお酒!」

「えへへー、沢山飲んで下さいなのです!」

「ありがとう、ヒト族のあなた。アロマ様ー! 美味しいですよー、このお酒ー!」


 ハピネスがブンブンと手を振る。


「まったく、何をはしゃいでいるんだアイツは!」

「楽しそうで良いではないですか」

「申し訳ありませんアロマ様。あとでハピネスにはキツく言っておきますので」

「ふふふ、良いのですよ。……それよりも、ハピネス」


 アロマが愉快げに口元を和らげながらハピネスに命じる。


「それをこちらに。再びわたくしが自ら見定めましょう」


 悠然と構えるアロマが、琥珀色のカシスオレンジを受け取った。


「……さて、こちらのお酒はどうでしょうね。ふふふ、ハピネスは大喜びしていたようですが、所詮はヒト族の作ったお酒、期待しすぎるのも酷というもので――――って、んはンンッ!」


 アロマは雷に打たれたように体を震わす。

 カップを取り落とし、唇に指を添え「んはぁ……」と桃色の吐息を漏らす。


「どうですかアロマさん? カシスオレンジ、美味しいのです?」


 シャルルの問いかけにアロマがハッと我を取り戻した。

 居住まいを正し、またもわざとらしく咳払いをする。


「ん、んうんッ! ま、まあまあというところでしょうか。及第点は差し上げられます。ヒト族ごときがよく頑張りました。褒めて差し上げましょう」


 そう言いながらもアロマはチラッ、チラッと視線をカシスオレンジに投げかける。


「えへへー、褒められたのです!」

「ですが、やはり満足には至りません。このお酒はわたくしには酸味が強過ぎますし、香りも弱い。何より酒精が物足りません」

「うう、そうなのですかー?」

「ええ、及第点といってもギリギリです」

「うーん、残念なのですー」


 シャルルがカシスオレンジのグラスを下げる。


「あッ、下げずとも……」


 アロマが中途半端に手を伸ばした。


「おう! つかここで真打ち登場だ!」


 俺は背に隠し持った酒を瓶ごと取り出した。

 宙に手を伸ばしたまま、アロマの視線が俺に向く。


「つかアンタら、甘いもんが大好きで、花の香りとか酒の香りとかも好きなんだろ?」

「え、ええ。確かにその通りですが……」

「おう! なら、ぜってーコイツは気にいると思うぜ!」


 手に持った瓶の蓋を回し開ける。

 キリキリと小気味の良い音とともに瓶の封が解かれた。

 途端に辺りに、甘く爽やかな香りが漂い始める。


「ッ!? こ、これは!? この絶妙な香りは!?」


 アロマが驚きに目を開ける。

 見れば近衛の妖精たちもザワザワと色めき立ち始めている。


「な、何だこの爽やかな香りは!? 俺の胸がキュンと締め付けられているッ!!」

「甘い……なんて甘い香りなの!? こんなの嗅いだことないわ!!」


 オードリュクスとハピネスが驚嘆の声をあげた。


「……ッ、そ、それで、それでそれは何というお酒なのです、ヒト族のあなた」

「おう、コイツか! コイツはなぁ『桂花陳酒(けいかちんしゅ)』っつー中国の酒だ!」


 グラスに注いだ桂花陳酒をズズいと差し出す。


「――ッ、んはうぅッ!!」


 それだけでアロマが体を震わせた。

 甘い香りが妖精たちの体を痺れさせる。


「コイツは白ワインを何年もの間、金木犀(きんもくせい)の花に漬け込んだ酒でな。甘みも絡みつくように濃厚で、何より香りが凄え」


 妖精たちはうわの空だ。

 酒の説明も聞いてるんだかいないんだか。


「ど、毒見は! 毒見はこの俺が!」

「私よ! 私が毒見をするの!」


 オードリュクスとハピネスが競い合うように前に出た。


「…………いいえ、毒見役はいりません」

「しかし、アロマ様、それではッ!」

「そうですよ、アロマ様! ここは私が毒見を!」


 アロマが二人を(しか)と見据えて告げる。


「いいえ、ふたりともよくお聞きなさい。毒見は必要ありません。……何故なら、もう! 例え毒が混入されていようとも、わたくしはもう、止まれないからです!!」


 アロマが羽ばたいた。

 パタパタと宙を舞い、姫御自らの手で桂花陳酒をカップに掬い口をつける。


「ッ、んはぁん! この味! この香り! 堪りません、羽の震えが止まりませんわッ!!」

「ちょっ、アロマ様! 私にも飲ませて下さいー!」

「なら、あなたも来なさい、ハピネス!」

「おまッ、ずるいぞハピネス! 俺も!!」


 二人の妖精が飛び出した。


「いいねぇ、桂陳! 虎太朗くん、私も一杯貰おうかな!」

「はいはーい! 虎太朗さん、私も欲しいですー」

「あ、じゃあわたしも頂きたいのです!」

「おう! 桂花陳酒はまだまだあるぞ! アンタらも、そこで固まってる妖精さんも、全員まとめて飲みに来い! 宴の始まりだー!」


 その言葉を皮切りに、人と妖精と馬が桂花陳酒に群がった。




「――うッ、酒くさいのじゃ」


 夕刻。

 ようやく起き出してきた真祖吸血鬼(トュルーヴァンパイア)ハイジアが、リビングのドアを開け、開口一番そう呟いた。


「して、どういう状況なのじゃこれは?」

「…………知らない」

「私だって知らないわよ?」


 悪魔王ルゼルと大魔法使いフレアがそのあとに続く。


「さっぱり状況が掴めないわねぇ」


 フレアが首を傾げ、ハイジアがテテテと小走りで駆ける。


「シャルル、目を覚ますのじゃ!」

「……んにゃむにゃ、聞けーい、皆のものぉ、わたしはシャルルゥ……最強の騎士なりぃ……」


 ルゼルが大家さんと杏子のそばに屈み込み、ハゲ頭を滑り台がわりにして遊んでいる二人の妖精を摘み上げた。


「ヒック、おらー、オードリュクスー! もっと酒持ってこんかーい!」

「ハピネスー、無理だよぉ。俺、もう飲めないよぉ」


 俺はみんなに気付いて寝そべっていた体を起こした。

 その拍子に、俺の頭をベッドがわりして寝ていたアロマが転げ落ちる。


「んぎゅッ、ですわ……むにゃむにゃ」


 フレアが床に転げ落ち、ベチャッと突っ伏した妖精姫を流し見た。


「お兄さん、この状況はなぁに?」

「……おう、つかちっと飲み過ぎたなぁ。実は――」


 俺はフレアに説明を始める。


 どんちゃん騒ぎをしたリビング。

 夏の夜の夢というにはまだ少し早い季節。


 そこには一角獣(ユニコーン)にもたれ掛かって眠る酒臭い乙女や、千鳥足ならぬ千鳥羽でフラフラ舞い踊る妖精たちがいる妖精郷があらわれていた。

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