48 お隣さんとすき焼き鍋
缶ビールのプルタブをカコンと開ける。
ここはお隣さん家のコタツ部屋。
俺はビールを喉に流し込み、「ぷはぁ」と息を吐いてから取り留めもない雑談を始める。
「つーか最近、急にあったかくなってきたなぁ」
熱くなり過ぎた足を炬燵から引き抜く。
少し前までまだ肌寒い日が続いていたのだが、ここ数日で季節は急に春めいてきた。
差し込む陽の光も暖かく、もう炬燵を使っていると若干汗ばんでしまうほどの陽気だ。
「うむ、本当にな。こちらの世界ではこんなにも急激に季節が移ろうのだな」
「いや、つか今年は特別だ。例年はもう少しゆっくりと季節が変化していくな」
俺は缶ビールをグビッと煽り再び「ぷはぁ」と息を吐く。
「まぁ、とか何とか言ってる内に、直ぐに夏になるんだよなぁ。夏といえばビールが美味い季節だよなー」
そう言いながら残りのビールを一息に喉に流し込み、空いた缶をベコリと凹ませた。
次の一本に手を伸ばす俺に、女魔法使いフレアが話しかけてくる。
「確かこっちの世界は、四季というものがあるのよね?」
フレアは片手でコタツテーブルに頬杖をつき、もう一方の手でワイングラスを揺らしている。
飲んでいるのは、ここの所お気に入りのチリワインだ。
「おう、そうだぞ。もうすぐ冬からすっかり春になる。春の次は夏、そして秋だ」
「へえ、そうなの」
「つか季節ごとの楽しみとか、旨い料理なんかもあるからな。まあなんだ、楽しみにしててくれ!」
俺がそう言った時、コタツ部屋の扉がガチャッと開かれた。
部屋に入って来たのは小さな二人組。
「ハイジアさん起こしてきたのですよー」
女騎士シャルルと女吸血鬼ハイジアだ。
「もうハイジアさんったら、シャッキリして下さい。晩御飯の時間なのですよー」
瞼をこする女吸血鬼の手を、女騎士シャルルが引く。
「……ふぁぁ、……妾は、眠い……のじゃ」
ハイジアは大きな欠伸をしながらまだ眠たそうだ。
「おう、これでやっと全員揃ったな!」
今しがた戻ってきた二人を加えて、コタツ部屋にはお隣さん家の異世界人メンバーが勢揃いだ。
「……ふぁ、あふ。それでコタロー。何故、このように妾を起こしてまで皆を集めたのかえ?」
眠気まなこのハイジアが、欠伸を噛み殺しながら尋ねてきた。
俺はハイジアのその問いに、竹皮に包まれた牛肉をテーブルにおく事で応える。
「……これは何かえ?」
「おう、こいつはなぁ。『但馬牛』のすき焼き肉だ!」
「ほう、但馬牛じゃとな?」
「ああ、但馬牛だ。すんげえ美味え黒毛和牛なんだぜ? そうそう、ハイジアなら多分『神戸ビーフ』って知ってんだろ?」
ハイジアはこう見えてテレビっ子だ。
こちらの世界に関するその豊富な知識量は、お隣さん家の面子のなかでは群を抜く。
「無論、知っておるのじゃ。日本、いやこの世界でも一二を争うやもしれぬ、牛肉の王様であろ?」
「貴女って案外、物知りよねぇハイジア」
「案外とはなんじゃ、案外とは」
「そうなのですよ、ハイジアさんは立派なテレビっ子なんですから!」
「……それは妾を褒めておるのか? 貶しておるねか?」
「それでコタロー。その神戸ビーフがどうしたのだ?」
女騎士マリベルが話を引き継ぐ。
「ああ、神戸ビーフってのはな、但馬牛の一番いいヤツの別名なんだよ。つっても神戸ビーフに選ばれなかった但馬牛がダメな訳じゃねえ。むしろメチャ旨なんだぜ? 赤身の旨さはそのままにサシの量は少ないから、俺はむしろ神戸ビーフよりも但馬牛の方が好みなくらいだ」
俺の説明にみんながゴクリと喉をならす。
これまで会話には加わらずに寝っ転がっていたルゼルもムクリと起きだして来た。
「………………お肉?」
「おう、肉だ! そんで今日は、そんな旨い牛肉で『すき焼き』をしようと思ってな」
「……ほう? すき焼きじゃと?」
ハイジアの目が妖しげに細められた。
妖艶なその表情はハイジアの癖になかなか様になっている。
普段の気の抜けたハイジアの仕草とのギャップが、俺を少しばかりドキリとさせた。
「……お、おう。つかハイジアは、すき焼きの事も知ってんのか?」
「当たり前じゃ。妾を誰だと思うておる。もちろんテレビで観たのじゃ!」
ハイジアがまたも胸を張る。
もう眠気はすっかりどこかに飛んでいったらしい。
「…………すき焼き……私、知らない」
「あ、私も、知らないのです」
「そっか。つか直ぐに用意するから期待して待ってな! おう、誰か人数分の生卵とお椀を取って来てくれ」
「うむ、心得た!」
マリベルが席を立つ。
それを横目に、俺は早速すき焼きの準備に取り掛かった。
コタツテーブルに置いた携帯コンロに火を灯す。
熱された鍋に牛脂を敷いてから、その上に綺麗なサシの入った牛肉を広げる。
そうしてまだ赤身を残す牛肉に、豪快にザラメを振り掛ける。
「まずは鍋にはせずに、焼いた肉だけを先に食うんだ。つかこれが『関西風』ってヤツだな。さあアンタら、溶き卵を準備してくれ!」
お隣さんたちが卵をお椀に落とす。
お椀の卵を箸でかき混ぜながら、フレアが問いかけてきた。
「ねぇお兄さん、それでその関西風っていうのは、どういうものなの?」
「おう、関西風ってのはなぁ、先ずは牛肉単品を甘辛く焼いて、卵に絡めてから楽しむんだよ。んでその後に野菜やら何やらを突っ込んで鍋にする」
「ほ、ほう……」
ハイジアの腹の虫がギュルルと鳴いた。
「そんでもって『関東風』っつーのは割り下を使って、最初から肉も野菜も全部煮込んじまう正真正銘の鍋スタイルだな」
「そ、そちらも美味しそうなのです……」
シャルルの腹の虫もクルルと鳴いた。
「へぇ、同じ料理でも地方によって作り方が変わるのねぇ」
「おう、どっちも甲乙つけ難いが、俺はどちらかといえば関西派だな」
話しながらも俺は、肉を焼く手は止めない。
「さあ、コタローよ。溶き卵の準備は万事整ったぞ!」
「………………ばっちこい」
「おう! つか、直ぐに焼けるからな、あとちょっとだけ待ってろ!」
鉄の鍋底で、肉から溶け出した脂とザラメが混じり合い、ジュワッと旨そうな音が鳴る。
途端に辺りに甘い香りが漂い始めた。
俺は肉をひっくり返し、その上から醤油と酒を振り掛ける。
「さあ、出来たぞ! 順番にお椀を出せ!」
お隣さんたちが競うようにお椀を差し出してきた。
我先にと伸ばされた腕は計五本、全員同時だ。
まったく、順番も何もありゃしねえ。
「ほら、しっかりと卵に絡めて食うんだぜ!」
微かに焦げ目のついた肉を、順に椀に放り込む。
お肉を受け取ったお隣さんたちは、大きめにスライスされたその肉を溶き卵に丹念に絡める。
そしてみんな一斉に黄金色の溶き卵を纏った柔らかなお肉を、大きな口を開けて頬張った。
頬を手で押さえながらムグムグとお肉を咀嚼し、ゴクンと飲み込む。
「おう、アンタら! どうだ、旨いか?」
「ちょ、ちょ、何これ!? お、い、しー! ちょっと信じらんない!?」
真っ先に声を上げたのは女魔法使いフレアだ。
フレアは箸とお椀を両手に持ちながら立ち上がる。
クネクネと腰を揺らした後、再び炬燵に腰を下ろした。
「お、おう? 何してんだ、アンタ?」
「え、えっと、あはは、何となく、かしら?」
あまりの旨さについ立ち上がってしまっただけらしい。
まあその気持ちも分からんではない。
すき焼きの一口目はマジで堪らんからな。
「………………すごい、美味しい」
ルゼルがお椀を手に持ったまま止まっている。
茫然として時が止まったかの様に微動だにしない。
「おう! な? すき焼き最高だろ!」
「………………こんな美味しいの、食べた事ない」
ルゼルは手に持ったお椀と俺の顔を交互にみる。
何度も何度もだ。
そんな挙動不審なルゼルの視線を避ける様に、顔を横に向けると、口角をピクピクさせながら、蕩けそうになる頰を頑張って耐えるハイジアと目があった。
「おう、ハイジア! 旨いだろー? 頬っぺたピクピクしてんぞ!」
「こ、この程度の美味ならば、夜魔の森の我が居城でも毎日の様に食して……しょ、しょしょ……」
「つか無理すんなハイジア!」
「ええい、妾の事は放っておくのじゃ!」
笑いながら俺も、自分のお椀にすき焼き肉を一切れ落とし、溶き卵を絡める。
卵をしっかりと絡めてから、俺はボリューム満点のその肉を、大きな口を開けて一口でパクついた。
――味覚が爆発する。
甘さと辛さ、そして卵のマイルドさに牛脂の旨味。
それらが渾然一体となって俺の口の中に広がる。
「……くおぉ、旨えぇ」
あまりの旨さに言葉が出ない。
やはりすき焼きは最高だ。
但馬牛は高かったが奮発して買った甲斐があった。
こいつは綺麗にサシが入りながらも赤身の旨さを十分に残した逸品だ。
こんな上等な肉をすき焼きにして旨くならない訳がない。
「お姉ちゃん! 起きてください、しっかり!」
声につられて振り返ると、シャルルがマリベルの体をユサユサと揺らしていた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
「おう、シャルル! どうした!?」
俺はシャルルに声をかける。
「お姉ちゃんが!? お姉ちゃんがッ!?」
女騎士マリベルはシャルルに肩を揺さぶられながら、すき焼きのあまりの旨さに気を失っていた。
一頻り鍋をつつき、幾分か落ち着いた俺たちは、酒を嗜みながら他愛もない話に花を咲かせる。
「そろそろ暖かくなって来たし、来週あたり花見にでも行くか?」
「えっとお兄さん。花見ってなあに?」
「おう、花見っつーのはなぁ――」
「無知じゃのう貴様は。花見とはな、春のこの季節に、桜という花を見ながら酒を飲む風習のことじゃ」
俺が口を開くよりも早く、ハイジアが説明をした。
「おう、その通りだ。ハイジアはよく知ってんなー」
「ふふん、当たり前であろう。この時期、花見特集なぞ飽きるほどテレビで観たからの」
「――お姉ちゃん! しっかりして下さい、お姉ちゃん!」
「そっか。まあ花見っつーのは春の風物詩ってやつだな。日本には四季があるから四季折々の季節にあった風物詩があんだよ」
俺たちは雑談をしながら、すき焼きを食べる。
「ところで、やっぱそろそろ炬燵片付けねーか?」
「はあ!? お兄さん、またその話?」
「いきなり何を戯けたことを抜かしておるのじゃ?」
「………………断固反対」
「いや、つかもう流石に炬燵は暑くねーか?」
季節はもう春だ。
もうどこのご家庭でも炬燵は片付けている頃だろう。
つか正直もう結構暑いしな。
「アンタら今だって、炬燵ですき焼き食いながら、汗ダラダラじゃねーか」
「多少暑いくらいが何だっていうの!? あたしの管理する煉獄の塔なんて、年がら年中、溶岩だらけで毎日熱々よ!」
「…………炬燵を片付けるなんて、ダメ。絶対あり得ない」
「面白いのう、コタローよ。妾から炬燵を取り上げられるものなら、取り上げてみせるがよい!」
「――お姉ちゃん! しっかり! お姉ちゃん!」
「……お、おう。そうか」
ダメだコイツら。
炬燵の魔力にすっかりやられてやがる。
つか耐性がないとこんなもんなのか?
けどまぁその気持ちは多少なり分かる。
一冬を共に過ごした炬燵との別れってのは、言うなれば親友との別れに近いもんがあるからな。
俺はみんなの反対に、いったん炬燵を片付ける事を諦めた。
「……ふぅ、あたしはもうお腹いっぱい」
フレアがポコリと膨れたお腹をさすりながら、食後の赤ワインを楽しみ始める。
「ふぁー。やっぱりこっちの葡萄酒は最高ねぇ。燃える様に赤くて味も最高!」
「おう! まだお肉少し残ってるけど、フレアはもういいのか?」
「ええ、もういいわ。ご馳走さま」
「ふふん、これで肉を奪い合うライバルが一人減ったのじゃ」
「………………一名、脱落」
「――お姉ちゃん! 目を開けて下さい、お姉ちゃん!」
すき焼きを食わせてやると約束したニコや、気を失っちまったマリベルの様に、一部すき焼きを食い損ねているメンツの為に、肉は幾らか事前に選り分けて残してある。
それでもまだ多少手元に他の肉が残っていた。
これはちょっと、奮発して買い過ぎたかもしれん。
「んじゃ、残りの肉全部鍋につっこむぞ。食い切れるか?」
「無論じゃ!」
「………………ばっちこい」
俺は残りの牛肉を全て鍋に投入した。
ハイジアとルゼルが奪い合う様にして箸を伸ばす。
「まだまだイケるのじゃ!」
「………………うま、うま」
二人はまるで、今食べ始めたばかりだと思わせる様な勢いですき焼きにがっつく。
その狙いは今しがた投入したお肉だ。
俺はそんな二人を眺めながら、春菊や豆腐、長ネギ、エノキ、桜型にくり抜いたニンジンといった脇役をお椀に装う。
脇役とはいったが、コイツらもすき焼きを立派に彩る、縁の下の力持ちだ。
缶ビールを開ける。
卵に絡めた豆腐を頂き、ビールで一気に流し込む。
「んく、んく、んく、ぷはぁ! やっぱすき焼きにはビールだな!」
俺が再び鍋に箸を伸ばそうとしたとき、二つの箸が俺の目の前、すき焼き鍋の上でガチンとぶつかり合った。
ハイジアの伸ばした箸を、ルゼルがブロックしたのだ。
つか行儀の悪いヤツらだ。
「これは一体、何の真似じゃ?」
「………………この肉は、私のお肉」
見れば鍋のお肉は残り後一切れだけになっている。
結構な量の肉もこの二人に掛かればあっという間だ。
「貴様、ルゼルよ。最後の肉は、妾に譲るのが当然であろ?」
「………………ハイジアこそ、そのお箸を下げて」
箸を持つ二人の手に力が入る。
「ふふふ、いい度胸じゃのう、蝿女。妾を夜魔の森の女王ハイジアと知ってのその狼藉。……ほんにいい度胸じゃ」
「………………いい度胸なのはそっち。私は七大悪魔王の一人、蝿の王ベルゼブル。実はちょっと偉い」
ハイジアとルゼル、二人の体から黒いオーラが陽炎の様に昇り立つ。
「お、おう、アンタら。仲良く半分にして食えば――」
「よかろう、どちらが上か、今こそ思い知らせてくれるのじゃ!」
「………………望むところ。ハイジアも、サタンちゃんみたいにヒンヒン泣かせる」
立ち上がり、鍋の上で二人は取っ組み合いを始める。
片手に持った箸で肉を狙い、もう片方の手で相手と押し合う形だ。
押しつ押されつ、二人の力は炬燵を挟んで拮抗している。
「や、やるではないか貴様、クッ!?」
「………………ハ、ハイジアも」
「じゃ、じゃがまだ妾の力具合は、さ、三割というところじゃぞ?」
「………………な、なら私は二割」
二人は一切れの肉を巡って争いあう。
大人気ないどころの騒ぎではない。
正直俺はドン引きだ。
「ちょ、アンタら、やめろ! 特にルゼルが本気出したら威圧感で俺が潰れる!」
「………………本気じゃない、二割」
「二割でもだ! おう、つかフレアからも何とか言ってやってくれ!」
俺は我関せずとワインで喉を潤すフレアに助けを求めた。
フレアは赤い顔をして口を開く。
「全く大人気ないわねぇ、貴女たち……って大人気も何も、ハイジアはまだお子様だったわね、おほほほほ」
フレアはハイジアを煽った。
「なんじゃと、貴様! 妾を子供扱いするでないわ……っと、くあッ!?」
煽りに意識を気を取られたハイジアが、ルゼルに押し込まれる。
「うぬぬぬぬ、こッ、この蝿女め!」
「………………この勝負、もらった」
勝負はルゼルが優勢だ。
ルゼルはハイジアを押しのけながら、鍋に残った一切れの肉に箸を伸ばしていく。
「あ、あぁ……妾の、妾の肉が……肉が」
ハイジアの顔が絶望の色に染まる。
ルゼルが微妙に勝ち誇った顔をする。
伸ばした箸が最後に残った肉に触れようとしたとき――
「ッ、うまい! 旨すぎるであろう、このすき焼きという料理はッ!!」
ルゼルの背後で女騎士マリベルが跳ね起きた。
その様はまるで陸に打ち上げられた魚がバチンッと跳ねるかの様に激しい。
「お、お姉ちゃん! お姉ちゃんが気付いたのです!」
シャルルが叫ぶ。
ルゼルは急な背後からの叫び声にビクンとなって箸を取り落す。
ついでに俺も一緒にビクンとなった。
つかなんだこの女騎士は?
時間差パターンとかあんのかよ……
「――!? ッ、いまなのじゃ!」
隙をついて劣勢だったハイジアが大勢を逆転させる。
イナバウアーと見紛うかの様に海老反らされていたハイジアは、腹筋にフンッと渾身の力を込め、一気にルゼルを押し返した。
「ふーははははッ! 見よ、これが妾の力なのじゃ! ふはっはーッ!」
ハイジアは調子に乗った。
ここで一息に勝負を決める気だ。
コタツテーブルが軋みを上げる。
ついでにマリベルが「甘辛く仕上げられた和牛肉を包み込む卵の柔らかな味わい! これは正しく――」と、もう割とタイミングを逃した叫びを上げる。
ハイジアの箸が鍋に伸びる。
勝負は決まったかに見えた、が――
「………………ッ、んっ!」
ルゼルもまた並の力量では測れぬ存在。
背の蟲翅を目にも止まらぬ速さで震わせたかと思うと、ハイジアの攻勢を全身の力でもって受け止めた。
「あらあらまあまあ、ルゼルが巻き返したわねぇ。んくんくぷはー」
二人に挟まれたコタツテーブルが軋みを上げる。
「や、やるではないか貴様……」
「………………ハ、ハイジアも」
勝負は振り出しに戻り、硬直状態に陥った。
止まった時間の中、女騎士マリベルの「溶け出した脂と絡み合う卵! 唇で千切れるほどに柔らかな肉質! 確かに肉の食感を感じるというのに『とろける』という表現がしっくりくる! これは言うなれば――」という、いい加減空気の読めない大きな声がコタツ部屋に響き渡る。
「……これでは埒があかぬ。……次で決めるぞえ?」
「………………望むところ」
二人の間に緊張が走った。
限界まで高まった圧力にコタツテーブルがミシミシと悲鳴をあげる。
「ちょ、ちょっと待てアンタら! 炬燵が――」
俺の制止する声も届かず、二人は最後のぶつかり合いを始める。
真祖吸血鬼ハイジアからは黒い靄が陽炎の様に立ち上り、暴食の悪魔王ルゼルは背の羽を音すら置き去りにするかの如き速さで羽ばたかせる。
メイドインジャパンの頑丈なコタツテーブルが、二つの強大な力に耐えきれずひび割れた。
「だから、ちょっと待てつってん――」
「真なる闇たる、妾の力に打ち震えよ!」
「………………煉獄があなたを手招きしてる」
ハイジアとルゼルの気迫がぶつかり合った。
それと同時に二人に挟まれた炬燵が弾け飛んだ。
「ちょ! ッ、あっ!?」
「………………やばッ」
二人が焦りの声をあげた。
炬燵は無惨な残骸と化し、すき焼き鍋が宙を舞う。
「――――ッ、はっ!」
マリベルが素早く動き、頭から滑り込んですき焼き鍋をキャッチした。
そんなマリベルにシャルルが「さすがです、お姉ちゃん!」と、これまた空気の読めないヨイショをする。
砕け散ったコタツテーブルが、カランと音を立ててフローリングに落ちた。
「あー! 炬燵、炬燵がぁー!」
我関せずと一人ワイングラスを揺らして、面白おかしく二人を眺めていたフレアが声を上げた。
――しばしの静寂。
炬燵の残骸に集まる視線。
すき焼き鍋をキャッチしたマリベルは、シレッと最後の肉を口に含んだ。
モグモグとマリベルが肉を食う音だけがコタツ部屋に鳴り響く。
……いや、もうこの場所はコタツ部屋ではない。
何故ならもうこの部屋には炬燵がないのだから。
フレアが炬燵の残骸に歩み寄り、コタツテーブルの欠けらをそっと胸に抱いて肩を震わせる。
ハイジアはそんなフレアの後ろをそーっと黙って通り、部屋を出て行こうとする。
ルゼルもひっそりとその後に続いた。
「……待ちなさい、貴女たち」
フレアが炬燵だったものから目を離さずに、震えた声で二人を呼び止める。
「わ、妾は悪くないのじゃぞ!? こやつが! この蝿女が諸悪の根源なのじゃ!」
「………………悪いのはハイジア。私は巻き込まれただけ」
二人は罪を擦りつけあう。
ギャーギャーと騒ぎ立て、何とかして相手の所為にしようと必死だ。
その姿はこの上なく見苦しい。
「あーあ、……つかどうすんだこれ?」
俺は小さく呟いた。
そんな俺の呟きは、瞳に炎を灯らせた赤の女魔法使いフレアの呟きに掻き消される。
「……朱き炎火の獄炎よ 灼熱の幽世に座す黒き御魂よ――」
フレアがぶつくさと呟く。
「ちょ、ちょっと待って下さいなのです! そ、その詠唱は……」
シャルルが慌て始めた。
マリベルはすき焼き鍋を小脇に抱えて口をモグモグさせている。
「――囂々たる現世に顕現せしめ 万物を猛々しき煉獄へと染めあげん――」
「ダ、ダメなのです! ハイジアさん、ルゼルさん! 直ぐに結界を! こ、このままだと辺り一面が焼け野原に!」
「ちょ、マジか!? おい、マリベル! すき焼き食ってる場合じゃねーだろ! アンタもフレアを止めてくれ!」
マリベルがようやく動き出した。
名残押しそうにすき焼き鍋を床に置き声を上げる。
「おい、フレア! 一旦落ち着け!」
しかしフレアは止まらない。
「――ああ、常し世に朱と黒の祝福を――」
「わ、悪かったのじゃ! 妾が悪かったのじゃ! き、貴様も早う謝らんかルゼル! ほれ、この通り!」
「………………ご、ごめんなさい」
ぺこぺこと頭を下げる二人に、無慈悲な言葉が告げられた。
「……炬燵を破壊した罪。その命で償いなさい。――炎属性魔法、超級。熱核融……」
誰かの悲鳴が響き渡る。
その声は俺かルゼルかハイジアか……
こうしてお隣さん家の元コタツ部屋に、阿鼻叫喚の地獄絵図が描き出された。
……すき焼き……食べたい。




