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45 お隣さんと温泉旅行 中編

 お隣さんと合流した俺たちは、旅館の廊下を連れ立って歩く。


 目的地は大浴場だ。

 俺たちの泊まる部屋があるのは四階だが、大浴場は二階にある為、少しばかり歩く事になる。


「なあマリベル?」

「ん、どうした、コタロー?」

「つか、その腰の剣はなんだ?」

「ああ、これはいつもの剣だが、それがどうした?」

「……お、おう、そうか」


 女騎士マリベルは浴衣に剣を携えている。

 雑談を交わしながら歩くそんな俺たち一行に、他の湯治客の物珍しげな視線が投げ掛けられた。


「………………視線、感じる」

「それはルゼルさんのツノが目立ってるからじゃないですかねー?」

「あと羽もじゃな」

「というか、どうやって浴衣から羽を出しているのですか?」

「………………羽のところ、破いた」

「あらあら、貴女、旅館の備品を壊しちゃダメじゃない」

「まあまあフレア殿。浴衣の代金は後で私が精算しておくから」


 お隣さんたちは投げ掛けられる視線なんてさほど気にしない。

 階段を降りて少し歩くと大浴場に着いた。

 話しながらだとあっという間だ。

 大浴場の入り口には男湯と書かかれた青の暖簾と、女湯と書かれた赤の暖簾が垂れ下がっている。


「到着ー! じゃあ早速入っちゃいましょー! みなさん、女湯はこっちですよー!」

「おう、男湯はこっちだな。んじゃアンタらもゆっくりと浸かってこいよー!」


 俺はそう言って大家さんと青の暖簾をくぐる。

 お隣の女性陣は「温泉は何度もテレビで観たのじゃ」とか「大きな湯舟か、楽しみだ!」なんて口々に温泉への期待を口にしながら赤の暖簾に消えていった。




「くあぁ……」


 たまらん。

 大浴場のデッカい浴槽に浸かった俺の口から、自然と声が漏れる。

 隣ではハゲ頭にタオルを乗せた大家さんも、俺と同じ様に「ふおぉ……」と気持ち良さげな声を漏らしている。


「あー、つかやっぱ温泉はたまんねぇなあ……」

「ほんとだねぇ」


 俺は手足を目一杯伸ばして全身で湯を堪能する。

 少し熱めの湯が身体中隅々まで染み渡り、骨の髄まで温もっていくのが分かる。

 全身ポカポカ。

 マジで最高だ。


「くあー、気持ちいいわぁ……」

「大きく息を吸ってぇ、…………ふんッ」


 大家さんがザブンと頭まで湯に沈んだ。

 禿げた頭頂部が小島の様にポッカリと湯に浮かぶ。

 俺は大家さんの頭から離れて浴槽を揺蕩(たゆた)い始めたタオルを拾い、その小島にペチンと貼り付けた。


「おう、大家さん。浴槽にタオルを浸けんのはマナー違反だぜ?」

「ブクブクブクブクブク、……ぷはっ!」


 大家さんが浴槽から顔を出した。

 その顔は目尻と眉尻がトロンと垂れ下がっており、実に気持ち良さそうだ。


「ごめんごめん虎太朗くん。あんまり気持ちよくってつい、……ね」

「おう、タオルと掛け湯は温泉のルールだかんな。気を付けねーと」


 しかし気持ちの良い湯だ。


 有馬の湯には濃い濁り湯の『金泉』と、無色透明な『銀泉』がある。

 この旅館は金泉、銀泉の両方の湯を引いており、日替わりで男湯女湯を交互に入れ替えているのだ。


 今日の男湯は銀泉だ。

 銀泉のお湯は炭酸泉とラジウム泉の混合泉。

 芯から体がポカポカと温まり、湯上りはサッパリなのが特徴である。


「ねえ、虎太朗くん。露天風呂の方にも行ってみないかい?」

「おう、いいっすね!」


 大浴場からは露天風呂へと出る事が出来る。

 やはり温泉と言えば露天風呂。

 俺は一も二もなく大家さんの誘いに乗った。


 カラカラと音を鳴らし、湯けむりに曇った引き戸を開く。

 肌寒い風が火照った体に吹き付け、実に気持ちがいい。


「おー、岩風呂かー!」


 趣のある岩風呂だ。

 周囲からの視界は柵と竹林で遮られ、風呂の一部を跨ぐ様に、簡素な四阿(あずまや)が組まれている。

 四阿にはゴロ寝スペースが設けられており、上気せる前に寝転んで休む事も出来るようになっている。

 岩の隙間を流れる湯の滝が浴槽に流れ込み、竹の葉のサワサワと擦れ合う音とザバザバと流れ落ちる湯の音が趣深い。

 そしてどうやらこちらの露天風呂も無色透明の銀泉の様だ。


「誰もいないね! 露天風呂貸し切りだー!」


 大家さんがザブンと勢いよく露天風呂に飛び込んだ。


「おう! マナー悪いぞ大家さん!」

「ははは、ごめんごめん。でも誰もいないんだから、ちょっとくらいね」

「つかまあ確かに貸し切り状態だけどな」

「あ、そうだ! 虎太朗くんも飛び込んでご覧よ!」

「は、はぁ?」

「楽しいよー! せっかくの貸し切り状態なんだ。ちょっとくらい羽目を外さないとね!」

「お、おう……」


 羽目を外す、か。

 そうだな。

 大家さんは凄い楽しそうだ。

 俺たち以外に誰もいないんだから、たまにはちょっとくらい羽目を外してもいいよな。


「おう! なら俺もいくぜー!」

「ばっちこーい!」


 俺は勢いをつけてザブンと岩風呂に飛び込んだ。

 大きな波がたち、湯舟の湯が波打つ。


「うははははー! 何つーか楽しいなこれ!」

「よし! じゃあ、私ももう一回!」


 貸し切り状態の露天風呂に、オッさん二人が童心に帰って無邪気に遊ぶ声が木霊した。




 一頻りはしゃいだ俺たちは、今度はゆっくりと落ち着いて岩風呂を楽しむ。

 雲ひとつない青く高い空を見上げながら堪能する露天風呂は最高だ。


「あぁ、いい湯だねぇ……」

「最っ高だな。つか、来て良かったなぁ、大家さん……」


 俺たちが体の芯から温もる露天風呂を楽しんでいると、カラカラと引き戸が開かれる音が響いて来た。


 男湯の引き戸ではない。

 どうやら女湯の露天風呂に誰かが入った様だ。


「うわー、これまた素敵な岩風呂ですねー!」

「ふむ、誰も居らぬのだな」

「………………貸し切り露天風呂」


 楽しそうな声が聞こえてくる。

 どうやらお隣さん達が露天風呂に入って来たらしい。


「妾が一番乗りなのじゃ! とーう!」

「あー、わたしもなのです! ていやっ!」


 声に続いてザブンと湯舟に飛び込む音が聞こえて来た。


「こーら、貴女たち! そんな子供みたいな真似しないの!」

「誰が子供じゃ!」

「貴女よハイジア! シャルルも飛び込んじゃダメよ。ちゃんと温泉のマナーを守りなさい」

「ご、ごめんなさいなのです」


 お子様組がフレアに叱られている。


「……ねぇ、虎太朗くん」

「おう、大家さん。みなまで言うな」


 うん。

 フレアには俺たちも飛び込んで遊んだ事は黙っておこう。




「うわぁ……やっぱりこうして見ると、みなさん本当に綺麗ですねー」


 女湯から杏子の声が届く。


「そうか? 普通だと思うのだが」

「そんな事ないですよー! マリベルさん肉体美というかプロポーション抜群ですし、フレアさんも出るとこ出てるのにスラっとしててモデルさんみたいですし、ルゼルさんなんて、柔らかそう……くはっ、鼻血が」


 キャピキャピとした声が聞こえてくる。


「アンズよ、妾には何かないのかえ? ほれ、何かあるじゃろ? 美の化身とか、闇に咲く華とか」

「ハイジアさんはー、えっと、……私と一緒に頑張りましょう!」

「何をじゃ!?」

「あらアンズ。ハイジアと違って貴女はちゃんと凹凸(おうとつ)あるわよー?」

「妾にも凹凸くらいあるのじゃ!」


 お隣さんたちは(かしま)しく騒いでいる。

 そんな声をボーッと聴きながら温泉を楽しんでいると、大家さんがニヤニヤとした顔をして話しかけてきた。


「虎太朗くん、虎太朗くん。覗きには行かないのかい?」

「お、おう。……つか、はぁ!?」

「若い人はそういうの好きだろう? 私も付き合ってあげるから、ほら、覗きに行こうじゃないか!」

「捕まるわ!」

「バレなきゃいいんだよ! バレなきゃ捕まらない! さぁ、私が見張りをしていてあげるから!」

「つか、覗きなんてやらねーつの!」

「え!? やらないのかい? 露天風呂といえば覗きだよ!?」

「んなわきゃねーだろ!」


 何つーダメ人間だ、このハゲ親父は。

 露天風呂と覗きをセットだと思ってやがる。

 俺は大家さんの勧めを無下に断る。


「でもね、考えてもみてご覧よ!」

「おう、な、何をっすか?」

「こんなのは滅多にないイベントなんだよ?」

「お、おう」

「虎太朗くん! 君も正直に言うと覗きたいんだろう? そりゃあ男だからね、覗きたくない訳がない!」

「そりゃ、まあ……」


 俺だって男だ。

 女の裸に興味がない訳じゃない。

 特にお隣さんたちは超が付くような美人揃いだしな。

 でも覗きはいかんだろ、覗きは。


「だからって覗きは――」

「大丈夫、分かってる! 覗きはダメだって言いたいんだよね! 分かってる!」

「分かってるなら――」

「分かってる、覗きはダメ! ……でもそれって誰が決めたんだい?」

「誰ってそりゃ――」


 そりゃ法律だろう。

 俺がそう言おうとすると、またも大家さんが俺の言葉を遮った。


「光源氏だってね、若紫を覗き見して見初めたんだよ!」

「それとこれとは――」

「知ってるかい? 『垣間見』って言葉は垣の間から覗き見るって意味の言葉なんだ!」


 へえ、そうなのか。

 知らんかったわ。


「つまりそんな言葉が出来るくらい、覗きという行為は古来からの文化だったという事だよ! 文化だね、分かるかい、文化!」

「お、おう、文化か……」

「それに江戸時代なんて公衆浴場は全部混浴だったんだよ!」

「なッ!?」


 ――まじか!?


「そんなん女は恥ずかしくないのか!?」

「だから文化だよ、文化! 江戸のお風呂なんて番台から脱衣所、浴場まで全く敷居が無かったんだよ! 全部丸見え! バリアフリーで丸見えだよ!」

「……丸見え」

「ね! だから、ちょっと露天風呂で女湯を覗くなんて事は何でもない事なんだよ! 何たって文化だからね、文化!」


 ……そうだ。

 俺は何を戸惑っていたんだろう。

 覗きは文化だ。

 古来より火事と覗きは江戸の華とも言うしな。

 いや、ちょっと違うか?

 それはまあいいとして、別にちょっと覗くくらい悪い事じゃないだろう。

 いや、むしろ覗かない方が失礼に当たる可能性すらある。


「……おう、大家さん、俺が間違ってたわ!」

「分かってくれたかい、虎太朗くん!」

「ああ、隣の露天風呂に別嬪さんがワンサカいる。なのに覗かないなんて、失礼極まりない!」

「その通りだよ!」

「おう! 行くか、大家さん!」

「うん! 行こう、虎太朗くん!」


 俺たちはガシッと手を取り合う。


「さあ、いこう! 夢の桃源郷!」


 肩を組み、脂肪を蓄えたビール腹をプルンと揺らしながら湯舟からザブンと立ち上がる。


「って、お父さん! 虎太朗さんも、全部聞こえてますからねーッ!」


 女湯から杏子の声が響いてきた。


 俺たちは目を見合わし、頷き合った後に再び湯に浸かった。




「全く、彼奴らは何を話しておるのだ!」


 女騎士マリベルが、片手に持った剣を岩風呂に立てかける。

 プンスカとお冠だ。


「エッチなのは禁止だ。まったく、覗きに来ようものなら叩っ斬ってやったものを!」

「ほら、マリベル。そんなに怒らないの」


 そう言ってフレアがマリベルの背後から抱き付き、胸を持ち上げる。


「んあ!? お、お前、酔っているのか!?」

「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ、おほほほー」

「きゃー! フレアさん、だ、大胆ですねー」

「おっと、また手が滑っちゃったわー!」

「え? え? きゃん!? フレアさん、ちょっとー!」

「フレア、お前! アンズを離せ!」

「おほほほほー」


 マリベルが剣を抜く。

 フレアはそんなマリベルを意に介さずに杏子を捕まえて離さない。


「ちょ、ちょっとフレアさん! そこはダメー! ダメー!」

「あらまぁ、そんな可愛らしい反応しちゃって。お姉さん、ちょっと本気になっちゃいそうよー?」


 フレアが舌舐めずりをする。

 紅い瞳を妖しく光らせて、獲物を見るような視線で捉えた杏子の肢体を()め回す。


「ひ、ひええ……お助けー」


 杏子が情けない声を出す。

 フレアの指が蛇の様に蠢き杏子に絡みついて行く。


「うふ、うふふふふ…………って、アイターッ!?」


 フレアの視界をチカチカと星が飛ぶ。

 マリベルが剣の鞘でフレアの頭をゴチンッと殴ったのだ。


「あたたたた、何をするの、マリベル!」

「それはこっちの台詞だ! いいからアンズを離せ!」


 マリベルが杏子を奪い取り、背にかばう。


「マリベルさーん、ひぃーん!」

「あぁ、あたしの獲物が……」

「安心せよ、アンズ。もう大丈夫だ!」


 杏子は泣き真似をしながらマリベルに抱き付く。


「ひぃーんって、おお、マリベルさん、見た目よりずっと柔らかいんですねー!」

「ん、んあ!? 何処を触っている!」

「何処って、色んなところですよー」

「ア、アンズ、お前! 襲われていたのではなかったのか!?」

「はーい、襲われてましたよー! だから今度は襲う番です!」

「クッ、は、離せ!」


 杏子はマリベルに振り解かれた。

 マリベルはタオルで体を隠しながら声を上げる。


「全く! お前たちはルゼルの胸でも揉んでいろ!」

「………………ん」

「あ、貴女。す、凄いおっぱいね」


 湯に浮かぶ巨大なそれを見て、フレアがゴクリと喉を鳴らす。


「これは、これは。……じゃあ私は右ですね」

「ええ、承知したわ、アンズ。あたしは左ね」

「………………どんと来い」


 二人は息を揃えてルゼルに飛び付いた。


 一方ハイジアとシャルルは騒ぎには加わらずに、のんびりと温泉を楽しんでいた。


「はぁー、これは堪らぬのぅ……」

「ぽっかぽかなのです……」


 シャルルは口元まで湯に浸かって紅い顔をする。

 そんなシャルルにハイジアが声をかける。


「これシャルル。貴様、その様に湯舟に隠れてどうしたのじゃ?」

「だ、だって、……は、恥ずかしいのです」

「何のことじゃ?」

「わ、わたし、裸ですし……」

「何を恥ずかしがる事があるか。ほれ、堂々とせい」

「だ、だってわたし、胸小さいですし、お子様体型ですし……」

「なんじゃ、その様なことか。妾を見てみい、何時いかなるときも威風堂々なのじゃ、ふはははは!」


 そう言ってハイジアが岩の上に立ち、腰に手を当てて高笑いをする。

 晴天の下、誰憚ることなく見事なまでのすっぽんぽんだ。


 そんなハイジアに、フレアと杏子を胸にぶら下げたままのルゼルが近づく。


「………………ふ、小さい」

「やかましいのじゃ!」

「うふふ、ハイジアちゃーん!」

「キャハハ、ハイジアさーん!」

「ぬお! 纏わりつくな貴様ら!」

「ああ、ハイジアさんがピンチなのです! でもお湯から出る訳には!」

「……ふぅ、全くお前たちときたら」


 カポーンと音が鳴り響く。


 俺が手桶を床に落とした音だ。

 その音がお隣さんたちの姦しく騒ぐ声に掻き消される。

 俺は上を向き、首をトントンする。


「……なあ大家さん、そろそろ出ようか」

「うん、そうだね」


 何というか、これ以上聞くと俺の精神が保たない。

 頷き合って、俺たちは温泉から上がった。




 早朝。


 大家さんがイビキをかいて眠る中、俺は布団を抜け出し、着替えを持って部屋を出た。


 まったく、昨夜は大変な目にあった。

 風呂から上がった俺たちは部屋で豪華な夕食を頂き、浴びる様に酒を飲んだ。

 どんちゃん騒ぎで盛り上がり、飯の後はカラオケルームを貸し切って騒ぎに騒ぎ、大いに飲んだ。


 そして日付けもそろそろ変わろうかという頃。

 何人もの酔っ払いを出しながら(ようや)く解散、就寝と相成った訳だが、そこから更にもう一悶着あった。

 何時の間にかルゼルが男部屋の俺の布団に潜り込んでいたのだ。


 いつもならこういう時、ハイジアが「おのれ、蝿女め!」と肩を怒らせながらルゼルを連れて行ってくれるのだが、今回はハイジアも酔い潰れて「わらわも一緒に眠るー」なんて言い出したもんだから、結局収拾がつかなくなって明け方近くまでバタバタしていたと言う訳だ。


「……ふぁ、つか寝みぃ」


 眠いが朝風呂も楽しみたい。

 早朝に入る温泉は最高だ。

 朝の澄んだ空気の中、伸び伸びと入る露天風呂なんて最高の贅沢だと思う。


「……ふぁ、あふ。浸かりながらちっとばかし眠るかー」


 そんな風に独り言ちながら、俺は人気も疎らな早朝の旅館を歩く。

 忙しなく働く仲居さんを横目に、こんな朝早くから大変だねえ、なんて考えていると昨日も入浴した大浴場に着いた。


「っと、確か日替わりで入れ替わり何だよな」


 昨日は赤の暖簾が掛かっていた方の入り口に、今日は青の暖簾が掛かっている。


「つか、今日はこっちか。確かこっちは濁りの金泉なんだっけか」


 俺は男湯と書かれた青の暖簾をくぐる。

 脱衣所で浴衣を脱ぎ着替えを籠に入れると、俺のものとは別の籠に着替えが入っていた。


「ふーん、先客がいるのか」


 少し残念。

 朝の大浴場を独り占めという訳にはいかないらしい。

 俺は素っ裸になり、前をタオルで隠して大浴場へと入る。

 掛け湯をして、真っ先に目指すはやはり露天風呂だ。


 カラカラとガラス戸を引き、露天へと体を晒す。

 まだ温もっていない体に冷たい風が吹き付け、俺の眠気を吹き飛ばす。


「おおっ、さぶさぶっ」


 ぶるっと体を震わせる。

 俺はタオルを畳み、頭に乗せながら湯舟に足を踏み入れた。

 足先からジワリジワリと体に熱が這い上がって来るのを感じる。


「ふぅ、たまんねーなぁ」


 俺は息を漏らしながら、岩風呂の湯をザブザブと掻き分けながら進む。

 すると湯煙の向こうに人のシルエットが見えた。


 お、さっきの着替えの先客さんか?


 どうやら向こうも俺に気付いたようだ。

 湯煙に霞むその人影が軽く会釈をしてきた。

 俺も会釈を返しながら、その先客に声をかける。


「おう、そちらさんも朝風呂っすか? つかやっぱ、早朝の温泉は最高っすよね!」

「ッ、んあ!?」


 んあ?

 なんだヤケに甲高い声だな。


「そっちの方、景色良さそうっすね。お邪魔してもいいっすか?」


 俺はそう言いながら先客さんの方に近付いていく。


「く、来るなッ!」

「は? わり、もう来ちゃいましたわ」


 湯煙が晴れていく。


「おう、いい眺めっすね! つか、絶景、絶景」


 一頻り景色を眺めてから先客さんを振り返る。


「ッ、クッ!?」


 ザボンと何かが金泉の濁り湯に沈む音がする。

 俺が完全に振り返ると、先客さんの姿はもう何処にも見当たらなかった。

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