31 お隣さんは悪魔王
お隣さん家のリビングに魔王級の怪物が現れた。
コタツ部屋まで届く程の凄え重圧を感じる。
そんなプレッシャーの中を、俺と大家さんは千鳥足で魔王観戦へと向かう。
「つか大家さん! リビングのドア、開けんぞ!」
「うん、いつでもいいよ、虎太朗くん!」
「おう!」
俺はガチャリとドアを開いた。
途端にリビングから突風がゴウッと吹き、俺と大家さんを吹き飛ばそうとする。
「うははは! 凄え風吹いてんぞ!」
「おっと、私の髪が飛ばされてしまったよ!」
「つか、元々髪なんて生えてねえだろ、アンタ!」
「そういえばそうだね、あははは!」
「いいからさっさと中に入れ、大家さん!」
「分かったよ!」
俺たちは風に飛ばされない様に腰を落とす。
そして地を這うようにしてリビングの中へと滑り込んだ。
「お、おう、何じゃこりゃー!?」
「あ、嵐だねッ!」
「つかこれ、暴風ってレベルじゃねーぞ!?」
「ふ、吹き飛ばされそうだよ、虎太朗くん!」
リビングの中は酷い有り様だった。
暴力的な風が吹き荒れ、突風、竜巻、鎌鼬がだだっ広い空間を所狭しと暴れ回る。
「……こ、虎太朗くんッ! あ、あれッ!」
荒れ狂う嵐の中、大家さんが宙の一点を指差した。
俺は両腕で顔を庇いながら大家さんの指差す先を見遣る。
するとそこには、禍々しい瘴気を放ち、見るものの心を畏怖させ、魂を恐怖で染め上げる、一匹の巨大な蝿の化け物が存在していた。
「うはっ! あ、あの怪物は!? きたきたきたきたーッ!」
「なんだ大家さん、あいつの事、知ってんのかッ?」
「勿論だよ! あの怪物は大悪魔! その中でも大物中の大物、『蝿の王、ベルゼブル』だよッ!」
「ほー、凄え悪魔なんだな!」
「うっひょー! こりゃ凄い! 感動だよ! よかった、見にきて本当によかった、……うっ、うっ」
大家さんは両手を口に当てる。
涙を流しながら、乙女の様なポーズでフルフルと感動に打ち震えている。
正直ちょっと鬱陶しい。
「うし! つか、とにかく飲み会開始だな!」
「そうしようか!」
「さすがにコップは風に飛ばされそうだから、瓶からラッパで回し飲みな!」
「うほッ! 虎太朗くんと間接キッ……」
「それ以上は言うなッ!」
俺は大家さんの言葉を遮る。
つか、一体何を言おうとしたんだ、このハゲ親父は。
マジでドン引きだ。
俺はテンション爆上げ中の大家さんは放っておいて、体を伏せる様にして座り込み、日本酒を飲み始めた。
暴風を纏う巨大な蝿の王ベルゼブルが、リビングを縦横無尽に飛び回る。
ベルゼブルの飛行速度は、その巨体にも関わらず目で追えない程に速い。
しかもこの蝿は、静止状態からいきなりトップスピードまで加速して飛び回るのだ。
これには、さしもの聖騎士マリベルや大魔法使いフレアも手を焼いていた。
「くッ! 捉えきれん!」
「ここはあたしが! ―詠唱破棄― 喰い尽くす火燕ッ!」
フレアの背から燃え盛る無数の燕が飛び出した。
燕たちは赤く尾をひく線を宙に描きながら、蝿の王ベルゼブルへと襲い掛かる。
「ギィグリィィギィィィイーーッ!」
宙にホバリングしたベルゼブルが、瞬時に最高速で動き出す。
ベルゼブルはジグザグとしたあり得ない挙動で全ての燕を躱し、その巨体でフレアを押し潰さんと宙空からの体当たりを仕掛けた。
「きゃ、きゃああッ!」
「ッ!? させんッ!」
フレアとベルゼブルの間にマリベルが割り込む。
マリベルは手にした剣でベルゼブルを弾き飛ばした。
「ありがとう、マリベル。助かったわ」
「礼はよい。……しかしコイツはやっかいだな。動きが変則的なうえに速すぎる!」
マリベルは頭を抱えた。
俺と大家さんはそんな女騎士を眺めながら、やんややんやと盛り上がる。
「うっひゃー! 見た今の? かっこ良かったねえ!」
「おう! つかど迫力っすわ!」
「ああ、もっと近くでみたいなぁ……」
「お、おう? 死ぬ気かオッさん?」
「い、嫌だな、虎太朗くん! じょ、冗談だよ、あはははは……」
「んく、んく、んく、ぷはぁ! つか、アンタが言うと、冗談に聞こえないんだよなぁ」
「そ、そんなことないよ! あ、虎太朗くん、私にも酒を貰えるかな?」
俺と大家さんはリビングの入り口付近で盛り上がる。
そんな俺たちにマリベルが気付いた。
「うぬ? おいフレア、コタローに大家殿がいるぞ!」
「あらあらまあまあ! 来るなって言ったのに、後で二人にはお説教ね」
しかし俺たちに気付いたのはマリベル達だけではなかった。
蝿の王ベルゼブルは宙空に静止しながら、ジッとこちらを見ている。
「お、おう、大家さん。なんかあの蝿、こっち見てないか?」
「んく、んく、んく、ぷはぁ! 見てるねー!」
「だ、たよな?」
「おーい、ベルゼブル殿! こっちにおいでー! 一緒にお酒を楽しもうじゃないかー。……ヒック」
大家さんの言葉にベルゼブルが反応する。
「ガギィグルグギィァァァーーーッ!」
ベルゼブルは咆哮を上げた後、こちらに向かって猛スピードで飛び出した。
「ちょ、ちょまッ!? つか、マジかッ!?」
「コ、コタロー! 逃げろッ!」
「ダメよ、マリベルッ! もう間に合わないッ!」
「きた、きた、きた、きたーッ!」
俺たちはてんやわんやする。
蝿の王ベルゼブルが目にも留まらぬ速度で俺たちに迫る。
「つか、ヤベェだろこれッ!? あわわ、あわわわ……」
俺は慌てた。
はしゃぐハゲ親父の襟首を掴んで何とか逃げ出そうとするが、もう間に合わない。
覚悟を決め、歯を食いしばったその時……
―このうつけ共めがッ!―
虚空に黒い靄が浮き上がる。
靄は収束し、真祖吸血鬼ハイジアが現れた。
ハイジアは迫り来るベルゼブルの眼前に立ちはだかり、その突進を小さな体で受け止める。
「ふぬッ! ふぬぬぬぬぬッ!」
ハイジアがベルゼブルを押し留めた。
「でかしたぞハイジアッ! 待っていろ、いま加勢するッ!」
「そのまま暫く耐えてちょうだい! 凄いのお見舞いしてやるんだからッ! ―祖に原初の炎を授けし創世の神よ―」
「待つのじゃ! 貴様らは手を出すでない!」
加勢しようとするマリベルとフレアを、ハイジアが制止する。
「手を出すなって、お前、いっぱいいっぱいではないか!」
「ふんぬぬぬぬ!」
「ギィ、ギギギギルィァァァーーーッ!」
「な、何のこれしき、……なのじゃッ!」
ハイジアがベルゼブルに押し込まれて後退する。
「無理しないでハイジア! 相手は悪魔王よ! みんなで力を合わせて倒すのよ!」
「ええい、貴様は黙っておれフレア! ぐぬぬぬぬぬ……」
ハイジアは顔を真っ赤にして力を込める。
ハイジアの体から黒い瘴気が陽炎のように揺らめき立つ。
「悪魔王がなんじゃ! 妾は夜魔の森の支配者! 女王ハイジアなるぞ! ……ふんぬぬぬぬぬッ!」
ハイジアがベルゼブルを逆に押し込めていく。
「お、おう! つか、凄えな、ハイジアは!?」
「うっひょー! すごい、すごい、すごいねッ! ハイジアちゃーん、ファイトーいっぱーつ!」
「貴様ッ! 妾をちゃん付けで呼ぶでないわッ! ふぐぬぬぬぬぬ、ぐぅぅッ!」
「……ギ? グギギギルゥッ!?」
ハイジアは遂にベルゼブルに押し勝った。
「とあーーッ!」
ハイジアはベルゼブルの巨体を持ち上げ、床へと激しく叩きつける。
ベルゼブルは衝撃で一時その動きを止めた。
「今よッ! この世全てに燃え広がる、原初の炎に焼かれなさい! 常世遍く原初の炎!」
「あッ!? フレア、貴様! いい所を奪いよって!」
極彩色の炎が蝿の王ベルゼブルに纏わり付きその巨体を燃やしてゆく。
「ギルィグギルギィァァァーーッ!」
ベルゼブルは雄叫びを上げ床を転げ回るが、焼け落ちた箇所は焼けると同時に凄い速度で回復していく。
「うそッ!? 炎属性魔法、超級の直撃よ? これをレジストするの!?」
「じゃから、手を出すなと言うておろうにッ!」
「いいから貴女も加勢しなさい、ハイジア!」
「うぬぬ、仕方ないのじゃ! ―腐れ落ちて土塊に還れ― 深淵よ……」
地にポカリと大穴が開く。
深淵から湧き出したタールの様な粘着質な液体が、ベルゼブルの巨体に絡みついた。
「ギィ、ギ、……ギィギルィ……」
ベルゼブルは息も絶え絶えだ。
そこに女騎士マリベルがゆったりとした歩みで近づく。
「蝿の王ベルゼブル。まさに難敵であった」
マリベルは鞘に納めた剣を腰だめに構え、深く体を捩る。
「これで、終わりだ。……絶技・氷世終焉」
マリベルの鞘から剣が走る。
逆袈裟に走る研ぎ澄まされた剣閃が辺り一面を銀世界に変え、ベルゼブルを凍て付かせる。
直後、マリベルが返す刀を今度は袈裟懸けに振り抜くと、一面を覆う全ての氷が割れ、静寂だけがそこに残った。
「うわぁ、……つか、厨二病、極まってんなぁ」
「そうかい? かっこいい技名じゃないか、虎太朗くん!」
「えー? 絶技・氷世終焉! キリッ、よ? あたしなら無理無理」
「というかマリベルのヤツめ、最後のいい所を全て持っていきよったのじゃ!」
女騎士は背中を向けて佇む。
悠然と構えるその女騎士は、よく見ると耳が真っ赤になっていた。
ちょっと恥ずかしかったらしい。
「おう、……つか、あれは?」
俺はそう呟く。
ベルゼブルが居た場所に目を向けると、人の形をした一人の女がキューッと目を回して倒れ伏していた。
飲み友達、ゲットだぜ!




