『夏』 遠恋慕―後編―
あなたも私も遠恋慕。
空調の効いたこの部室を、運動部は羨むのだろうか。でも炎天下で走ってもがいてこそ得られる結果もあるだろうから、一概にはそうじゃないかもしれない。逆はどうだろう。空調の効いた部屋だからこそ得られる結果とは何だろうか。それは快適な空間でも努力を持続させる、そんな自制心じゃないだろうか。落ちそうになる心を律するのは、自分でしかない。
『遠恋慕―後編―』
もうじき部活動が終わる十八時になる。外はまだ明るく、ヒグラシの言い様のない鳴き声が響いている。部室からでも聞こえるのだから、多くが鳴いているのだろうか。
結局、作品作りの進捗状況はまずまずとか、ぼちぼちという言葉で表現できる結果となった。悔やんだところで居残りする気概があるわけでもなし、素直に帰り支度を始めることにした。伊勢谷も早々に帰り支度を済ませたようだった。
「帰ろー」
「あー、うん。ちょっと待ってて」
伊勢谷はそう言うと菱野先生のもとに走って行って、資料を返してきた。
「お待たせ」
「うん」
下駄箱まで歩く道すがら、グラウンドのそばを通った。まだサッカー部やら野球部が練習をしている。湿気が張り付くような外で、辛くないんだろうか。眺めながら歩いていると、サッカー部の誰かがシュートを決めた。遠くて顔は見えなったけれど、そばにいたマネージャーらしき人たちが手を叩いていた。どうやら練習試合らしい。
「あ」
「ん?」
一緒になってサッカー部を見ていた伊勢谷が笑顔でシュートした人を指差した。
「笹原先輩だ」
その指につられてもう一度グラウンドを凝視したけれど、やっぱり顔は分からない。伊勢谷の視力は良いみたいだ。あたしが分かることは背が高そう、黒髪で、男の人ってことしか分からなかった。立ち止まっている伊勢谷に、質問をする。
「有名なの?」
「知らないの? あんたってほんと疎いよね、色々」
色々という言葉に悪意を感じたが、ここは素直に聞くしかなかった。試合は展開をしているみたいだけれど、ルールがさっぱりなあたしには面白さが感じられない。
「三年二組の笹原省伍先輩。インハイで活躍して、スカウトから声をかけられてるらしいよ。超有名人だよ」
「へー、千夏と同じクラスなんだ」
「それに顔も良くて優しい! いわゆるイケメンよ!」
「そりゃあ伊勢谷が好きそうだね」
「もちろんよ!」
そんな鼻息を荒くして答えられても困るのだけれど。話を聞きつつ下駄箱へと進んだ。そして少し意地悪が浮かんだ。
「鷹司先輩とどっちが好き?」
「え」
上靴を下駄箱にしまった。伊勢谷の顔を見たら真剣に悩んでるみたいで、眉間に皺が寄っていた。
「どんだけ悩むのさ」
軽く笑い飛ばして、大して興味があるわけでも無いからローファーを履いて、校門へと進もうとした。するとワンテンポ遅れた伊勢谷が上靴をしまいながら言った。
「どっちだと思う?」
予想外な返答に足を止めた。ローファーを履こうとしている伊勢谷は下を向いている。履き終わるまでそのままで待った。顔がこちらを向いたと思ったら、もう一度聞かれた。
「ねえ、どっちだと思う?」
笑っているわけでも、悲しんでいるわけでもない、いわゆる真顔で伊勢谷は言った。本当に分からないのだろうか、自分で。そうじゃないとこんな訊き方はしないはずだ。いつも何かにつけて明確な意見を持っていて、それを言うのを躊躇わないのが伊勢谷だ。なのにあたしに何を訊きたいのだろうか。
「……そりゃ、鷹司先輩でしょ」
小さく息を吐くように笑ってから答えた。一瞬深く考えてしまったけれど、あたしから直感的に出た答えは明確だった。その笹原先輩とやらの方が好きならば、伊勢谷はきっと最初からサッカー部のマネージャーだろうし、仮に美術に入部をしてしまったとしても、すぐに退部をしていることだろうから。
「……正解っ!」
「あたっ」
「分かってるなら訊かないでよねー」
理不尽に叩かれたことにまったく腹は立たなかった。元気な伊勢谷が早足で校門へ向かう姿を見たから。その背につられるように、後に続いた。ローファーはいつもより軽快な音を奏でて、夕焼けに向かう空に響いている。そこに乱入するみたいに伊勢谷が大きな声を出した。
「お腹すいたー」
「いっつもじゃん」
「うるさーい」
「食べるのに、伸びないよねー」
癇に障ったのか、伊勢谷が振り向いて睨んできた。こんな小さい奴に睨まれて何が怖いものかと、気にしない。
「うっさい!」
「声でかい」
反論すれば、伊勢谷は声にならない声を上げて怒っている。こんなくだらない会話をしている内に、別れ道にたどり着いた。
「じゃ、また明日」
「あー、明日もあるのかー」
部活動はコンクールが近いこともあって、ほぼ毎日活動をしている。憂鬱なのは自分の作品が進んでいないから。もちろん自業自得なのは分かっているけれど、理解したところで憂鬱な気持ちがどこかへ行ってくれるほど、あたしの頭は出来が良くない。
「そりゃそうよ。特にあんたは進みが遅いんだから、ねっ」
嫌味な視線をばっちりこちらへ送られた。無意識に顔をしかめた。
「はいはい。頑張りますよ」
「あーあと、早く元気出しなさいよー。ばいばーい」
「お、おー。ばいばーい」
元気ねえ。
踵を返して家へ向かう。辺りは学校を出たときよりも暗くなってきた。
元気が無いわけじゃない。現にこうやって炎天下の中、登校をして部活を終えることの出来るくらい元気だ。まあ、その元気の伊勢谷の言った元気は違うのだろうけれど。どうしてこうも、千夏のことになると調子が狂うんだろうか。何となくその原因は分かってる。千夏が本当は強がりなことを知っているから、泣き顔を見ると自分が辛くなるから、そうならないように出来る限り自分で足掻いている結果がこれだ。千夏にとって頼れる存在になりたい気持ちと、なっちゃんでいることに安堵している気持ちが相反する。
今日は家に来るだろうか。
そう不安に思いつつ、家の玄関を開けた。見慣れた靴に驚いて、嬉しくなった。それを悟られないように、居間に向かった。
「あ、おかえりー」
千夏がテレビから振り返った。顔は笑っていて、ちょっとの間そっけなかったのはあたしの勘違いだったんじゃないかと思えるほどに普通だった。そして、嬉しいけれどそうやって普通な顔をされることで、素直に喜べない自分も確かにいた。
「ただいま」
だからどうしてもそっけない返事になってしまった。でも千夏の表情は変わらなかった。いつも通りの千夏だ。
鞄を部屋に置きに行かず、机のそばに置いて座った。そうした自分に笑った。嬉しい自分が勝ってしまったことに笑うしかなかった。千夏が笑ってるのなら、それで良い気がした。
「なっちゃんっ」
「うん?」
幸せな気分でいたところに、千夏は急に大きめの声を出してきた。驚いてそちらを向けば、いつの間にか正座をしている千夏。太ももの上で握られた拳が、きゅっと締まっている。
「……私、大学は県外にするねっ」
耳を疑った。驚いて、瞬きが出来なくなった気がした。
千夏は何が楽しくてか、笑っている。その笑顔にどういう意味があるのかはあたしには分からなくて、ただおかしいと思った。本能的に、この場面でその笑顔はおかしいと信じたかった。でも考えても、いくら見つめ続けても笑顔のままの千夏がいる。
これは笑顔なんだ。笑顔は嬉しいときに出るものだ。だから、
「そっか」
あたしも笑顔で返すしか無いじゃないか。
辛くても笑えるだなんて、人間はとても便利に出来ている。それを疎んだ。ただ疎ましく感じて、千夏の方を見るのをやめた。テレビでは面白くもない教育番組が映っている。こんなのを千夏は見てたんだろうかと、思考を余所へやろうとした。
「うん。県外の国立大学にいこっかなって」
「凄いじゃん」
いこっかな、でいけるほど簡単ではないだろうけど、千夏なら大丈夫なんだろう。
「だから勉強も今まで以上にやらなくちゃいけなくて」
「うん」
「なっちゃんになかなか会えなくなると思うけど、寂しくても泣いちゃダメだよー」
「泣かねーよ」
「ほんとにー?」
からかう口調に、思わず視線を千夏に戻した。さっきのまま正座で、笑っている千夏がいる。こんな風に拗ねたままじゃいけないと思い、笑って強がりを返す。
「千夏こそ、あたしに会えないと寂しいくせに」
「そりゃあ、まあね」
変わらない笑顔で、飄々と返事をされた。これが大人か。あたしの反撃なんてものともせずに、千夏は寂しいことを認めた。それでも勉強をして、一人で頑張らないと道は開けない。だから千夏はこうやってわざわざあたしにこれからを伝えに来たんだろう。
応援したい気持ちがもちろんある。でも寂しいのも事実だ。小さい頃から、それこそ赤ちゃんの頃から千夏のそばで毎日を過ごしてきた。それが変わってしまうことは、寂しい以外の何物でもない。
「たまには来ていいよ」
精一杯の強がりは、千夏へなっちゃんからのお願いだ。それは自分でもよく分かった。
「……うん」
満面の笑みで了承した千夏は、頑張るねと言い残して、結局晩御飯を食べずに帰っていった。
千夏がこれから家に来ることはきっと凄く減るんだろうなと、自分に言い聞かせるように考える。そうやって会う回数が減ることが、千夏の将来に繋がる。そうして考えてから、気付いた。あたしは今まで千夏のことを気にかけて、千夏の為に自分が悩んでいるのだと思っていた。でも本当は、千夏がいつもあたしのそばにいてくれる千夏でなくなってしまうことが怖くて、だから千夏の変化に敏感だったんじゃないだろうか。
結局、あたしはまだなっちゃんのままでいたいんだと気付いた。そうしてから、強がりをやめて部屋に戻った。
つづく。
何だかずっと設定を出し忘れていた気もしますが、県立高校設定なので、共学です。
新キャラは笹原君です。




