『夏』 遠恋慕―中編―
ペン立てが落ちた音がして、驚いてそちらを向いた。見れば鷹司先輩が机に置いてあったペン立てにぶつかったみたいだった。
周りにいた人が慌てて駆け寄る中で、困ったように笑ってペンを拾おうとする鷹司先輩。先輩は屈んで下を向いた。そのときに長めの髪が後ろから前へと下がった。それで思い出したのは千夏の髪だった。縁側で何故か膝枕をされていた日というか、その膝から落ちた日。あたしの顔を覗き込んだ千夏と、その綺麗な髪を思い出した。それほど強烈な思い出というわけでもなかった筈なのに、不思議だった。
「何やってんだか」
「ごめんごめん」
一ノ宮先輩も呆れつつペンを拾っている。
あたしは呆然として動けないでいた。鷹司先輩の髪から目が離せなかった。正しくはあの日の千夏の髪を思い出していた。それだけじゃなく、千夏の顔も思い出している筈なのにはっきりとしなかった。あの日の千夏はどんな顔をしていただろうか。
鷹司先輩がペンを拾い終えて立ち上がった。それを見て意識を記憶から戻せた。けれど少し遅かったらしく、鷹司先輩の視線とぶつかった。恥ずかしそうに笑った先輩は、特に気にする様子もなくペン立てを机に戻した。あたしは一体今どんな顔をしてるんだろうか。考えが変な方向へ進んでいる気がして、軽く息を吐いた。自分でも分からないところで思考が進んでいた。頭を冷やそうと思って、立ち上がった。
「どこ行くの?」
いつもなら誰も声を掛けてこない場面だ。なのにこんなときに限って伊勢谷は声を掛けてきた。勘弁してほしいと思ってしまった自分は、子どもっぽい。
「トイレ」
わざと大きく子どもっぽく言った三文字は、本当に陳腐だった。
伊勢谷は呆れた様子で「いってらっしゃーい」とだけ返してきた。それに対して見透かされた気がして、心が痛んだ。
廊下に出ると大きく長い溜息が出た。悩むなんて性分に合っていないし、さっき悩まないと決めたばかりなのに。こういう場面で優柔不断で臆病な自分に、嫌気が差した。
廊下にも響く向かいの校舎からの音楽。吹奏楽部は朝も昼も夕方も演奏をしている。あたしたち美術部だって活動時間は長いけれど各々のペースで作業は進む。団体で行動をして、みんなの努力を一つにする労力は膨大だろうとあたしは思う。吹奏楽部に限らず、チームで頑張る人たちは凄い。
トイレと言ったからにはトイレに行かないといけないと思い、廊下を歩いた。すれ違う人はいない。夏休みで、なおかつこの一階の美術室のそばに部活をしているクラブはないからだ。一人で廊下を歩いていることに虚しさと、寂しさを感じた。けれど誰かがここで肩を叩いてくれるわけがない。
トイレに着く直前で、足が止まった。不意に聞こえた声に、階段を見上げた。踊り場に見えた姿は、顧問の菱野先生と紗綾ちゃんだった。紗綾ちゃんは部活に入っていないのに、何で学校にいるんだろうと疑問に感じた。声を掛けようかと考えたけれど躊躇った。どうも楽しい歓談というわけではない気がしたからだ。菱野先生は困ったように頭を掻いているし、紗綾ちゃんは伏し目がちにしている。
次のときには、紗綾ちゃんが菱野先生に大きく頭を下げて立ち去った。というか、こちらへ下りて来た。
「あっ--」
「あ」
目が合って、二人して驚いた声を出した。紗綾ちゃんの表情は切なそうな表情から、あたしの顔を見てすぐ笑顔に切り替わった。あたしはというと、間抜けな顔をしている。
「夏葉ちゃん」
紗綾ちゃんは嬉しそうにこちらへ下りてくる。でもその足はすくんでるように見えた。
あたしは笑っていいものかも分からずに、苦笑いを返した。視界の端で菱野先生が同じように階段を下りてくるのが見えた。こちらへ話し掛けるのかと思いきや、先生はあたしたちを素通りして美術室の方へと向かった。顧問なのだから当然と言えば当然だけれど、あたしは釈然としなかった。
「紗綾ちゃん。何してるの?」
他意の無い質問だった。本当に彼女が今日学校で何をしていたのかが気になった。
「んー、宿題で分からないところがあったから」
電車でわざわざ来るような用事には思えなくて、あたしはまた釈然としなかった。いや、紗綾ちゃんは真面目だしこういうこともあるのかもしれない。なんて自分を必死に納得させようとする自分は、なかなか滑稽だ。
「……そっかー。真面目だね」
「でしょ。案外真面目なんだよ」
紗綾ちゃんが笑っているのは本意なのだろうか。
菱野先生と何を話していたのかが気になった。こうやってまた悩みごとや考えごとが増えていく。決して優秀な脳みそじゃないのに、答えを出す勇気も無いのに課題だけが積まれていく。
トランペットの音が一際鳴った気がした。それは激励なのか、何かの合図なのか分からなかった。ただ微かに辛く感じた。
「偉いね。あたしなんてまだ全然宿題やってないや」
「仕方ないよ。部活あるもんね」
「うーん。まあ確かにそれもあるかなー」
もっと別なところで詰まってます、なんて言えなかった。些細なことで立ち止まってしまうのは悪い癖だと理解はしているけれど、そう簡単には治らない。伊勢谷のように快活な性格になりたい。
「部長厳しいもんね」
以前海へ行ったときに言った部長の機嫌云々という話から、すっかり紗綾ちゃんの中では部長が厳しい人になっていた。ごめんなさい部長。でも間違ってはいないと思います。
「そうなんだよねー」
「頑張ってね。じゃあ、帰るね」
「うん。ばいばーい」
手を振りながら下駄箱へと向かう紗綾ちゃんを見ていた。海に行ったときも同じような心配をされた覚えがあって、気恥ずかしくなった。部活を休んだことを心配されたり、部活が忙しいことを心配されたり。情けない気持ちと、腑に落ちない気持ちがあった。紗綾ちゃんはきっと別のことを話したかったんじゃないだろうか。
紗綾ちゃんの姿が見えなくなってから、あたしは短く息を吐いた。腑に落ちなくたって、もう今は知る術もない。重い足を動かした。既にどうでもいいことな気がするけれど、まだ完全に消化をされていないことがある。トイレだ。歩いて数歩の距離にそれはある。あたしはさっさと入ってさっさと済ませてさっさと手を洗った。そして来たときの倍程の速度で美術室に戻った。
「おかえりー」
「ただいま」
落ち着いて返事をすると、伊勢谷は嬉しそうに笑った。こういう顔をいつもしていればいいのになんて、憎まれ口は今は置いておくのが無難に感じられた。
「ねえ」
「うん?」
あたしが椅子に座ると同時に声をかけられた。伊勢谷はペンを持ったまま、視線はカンバスにやったままだった。前方に座る伊勢谷の表情は窺えない。後ろの席で続きを待った。他の部員は皆、特に聞こえていないようだった。
「そのペースで間に合うの?」
「……ほっとけ!」
神妙なトーンで何を言うかと思えば、あたしへの追い打ちだった。伊勢谷は肩を震わせて笑った。その後姿に恨めしい視線を投げた。そして菱野先生がいることに気が付いた。鷹司先輩と何やら打ち合わせをしている様子だ。笑っている先生の顔を見たら、余計にさっきのことは忘れた方が良いと思えた。
伊勢谷はあたしをからかいたかっただけのようで、もう自分の作業に集中していた。前衛的な絵は抽象的で、まったく何を描いているのか理解できない。それでも一生懸命描き続けられる忍耐力というのは、羨ましい。中学での陸上部時代に身に付いたのだろうか。そうとすれば彼女のミーハー心から生まれた奇跡の産物であろう。
「前から気になってたんだけど、何描いてんの」
「人」
伊勢谷は筆を止めずに言った。
「だと思う」
「……へえ」
人には見えなかった。カンバスの色は黄、緑、青など様々だったけれど、肌色が無かったからだ。ぶっきらぼうに返答する伊勢谷が珍しくて、あたしは質問を重ねることにした。
「どんな人?」
「どんなって……優しい人かな」
「その黄色らへん?」
「そうね黄色と、この青かな」
「寒色なのに?」」
くるりと伊勢谷がこちらを向いた。手には筆。
「それもそうね」
伊勢谷は照れたように笑った。本当に気付いていなかったようだ。青色は寒色。優しさとは遠い色だと思う。それは一般的な感じ方のはずだ。
「でもいいの、好きだから」
あたしの返事を待たずに伊勢谷は前に向き直した。何だかまたやっちまったぞと思ったけれど、後悔は先に立ってくれない。目には伊勢谷のカンバスに浮かぶ青ばかりが入ってきた。あたしにはそれ自体は優しく感じられない。けれどカンバスに青を描く伊勢谷の手は、優しく感じられた。
つづく。
美術部顧問の登場です
菱野先生です
私の中で伊勢谷さんが可愛いです




