『夏』 遠恋慕―前編―
夏葉ちゃんの部活ライフ
新キャラが三名
夏休みも終盤に差し掛かり、あたしは秋のコンクール作品制作に追われている。考えども考えども、手が動き、作品が完成に近付くわけでもない。なのにあたしはずっと考えている。それはもちろん絵のことだけど、それだけではないような気がした。詰まる所何か別の問題がありそうで、なさそうで。
ただそんな悩みは部長の睨みで吹き飛んだ。というか、吹き飛ばされた。知らぬ間に近くへ来ていた部長は、表情さえ朗らかであれど全身から発せられる空気が、まるで殺気だった。
顔が綺麗でスタイルも良い。そんな素敵な先輩がどうしてこうもなってしまったのか。原因があたしにありすぎて、逃げ出したくなった。
『遠恋慕―前編―』
「た、鷹司先輩。そんなに睨まないで下さいよ」
「いやーなに、気にするな。どうも君の手が止まってる気がしただけだ。さ、続けて」
何も言い返せない現実だ。海へ行ってからというもの、あたしの作業スピードは落ちた。今更日焼けが痛いとかそんな訳の分からない理由ではないけれど、考えや悩みが止まらないのだ。
お構いなくという風に手で合図をした鷹司先輩は、気にするなという割にはその場を動こうとはしてくれない。これは無言の圧力というやつだと、嘆いた。口に出せないのは、この人には逆らってはいけないということを理解しているからだ。美術部部長である鷹司先輩は、基本的に優しいが言動は怖い。特に規則や期日といった決まり事を守らなかったときは、超怖い。長い金髪を靡かせて理攻めで来られた日には、しばらく精神的に参ってしまう。だからあたしは部長には逆らわないようにしている。それに部長が怒るときは大抵、自分が悪いのだと理解している。
「鷹司、それじゃ進むものも進まないって」
そう言って仲裁に入ってくれたのは副部長の一ノ宮先輩だった。咎めるというよりは窘めるようにして、鷹司先輩の肩を叩いた一ノ宮先輩は、笑っていた。
「そうだな。頑張れよ」
小さく息を吐いて鷹司先輩は離れていった。笑顔が窺えたので、さほど怒ってはいないだろうと安堵した。
一ノ宮先輩はやれやれといった表情で鷹司先輩の後ろ姿を見ていた。
「まあ、期待してるんだよ鷹司は沢木に」
「え」
「あれ、気付いてなかったの? 沢木にだけだよ、鷹司があんなに気にかけてるの」
寝耳に水というのはまさにこのことだと思った。鷹司先輩が周囲を気にしているのはいつものことだ。なのに特にそれがあたしに強いと言うのだろうか。
呆然と一ノ宮先輩を見つめたけれど、一向にあたしの頭の中は整理されなかった。眼鏡の奥の瞳が優しげに細められて、ますます色々な感情があたしの中でらせん状に回った。
「だから頑張りなね。まあプレッシャーに感じることも無いけど」
「は、はい」
返事が気の抜けたものだったので、一ノ宮先輩は苦笑いをした。けれどその後に納得した様子で短く息を吐いて、離れて行った。反対にあたしの頭の中はまだ浮足立っていた。絵を描いていて千夏やりーじゃない人に期待をされるなんて、初めてだったからだ。純粋に嬉しいという気持ちで、頬が緩んだ。
「え、何笑ってんの!怖いんだけど!」
不意に前からかけられた大声に、体が跳ねた。この美術室に場違いなうるさい声の持ち主に心当たりは、一人しかいない。
「うっさい」
同級生の伊勢谷 可南がこちらを見てにやにやとやらしい笑みを浮かべていた。背は小さいけれど声がでかく、長い髪をいつも浮かせて走っているというのが、こいつのイメージだ。中学生のときは陸上部に所属していたそうだ。どうして高校で美術部に入ったのかと聞けば、鷹司先輩がいたからとあっけらかんに言われた日にはドン引きした。もっと聞けば陸上部に所属していたのも、イケメンな男子の先輩がいたからだそうだ。伊勢谷は超ミーハーなのだとそのときあたしはレッテルを貼った。
ちなみに伊勢谷は絵が壊滅的に下手くそだ。
「怒んないでよー。調子の悪い夏葉ちゃんを励ましに来たんだから」
握った右手を差し出されて、促されるように左手を受けるように差し出した。開かれた伊勢谷の手からはミルキーが二つ。
「ありがとう」
「いえいえ」
伊勢谷は変な感が鋭くて、調子の悪いあたしに無理に原因を聞いたりはしてこない。それがありがたいような、寧ろ今は強引にでも誰かにつっこんでほしいような気もする。でも案外悩み事は単純なのが現実だ。端的に言うと、千夏が海に行ってからそっけなくなった気がする。いや確かにそっけなくなったのだ。家には寄り付こうとしないし、学校で会っても挨拶をする程度。これが受験のストレスでのノイローゼってやつなんだろうか。
悩みつつ口にミルキーを掘り込んだ。慣れた動作でペコちゃんが何人いるかを確認するために、包み紙を広げた。残念ながら六人という散々な結果。
「伊勢谷はさ」
「何?」
「悩んだりする?」
心の底から出た疑問だったのだけれど、言ってから気付いた。これは大層失礼なことを言ってしまったぞ、と。現に伊勢谷の眉間にうっすら皺が出来ている。
「け、ケンカ売ってる?」
前のめりになりつつ言われた言葉に、思わず後ろに体を逸らした。弁明したいけれど如何せん本当に疑問に思ってしまったものだからタチが悪い。
「いや、その。ほら、伊勢谷いっつも明るいしさ。どうなのかなーと」
「フォローになってないわよ!……まあいいけど」
溜め息を吐いた伊勢谷はちらりとこちらを窺ってから、右手で髪をくしゃりと一度掴んだ。これは彼女の癖なのだろうか。そしてまっすぐこちらを向いて、口を開いた。
「あるわよ私にだって悩みくらい」
ひどく落ち着いたトーンでそう言われてしまった。あたしはまたやってしまったと後悔をした。最近こういうシーンや雰囲気によく遭遇をする気がする。あたしが足を突っ込んでいくから悪いのだという自覚は、ある。
「でもね」
「うん」
「私より悩んでそうなあんたに言う悩みなんて無いわ」
びしっと音が出そうな程に指を差されて唖然とした。かっこいいと思った。このくっそ小さい伊勢谷はちゃんと周りが見えていると思ったからだ。向けられた視線は一気に優しくなって、伊勢谷は笑っている。差された指はそのまま伸びてきてあたしの額に当たった。
「あたっ」
「ちゃんと頑張りなさいよ。じゃないと鷹司先輩の迷惑になるでしょ」
笑いながら伊勢谷はそう言って何も無かったみたいに、きっと彼女的には何も無かったのだろう。離れて行った。だからあたしも負けじとその背に「余計なお世話だー」と返した。
伊勢谷にだって悩みがあるのだと嬉しくなったのはあまりに不謹慎なので口には出さない。だけど安心したのは事実だ。あたしばっかりがこのぐるぐると周る感じに苛まれているのかと思っていたから。
じゃあきっと、うちに寄り付かなくなった千夏にも悩みがあるのだろう。悩みを言ってもらうためにも、あたしがこんな風に悩んでちゃいけないと思った。
二つ目のミルキーを口に入れた。包み紙を見れば九人のペコちゃん。惜しい。
校庭を挟んだ向かいの校舎から、吹奏楽部の演奏が聞こえた。あたしも頑張って描かないといけない気がした。カンバスに向き直して、心機一転とまではいかないけれど、筆を取った。
つづく。
新キャラおさらい
・鷹司先輩(美術部部長 三年生)
・一ノ宮先輩(副部長 三年生)
・伊勢谷可南(ヒラ 一年生)
そして、主人公の夏葉ちゃんのフルネームは
沢木夏葉




