『夏』 海の記憶―後編―
今回は里帆ちゃん視点です
きっとあなたは気付いていなかった。ずっと向けていた視線の、その向こうにあなた自身がいる事に。
その事に気付かずに苦い顔をしたあなたを、私は引き止めようと思わなかった。途方もなく悩むあなたを見ていたかった。真実を知ればあなたは悩まなくなってしまう。だから隠した。私が好きなのがあなただという事実と真実を、有耶無耶にした。
波の音がどんどん遠ざかっていく。そんな感覚を覚えながら呟いた言葉は、確実にあなたのどこかへ刺さっただろうし、私のどこかにも刺さった。
そうやって二人して無様な穴を広げて、私とあなたと彼女は、またちぐはぐな関係を、本当は私だけが入れていない、そんな関係を今も続けている。
『海の記憶―後編―』
太陽が段々と沈もうとしていた。
夏葉はとっくの昔にとビーチパラソルの下へと避難をして、きっと絵を描いてる。でも別に咎めるつもりは無い。何より夏葉が絵を描かない事なんて不可能だと最初から分かっていた。三人で海へ行くようになってから、ずっと夏葉は海で絵を描いていたのだから。
運動が不得意な訳でも無い癖に、もやしっ子。それが夏葉だった。
「いったよ!」
「任せろっ!」
威勢良くビーチボールに飛びつけば、大きな飛沫が上がった。笑い声と海水が、耳に入ってきた。こうやってはしゃいでいられるのは今年限りなのだろうか。ぼんやりと昨日悩んでいたことが頭をよぎった。結局考えたくもなくて、考えることを棄てた。これからの事もあなたの事も考えたくなかった。
「里帆ちゃん早くー」
さーやに急かされながら、結局取り損ねたボールを拾いに走る。砂浜はいつの間にか熱を下げ、難なく走れるようになっていた。
貝殻がところどころに落ちている。綺麗な砂浜とは言い難い、よくある砂浜。慣れた筈のここが、夕方になるにつれ、他人へと変わるようだった。
あれは去年だった。
触れたボールを指でこすれば、きゅっと鳴った。スイカ柄のボールは去年買った。でも去年、使われることがなかったことを、今更申し訳なく感じた。
「いくぞー!!」
これ以上俯いていたら、今が崩れる気がした。勢いよく打ち上げられたビーチボールは、さーやの元へと飛んでいった。
千夏さんのところへは飛ばせなかった。夕方の景色がそうさせた。
あれから何が変わっただろうか。
私の打ったボールを頭で受けたさーや。それを見て笑う千夏さん。パラソルの下で絵を描く夏葉。
『海でのお絵かき禁止ね』
先日の自分の言葉が、頭を過った。
そうだよ夏葉。絵なんて描いてちゃだめなんだよ。そう、駄目だったんだよ。夏葉がいてくれないと、駄目だったんだ。間に何もないと、眩しくて、触れたい気持ちと逃げたい気持ちが、溢れてしまった。だから私は去年、千夏さんを傷付けてしまったんだ。
**
去年の夏、夏葉と私はまだ中学三年生だった。三度目の海はもはや恒例行事で、例年通り遊んで終わるはずだった。
でも何気なく出た会話がそれを、邪魔した。
「進路決めた?」
夏葉から唐突に出た言葉に驚いた。
そりゃあまあ、中学三年生で受験生なのだから、進路の話が出る回数は増えた。それでも、海に来てまで話すことなのかと私は憂いた。
そう思いながら恨めしそうに夏葉を見つめたが、意に介さずぽかんと口を開けているだけだった。肩口まで伸びた髪は濡れて、独特のウェーブが出ていた。
焼けないなあ、こいつ。
夏葉は春夏秋冬、年中無休で肌が白い。本人曰く、日焼け止めを塗っているからと言うが、私だって塗っているけど夏はどうしても焼ける。元来、色白だなんて羨ましいと思う。
「決めた」
「え゛。どこどこ」
夏葉の向こう側に、ジュースを持って来る千夏さんが見えた。そして私の視線に気付いたのかその足が早まった。
「夏葉と同じとこ」
「おー。てっきりりーは、吹奏楽が強いとこに行くもんだと思ってたよ」
「あー、まあ」
「だって推薦貰ってたっしょ? 私学から」
「もらったけど、何かこう音楽性の違いと言いますか」
千夏さんがいるからだなんて言えないのは当然だけど、仕方のない嘘なんてあっていいものなんだろうか。
痛む心が背中を押してくれたところで、素直になっていい訳でもないことは知っている。それが全部自分のエゴだということも理解はしている。それでも嘘を突き通せば皆が笑顔でいられるのだと思えば、容易いのではないかと自分を擁護した。
「なんだそりゃ」
「ほら、夏葉と同じとこの方が楽しいし?」
「そんなこというガラかよー」
これは本心だ。出会った頃から本能的に気付いていた。こいつといるときっと笑顔でいられる。今の省エネ具合からは想像もつかないかもしれない。でもあの時、キラキラした顔で走って、笑って、友だちになろうと大声で叫んできたような奴なのだから。
「良かったねなっちゃん。これで寂しいーって泣かなくて済むよ」
いつの間にか傍まで来ていた千夏さんはジュースを渡しながらからかうように言った。また心が痛んだけれどきっと日が暮れてきたせいだと有耶無耶にした。千夏さんの手から渡されたジュースを落としそうになったのは、誤魔化しきれない思いのようだった。
「誰が泣いたよ、誰が」
「あれ、私が高校生になったとき泣いてなかったっけ?」
「泣いてねーよ!」
「もう、夏葉ちゃんは泣き虫でちゅねー」
「りー!」
一頻り夏葉をからかった後、夏葉が突然立ち上がった。どうしたのかと聞いてみれば向こうの岩の上から見た夕陽が綺麗な気がするから描いてくる、と私たちの了承も得ずに駆け出していった。私たちは少し呆れはしたけれど、いつものことなので追いかけることもしなかった。大きな声で気を付けてとかければ、片手を上げて返事をされた。
「行っちゃったね」
まるで母親のような優しい声で千夏さんは言った。そうですねとも返せずに、私は夏葉の背を眺めていた。その優しさの向きを追うようにするだけで、精一杯なことが虚しかった。
「ジュースもほったらかしで」
レジャーシートの上に置かれたポカリは中途半端に飲まれていた。
「そういえば本当に何で県立にしたの? 私学の方がやっぱり吹奏楽強いでしょ」
急にかけられた質問に、思わず勢い良く顔を上げた。みつめればいつもと何ら変わらぬ千夏さん。濡れた髪はうっすらウエーブがかかっていて、夏葉と似てるだなんて嫌味にしか感じられなかった。
「そう、ですね」
今更出てきた、そうですねは、誰に向けているのかすら曖昧だった。それはただ偽る前の踏み台で、心構えで、虚勢で、愚かな言葉だと重々理解していた。
優しい声の方角を私は知っている。その向きを今更この位置からどう抗っても変えられないことも知っている。だからその方角に立とうと思う。向きを変えるのではなく、そこに私を立たせようと。
「夏葉がいるから、ですかね」
「……仲良しだねえ」
わざと含ませた好きという気持ちは、間違いなく千夏さんへのものなのに。それに気付かずあなたは苦い顔をした。そうやって悩んだ隙にもう一言付け足す酷さを理解している。だから続けた。
「好きですから」
夏葉の向こう側にいる千夏さんが。と心で付けた自分はどうしようもない程に傷付いていた。それは自業自得で誰にも責任なんてない、私以外には。
千夏さんの顔は青ざめたように見えたけれど、それは一瞬だけだった。神様が彼女に与えた余分な二年は千夏さんを成長させるには十分で、大人な対応ってやつが返ってきた。
「ほんと仲良しだねー」
その笑顔に疑う余地はなかった。今回もやっぱり、そうですねとも返せずに、はいとだけ応えた。逸らした視線の先に見えた海は、どんどん遠ざかっているようだった。波が静かで私だけが場違いな気がした。その音が攻めてくる錯覚に襲われたのは、どうしようもない虚しさからだった。
こうやって二人して無様な穴を広げて、私とあなたと彼女は、またちぐはぐな関係を、本当は私だけが入れていない、そんな関係を今も続けている。
**
また日暮れが近付いてきた。ビーチパラソルの下で去年と同じようにジュースを飲んでいた。違うことはさーやと夏葉がいること。誰かが言い出したわけではないけれど、帰ろうと誰かが言った気がした。
本当は私が一番不安だった。海に千夏さんを誘おうと言ったのは私だけれど。来てくれる可能性を減らしてしまっていたのも増やしていたのも私だったから。
「受験生のくせに海に来ていいのかー」
繰り広げられている会話にはっとして顔を上げた。
「うーん。……ほら、ビーチバレーやりたかったから」
「何じゃそりゃ」
「去年里帆ちゃんが持って来てくれてたのに、出来なかったもんね?」
千夏さんから向けられた視線の先には私がいるのか、それとも私の向こう側に夏葉がいるのか。もうその方角を狂わせてしまった私には分かりようのないことだった。
「そうですね」
去年よりも随分とすんなり出てきた、そうですねは、私が一年の間で大人になった成果だとでも言うのだろうか。でも、来年もこんな夏が来れば良いと願ってしまう自分は、どうしようもなく子供なのだと思う。
つづく。
ゆっくりお話は進んでいきます
遊んでるシーンをもう少し足したかった
まだ夏編は続くと思います
楽しんでいただけたなら、嬉しいです




