『夏』 夏が泣く―後編―
10/4に細々編集。
※警告※夏はクーラーの効かせ過ぎに注意しましょう。
田舎の家は広い、誰かがそう言っていた。広いも何も、あたしにはこれが当たり前だから何とも思わない。
そう、当たり前だから。
『夏が泣く―後編―』
玄関に入ると、涼しさに心が落ち着いた。クーラーは素晴らしい文明の利器だと思う。
台所を覗いてみる、どうやらお昼ご飯の予想は当たったらしい。
縁側を通って階段へ向かう、途中で目の端に風鈴が映った。その音は聞こえないけど鹿おどしの音だけは静かな庭に響いていた。寝ている玉造を足で一度つついて、あたしは二階へ上がる。
「あっつい」
部屋に入るなり思わず出た一言、あたしの部屋のクーラーは休業中だ。
リモコンを探そうとして、やめた。『エコだよエコ』千夏の最近の口癖はこれだ。あたしは横文字が苦手だけど、この言葉の意味くらいは分かる。
……着替えよう、そしてさっさと一階へ行こう。あたしは何だかんだ言っても千夏に弱いのかもしれない。
溜め息はぐっと呑み込んで、あたしは鞄に突っ込んであったタオルで汗を拭った。首にタオルをかけて小さく息を漏らした。暑いという台詞を必死に飲み込んだ結果の溜め息だ。
半袖のTシャツに少しゆったりした長ズボン、シンプルイズベスト。もう一度言う、横文字は苦手だ。だけどこれはあたしの信条だ、部屋着は楽なのが一番だし。
そして着替えて早々、あたしは足早に自分の部屋から出る。
とんとん、というよりだだだっ、という感じの音を鳴らして階段を降りると、廊下で玉造が不機嫌そうにこちらを窺っていた。
「なんだよー」
近付いて屈むと、玉造は寝てるフリをする。可愛くない奴め。何となくそのまま立ち去るのは癪な気がして、あたしは玉造の近くで寝転んだ。頭の近くに玉造がいて、ごろごろと喉を鳴らす音が聞こえる。これは「あっち行け」という事なのかも知れないけれど、勿論無視だ。
嫌がらせで寝転んでみたはいいものの、如何せんここも
「暑い」
嗚呼、暑いにも程があるだろう。
根気なんて物はあたしには備わっていない。あたしはさっさと立ち上がり、台所へ向かおうとする。鈴の音が聞こえて振り向くと、玉造は何とも気持ち良さそうに伸びをしていた。
あいつ一日中寝てる。ネコ科め。
よく分からない事を思いつつ、きっともう出来ているであろうお昼ご飯の下へ歩く。
ご飯を食べたら何をしようか、そう考えてみるも幾つか出てくる選択肢の中に『宿題』という二文字は無い。あれだよ、一日でやっちゃうタイプ。こう言うと必ず『どんなタイプだよ』というツッコミを入れてくるりーは、三日でやっちゃうタイプだったりするんだから何とも説得力に欠ける話だ。
ぺったぺったと床を歩く、さりざりと畳の上も歩く。
昔から家に帰るとすぐに靴下を脱ぐ子だったらしい、今もその癖というか習慣はそのままだ。冬場でも下手したらずっと裸足でいるものだからよく寒くないのかって訊かれる。寒いと言えば寒い、でも意識しなければそれが至って普通だから何とも思わない。
慣れや習慣ってのは恐ろしいね。
「ごはーん」
小さく呟きながら居間に行くと、へらへらした先客が視界に飛び込んできた。あなた、今日は進路の説明が云々かんぬん言ってませんでした?
「おじゃましてまーす」
「何でやねん」
微妙すぎるイントネーションのツッコミを入れると千夏は暑いね。なんて関係の無い返事をしてきた、色んな意味でさすがだ。
そして私も私で関係の無い事を考えてしまう、イントネーションってどういう意味だったっけか、まぁいいや。
よっこいしょ。と机を挟んで向かい合うように座ると、返事をしていないのに千夏は話し始めた。
「進路説明会意外と早く終わったんだー」
「そうみたいだね」
夏なのに涼しそうな顔をして千夏は何故か嬉しそうだ、いや実際居間は涼しいんだけれど。千夏より先に家に入ったはずのあたしは汗を掻いているのに、千夏は掻いていない。
……何だか理不尽だ。
「今日来るって言ってたっけ?」
部屋は涼しいはずなのに気だるくて、あたしは寝転ぶ。古い畳の何とも言えない匂いが鼻を通る。この匂いは嫌いじゃない。
「何となく、ご飯作るのめんどくさくって」
あははっ。と笑う声が、少しだけ疲れてるような気がして一瞬言葉に詰まった。
ご飯を作るのがめんどくさいと千夏はうちにたかりにくる。それは別に珍しい事じゃない。うちのお母さんだってもう慣れっこで、晩御飯は基本的に多めに作ってる。そして、千夏がうちにたかりに来ない日はあたしがそれを持って行く。最早それは日課だ。
「そっかー」
どうしたのなんて急には聞けないし、元気の無い千夏なんて珍しくて、何故かあたしは怯んでしまった。
千夏はあたしと違って、夏に強い。・・・・・・あたしは弱いというよりか嫌いなだけなんだけど。
だから夏バテじゃない事は確かで、思考がぐちゃぐちゃになってきてどうしていいか分からなくなる。
それに、暑さのせいで頭が働かない。
「夏バテかな、最近だるくって」
千夏の声だけが居間に響いて、あたしは急に瞼が重くなった気がして軽く目を閉じる。登校日っての予想以上に疲れるらしい、うん。
そう信じて止まずに、あたしは目を閉じる。彼女がそう言うのなら、それが本当なんだ。
夏バテなんてしたことない癖に。そんな言葉はあたしの千夏へ対する意地っ張りでおかしい信頼に蹴り飛ばされた。
「納豆食べなよ」
小さく息を吐いて目を開けると天井がいつもより高く感じた。見慣れない染みがあって、少し不気味だ。
「やだよー納豆嫌いなの知ってるでしょ。何で納豆なの?」
「ネバネバがいいらしい」
「へー」
「あれ?オクラだったっけか」ま、どっちでもいいじゃん。とりあえず食べなよ。そう続けると千夏の困ったような笑い声が聞こえた。
嗚呼、オクラも嫌いだったっけ?
千夏はネバっこい物が無理だったような気がする。と言っても、出されたら食べるけれど。その辺は何だか少し大人っぽいが、あたしと二人きりの時は食べない。嫌いな物はあたしのお皿へ。
やっぱり子供っぽいのかもしれない。天井の染みの模様が兎に見えてきた。
「なっちゃんの顔見たら元気出たから食べなくても平気」
「ぶっ、まさか」そんなわけないっしょ。そう続ける前に「本当だよ」なんて言ってきた。
減らず口が叩けている内は大丈夫だって、そう思う。
へらへらって言葉が机の向こうから飛んで来そうな気がして手で払ってみた。相変わらず変だな、なんて今更過ぎて笑えてくるくらいだ。
自意識過剰のような気もするけれど、千夏はあたしの事が大好きだ。それはもうかなり重症って程に。妹みたいな感じなんだろうなって自分で思ってあたしは少し眉を顰めた。結局あたしは、妹みたいなものなんだ。中三で身長を抜かしてもあたしは彼女の中では小さくて幼い泣いてばかりの『なっちゃん』なんだ。
何に対して憤りを感じているのか自分でもよく分からないけれど、あたしはバーカと最小限、相手に聞こえる程度で言った。
「バカって言う方がバカなんだよ」
「やかましい」
いつもの減らず口に、一瞬で憤りは消えた。だけど、さっきからの違和感は消えない。顔は見えない、むしろその方が安心できる。
千夏と声だけで会話をする。……しかし、声だけで相手の体調が分かるのも考え物だなと思う。疲れてるのは、受験だからだって言い聞かせて。受験で夏バテ初体験してるんだって信じた。何も言ってこないのはあたしに心配をかけたくないからだと思い込む。
さっきから溢れそうになる疑問符を呑み込むのに必死なあたしは、自分の額に未だに汗が滲んでいる事に気が付かなかった。
風鈴の音が耳に鳴り響いて、あたしの中の何かに触れた。手の内から零れる水みたいに、一気に落ちる。
「何かあった?」
言ってしまえば待っているのは沈黙と後悔で、空気がより一層ひんやり気がした。
今のタイミングは駄目だろう自分。汗は素知らぬ顔をして引いていく。
「何かって、何が?」
間髪入れずに返事を返した千夏の反応は大人みたいで、というかもう大人か。千夏はきっと笑ってる、顔が見えないのをいい事に気の抜けた困った顔をして。
今急に起き上がったらびっくりするだろうな、なんて思いながらあたしは何にもないならいいよ。と告げてから腕で顔を覆った。
机一つ分の距離を、これ以上開けられないように、あたしは子供らしく引き下がっておこう。
「そーいえば、千夏って嘘吐かないよね」話題を変えるのは意外と難しくない事だと思う。それが強行的なものであったとしても、だ。
……ただ、あたしはどうも舵のとり方を間違えたらしい。
痛い痛い、沈黙が痛い。あれ?どーなってるんだ?
何?急に。くらいの軽く笑いを含んだ展開を期待していたあたしにはこの沈黙が痛くて仕方がない。
「ちょ、返事してよ千な――」
がばっと勢い良く起き上がってみれば、目の前には驚いた顔をした、おまけに目に涙を一杯これでもかと溜めている千夏がいた。言葉に詰まるどころか、あたしは息が止まりそうになる。
「え、え?ど、どしたの。お腹でも痛い?」
「ふはっ、やだなぁ。あくびだよ」
あくび。と言い聞かすように二度も言われてあたしは頭をかりかりっと掻いた。嗚呼、なんだあくびか。納得しかけるのと同時に、どこかがちくりと痛んだ。
どうしてだろう、一生懸命涙を堪えてるように見えるのは。今日の千夏はやっぱり変だ。いつも変だとか、そういう事じゃなくて。変だ。
手を伸ばそうとしても、右手は頭からだらしなく降りただけで前へは伸びてくれない。触れたら千夏が泣いてしまいそうな気がして。半ば自分にそう暗示するかのようにあたしは手を伸ばせなかった。
今日は舵のとり方をよく間違えるらしい。
千夏の大きな瞳から、もう無理だと訴えるように涙が零れた。
あたしはびっくりして目を逸らせなかった、千夏も同じくらい驚いた顔をして右手を顔に当てている。
濡れた手をゆっくりと顔から離して、千夏は笑った。
「おかしいな、どうしたんだろ」
さっきまでとは違う声、掠れた声で千夏は言った。こっちが訊きたいよとは言えない。こんな風に唐突に泣き出す千夏を見て思い出すのはあの時で、酷似しすぎた状況に胸がざわつく。
あの時みたく、泣く理由がいくら考えても分からなくて、あたしは何も出来ずに不戦敗を重ねる。その辺りが、やっぱり未だに『なっちゃん』と呼ばれる理由なのだろうか。
嗚呼、そういえば一度……というか一日だけ『なつは』と縋り付くように呼ばれた事があったっけか。確かその日も今日みたいに急に泣きだして、でもその時の涙の訳は、あたしには痛いくらい分かってしまって。だからその三文字が酷く重たくて、千夏を支えるのに精一杯だった気がする。
それを知ってか知らずか、あれ以来千夏はあたしを『なつは』とは呼んでいない。
まだ、呼ぶのには頼りないのだろうか。
声すら出せなくて、あたしは寝転んだ拍子に首から落ちたタオルを拾い上げて、んっ。と差し出す事しか出来なかった。汗臭いかもしれないなんて差し出してから気付く、ティッシュが机の右下にあるのにと千夏の顔を見てから気付く。
気が回らないとよく言われる。追いつかないのだから勘弁してほしい。
千夏のありがとうは、あたしの汗臭いタオルのせいか、はたまた彼女の小さすぎる声のせいか。どちらにせよ机一個分を越えられずにクーラーの冷気に掻き消された。
「いーよ」
だけど、聞こえなくても聞こえたから返事をした。タオルの下で千夏が笑った気がした。
つづく。
泣かせたいという目標が達成出来たのでいいです(爆
8/22 本文と後書きの修正
少し設定に沿わない箇所があったので、本文を修正いたしました。
また修正したらごめんなさいorz
では、失礼します。