4-0-1.フロンティアウォーズ ―境界線上の戦い―
第四章(第一部最終章)です。
よろしくお願いいたします。
まだ明けてもない空を背後に、目の前の災厄を走り抜ける。
「はぁっ……、はぁっ……!」
少女は、疑念を抱いていた。
我等を救う御神は本当におられるのかと。一瞬だけ、一度だけ。信じてきた崇高な存在を疑ってしまった。
アコード王国区域外――"ベリアルトの境界"。
勇者の国として讃えられる超大国で唯一、魔国と称される"オルク帝國"と接している境界線。それでも、一つの国がすっぽり入る程の大規模な山脈で、隔てる壁のように挟まれている。
その麓――丘陵と草原に囲まれた大地は白い雪で覆われ、闇夜に染まりつつある濁った曇天からは、ちらちらと粉雪が降り続ける。
その寒気立つ麓には城塞都市があった。
"ゼテロ"という名が知られる歴史ある都市だが、なにより山脈の麓をどこまでも続く、王国最大の攻城巨壁が、長年魔国からの侵攻や魔物の侵入を防いできた。
だが、"それら"は壁のないところから現れた。
凸凹とした石畳に、丈夫な岩と鉄で組まれた無機的な民家の数々。薄氷覆う街道は騒がしく、それもそのはず、町の人々が阿鼻叫喚を上げて逃げ惑っていた。
少女が、彼らが恐れているものは、攻め込んできた魔物の群。
地には形も大きさも様々な"巨獣鬼"、空には数種類の"飛焔竜"で埋め尽くされている。その数は百、二百、三百……否、千は越えるか。一番小さい個体でも大の大人を優に超える。ドラゴンに至っては民家よりも巨大だ。
一頭の討伐だけでも困難の極みだが、この大群を前にすれば絶望のあまり戦意すら起きないだろう。この都市に住む冒険者ギルドも観測騎士団も、手に負えない。
それでも立ち向かおうとしている戦士たち。その勇姿も儚く、いとも簡単に返り討ちに合うが。
巨獣鬼の棍棒のような腕に潰され、飛焔竜に食われ、岩鉄の城塞をも崩す程の威力で薙ぎ飛ばされては血と叫びをまき散らす。必死で逃げる女性に子ども、老人が餌食になるのも、時間の問題だ。
「どうして……、はぁっ……どう、して――」
こんなことに。冷たい空気が肺を傷つける。
少女は神官のひとりとして、この都市の神殿で常に国の平穏を祈り続けてきた。かつて起きた、魔国からの襲撃事件が二度と起きないように。
しかし運命は残酷にも、この都市に再び惨劇をもたらした。
「ッ、ひっ――」
角を曲がった先、数体の小さな魔物と出くわしてしまった。それも、集団で襲われた人間の末路を、この目に焼き付けてしまった。
吐き気が胃の中から込み上がりそうになる。ショックのあまり、口元を抑え、くらりとした少女に、獣毛の生えた小型の巨獣鬼が容赦なく飛びかかってきた。
だが――それらは少女のもとへ届くことなく、血を吹かせては冷たい地面に転がり落ちた。
現れたのは、白磁色の鎧をまとったひとりの騎士。この町を護衛し、これまで境界を踏み越える魔族の侵入を防いできた観測騎士団だ。大人ほどの大きさをした小型の魔物数体を、その剣捌きで一掃したところを見るに中々の手練れだと少女の眼には印象づいただろう。
否、そこに余裕などない。振り返った騎士も息を切らしており、少女に切羽詰まった表情で近づいてきた。
「君、教会の人か! こっちは危険だ! そっちの道へ逃げ――」
ゴチュ。
頼もしく感じられた騎士は、岩石のような腕によって目の前から姿を消した。どこか右の方角で、同じような潰れた音が聞こえた。鉄の尖塔にないはずの赤色が視界に入り、事の状況を把握した。
だけど、受け入れたくない。
「ぁ……」
次は自分の番だ。
かちかちと歯が鳴り、震えが納まらない。
その巨獣鬼は7メートルを誇る。鱗毛が生えた岩の如き皮膚、筋骨隆々にして鬼の貌。まさに巌の如き巨人とも言えるそれは、人間の頭部とほぼ同じ大きさをした眼球をギョロリと動かし、震える神官を目にする。途端、にたりと不気味に笑うように、牙をむき出してはぼたぼたと唾液を溢れださせた。
恐怖に染まり切っていた少女は、不意に自分の下半身が生温かくなるのを感じた。その匂いが、巨獣鬼の食欲をかき立たせたのだろう。
「じっ、慈悲、深きアコードの神アーシャよ……わたくし、どもに、光……っ、を……」
最後に一度だけ、女神官は天に救いを望んだ。救う神はいないが、それでも少女は神官としての役割を全うした。
走馬灯のように思い浮かべたのは、大賢者へのあこがれ。
特に、神の教えに従う者や数ある教会にとって、"六大賢者"の存在は神も同然。特にアコード王国の"蒼炎の大賢者"は、この国でもっとも名高く、崇高なる存在だった。
いつか蒼炎の大賢者に認めてもらえるような、立派な存在になりたかった。せめて実の姿をこの目で見たかったと、悔やむ一生を振り返り、大粒の涙を流し、瞳を閉じた。
――……ッ!
巨獣鬼の一撃が穿たれる。それは地面を砕くばかりではない、大砲にも耐える城の如き頑丈さを兼ね備える周辺の民家をも、あっけなく吹き飛ばした。
当然、その巨獣鬼の腕力ならば可能だろう。しかし、この衝撃はそいつによるものではなかった。
「……っ?」
まだ生きている。
むしろそのことに疑問を感じた少女は、顔を上げた。
目に飛び込む白銀。それを纏うは黒い髪の男。
化物でも鎧をまとう屈強な戦士でもなく、防具どころか武器すら構えてない、生身の青年がそこにいた。
右腕を掲げたその雄姿は、勝利を確言としていた。
正確には、その姿勢は巨獣鬼の一撃を止めたようにも受け止められる。しかしその体格差ではありえない話だ。家一軒を腰かけに座れる怪物を相手にするようなもの。
現に青年は化物の一撃を受け止めては――否、振り下ろされたはずの巨大な巨獣鬼の腕は消失していた。
青年の腕は、この地の雪どころではない、鉄をも容易に溶かす熱を放っていた。まるでその腕が爆発に巻き込まれたかのように、黒く炭化し、ひび割れた皮膚から紅蓮の炎が噴き上がる。だが、それはすぐに塞がった。黒く染まった腕もぼろぼろと剥がれ落ち、人本来の肌色が空気にさらされる。
――GRUAAAAAAA!!!
目の前の巨獣鬼は激痛か、鼓膜を破かんばかりに、吼える。それは地を震わせ、少女も思わず耳を塞いだ。
怒り。爆ぜる。
全筋肉を強張らせ、砲弾の如き速度で迫り、青年に牙を向けた――が。
瞬時、青年の左手が真白に染まる。それは変色ではなく、高熱のあまり白色へと波長が変わり、それだけの膨大な熱を発しているということ。喰わんとする巨獣鬼の咢に怖じ気づく様子もなく、その手で怪物の額を押さえつけた。
蒸発。
破裂した水風船のように、硬度の高い皮膚から怪物を構成する肉が飛び出す。吹き飛ぶ柱のような脚部。破裂した頭部と上半身は汚らわしい赤を吐瀉物のように撒き散らすことなく、細かい砂と化した。
当然、即死だ。
バチンッ! と左手から稲妻が漏れ出たような。そして静かにまばゆい光は引いていく。
「ぇ……ぁ……」
何をしたか、少女にはさっぱりわからなかった。
唖然としたあまり、何の言動もままならない。その人間離れどころか、魔導師離れした男の容姿を視ることしかできない。
青年が振り返ったときに、改めて自分の命を救ったのは紛れもない人間、それも自分と齢の近い若者であることを認識される。
だが、その者は騎士でも戦士でもなかった。自分の思い続けてきた強者の姿とは大きくかけ離れていた。
剣と魔法が栄えるこの世界では希有な漆の髪と、黒雲母を思わせる煌黒の瞳。黒の服の上に羽織る白の衣は、錬金術師の称号を担う術服。
女神官にはよくわからなかったが、この国の象徴がその術服に刻まれている以上、自分の知るただの錬金術士ではないのだろう。
「間に合ってよかった。怪我はない?」
少年にしてはたくましく、しかし女性のように端麗な顔立ちを兼ね備えており、その優しく語りかけた声も芯が通っている。
どうして錬金術師が?
そう疑問に思うも、どこか安心したのか、問いかけようとする挙動を起こすことはできた。
「あ、あの……」
あなたは? と訊こうとしたとき、その少年は既にこちらを見ていないことに気が付く。なにかに気づいたのか、青年の視線の先には――。
「エリシアさん、準備はいい?」
「はい、いつでも大丈夫です」
少年――メルスト・ヘルメスの呼びかけに、蒼い髪の美しい少女はやさしく返事をした。
「大賢者、さま……?」
信じられなかった。今までのすべてが夢だと思うほどまでに。
蒼炎の大賢者――名を"エリシア・オル・クレイシス"。しかしその真名は一部の者しか知らず、彼女がこの王国の王の娘だということもまた、民には知られていない。それは、大賢者を崇拝している神官の少女もまた、同じ。
「よく生き残ってくださいました。もう大丈夫ですよ」
目線を合わせるように身を屈め、大賢者は神官に微笑みかけた。すると、大賢者の羽織っていた青と銀の司祭服を肩からやさしく包み込むように、少女に羽織らせた。
「それが貴女様を御守りします。冷えた身体も温まることでしょう」
「ぁ、あの、えっと――」
驚きの連続で口が上手く回らない少女に、メルストは辺りを見回しつつ、
「今、逃げ道を……いや、ここに留まった方がいいな」
「では、防護魔法を」
「それと、さっき魔物にやられた騎士の治療もお願い。まだ息はあるはずだから」
了承の意を示した一礼。そして彼女は両の手に持っていた、幻想的な結晶が繰み込まれた白銀装飾の大杖を天に掲げる。
天使のように微笑んでいた大賢者は色を正し、穏やかだった紅蓮の瞳を鋭くする。
「"蒼焔よ、私に力を"――」
唱えたエリシアの周りが、蒼い炎で吹き荒れる。賢者の術衣と艶やかな蒼髪が流れるように揺らぐ。
加護と浄化の炎魔法。それは眼下に広がる街を護るように包み込み、そして天を覆った。
「これが、大賢者様の"蒼炎魔法"……」
「"炎浄の聖、凶厄を祓"」
大杖の結晶が光り、ついには蒼く発火。
同時、ドラゴンの群は空に覆われた蒼炎の暴風に押し寄せられ、民家を暴力で荒らすオーグル達は壁に阻まれたように身動きが取れない。大地一帯からひとつの都市に押し込まれ、まとまったそれらは、空から見れば暗色の肉塊が蠢いているようだ。
ついには、出現した蒼い炎に包まれたそれらはもがき苦しんでは身を倒し、灰となる。だが、まだ数は残っている。
「――"炎魔の奇跡よ、彼らに救済と今一度の復活を"」
そして、町の老若男女全員、都市全体を囲うように炎膜がまとった。
「……っ、な、なんだ!?」
「炎だ! 畜生っ、逃げ場がねぇ! 焼かれるぞ!」
「もう終わったわ……私たち、ここで……」
防護・治癒融合魔法であることをつゆ知らず、より焦りを見せる人々。その声はメルストらにまで響いているが、直にそれが人間にとって安全な炎であることを気づくだろう、とメルストは急ぐような行動はとらない。
「フィールドは仕掛けた。そんじゃ――開始めようか」
メルストの一言で、打ち上げられた蒼炎の火柱。それはエリシアの大鍚杖から発しており、天空へどこまでも続くそれは蒼の光をこの広い都市全域に照らす。
何をしているのか、神官の少女は解らなかった。
それは、魔物や人々の注目を集めるわけではない。なにかを発動するための魔法でもない。
"奇異で狂瀾な猛者共"が暴れ狂うための――
「――来たッ!」
合図だ。




