1-1-3.死の砂漠と蒼髪の聖女
「真水出せても限界あるし、せめて塩とか出せれば塩分確保とか……」
日陰の瓦礫に座り、「あぢぃ」と呟き落とす。
(ナトリウムと塩素で食塩が作れたことを理科の授業でやっていたな。イオン結合で、立方晶系NaCl型構造で格子定数が5.6Åぐらいで分子量が確か58.4だったか……水に続いて叩き込んだ知識がここで出てくるなんてなぁ……今欲しいのはそんなんじゃねぇ。実体の塩が欲しい)
漂ってくる変な臭いに、目がピリピリし、顔を歪めて咳をする。嗅いだことのある腐った柑橘類と嘔吐物が混じったような刺激臭にボーっとした頭を働かせる。
「あ゛ー……ごほっ、なんだこの臭い――ぃうぉおおおっ!?」
メルストの左手から薄黄色の気体が発生しており、もう片方の手は白煙が昇る色褪せた金属で覆われていた。思わずデタラメに手をブンブンと振り払い、手の金属が岩壁に当たる。
あっさり剥がれた金属の断面に銀色の金属光沢が見え、目を丸くした。それでも腕から白煙を発する金属色の液体がドロドロと出続ける。
(これ金属ナトリウムと塩素……!? また変なものが……何がどうなってんだ!)
危険極まりない単体物質2種類が両腕から発生し続けている現状に、最初は息を止める。失明を防ぐため目を閉じながら狂うように走り回りつつ振り払い、着ていた黒い衣類を脱ごうと焦ってはいた。それもあって、ドガンと遺跡の壁に顔面から衝突し、仰向けに倒れる。
しかし、そこではじめて冷静になれば、目が損傷してなければ呼吸不全にもなっていないと気づく。そもそも、自身の肌から出てきている時点で自分にそこまでの害はないのではと目を慎重に開け、起き上がった。
まじかよ、と一言。そして、あることを思いつく。
「……これで塩できる」
互いの危険物質をかけ合わせることで精製できる塩化ナトリウム、すなわち食塩を創れると見積もったメルストは、物質が湧き出てくる両手をゆっくりと合わせた。
(あれ、でも金属ナトリウムと塩素が触れたら――)
炎上。眩く燃えさかる腕と飛び散る高熱の液体金属。そして有害な塩素。それらが一斉に顔や全身を殴るようにふりかかった。
「げほっ、熱っちぃ! 痛ってぇ! ぅごほぁっ、臭っせぇ!」
びっくりして灼熱の砂の地面を転がり回る。幸い、服に燃え移らず、イオン結合による爆発的な化学反応も収まった。
「あ、あれ……?」
熱いと叫んだが、肌を触っても火傷していない。不思議と思いつつも、「まぁ奇跡だったんだな、大事に至らなくてよかった」とそこまで気にすることなく、手のひらに付着していた白い結晶の粉末を恐る恐る舐めてみる。
「……塩だ。食塩作っちまった」
(やっぱり魔法もこんな原理でやってんのかな。想像以上に化学的――じゃねぇよ、そもそもどこからナトリウムイオンとか出てきたんだよ)
食塩をつまんでは口にサラサラと入れ、ついには獣のように舐めきる。
(じゃあ、なんで水はそのまま手から出てきたんだ?)
そんな疑問を抱く。念じても塩そのものは出なかった。物質の最小単位――元素の単体しか出せないのだろうか。そうだとしたら、とメルストは呟き出す。
「生み出した水素と空気中の酸素を化合して……そうか! 物質を構築することもできる!」
(空気中の酸素と窒素をいろいろ組み合わせてみたらそれなりの物質が――)
手を空へ掲げ、窒素分子と酸素分子が結合するイメージを思い浮かべる。一酸化窒素、二酸化窒素、亜酸化窒素など、思いつく限りのパターンを空気に触れている手へと念じた。
しかしいずれも人体に有毒であると知ったときには、しばらく呼吸困難になって悶絶してからのことであった。
「――ぅげほっ、ごっほ……馬鹿か俺。普通に窒素酸化物とか考えてみればヤバいもん作ってんじゃねぇか」
窒息死とかしなくてよかった、と安堵のため息。這いつくばってその場から逃げた彼は深呼吸する。しかし熱気を勢いよく吸い込み、喉が火傷するような思いをした。
「……これすげぇな」
元素単体だが、物質を生み出せる力に加え、物質を化合物へ構築できる力を手にしている。まるで錬金術師、いや創造神にでもなれた気分に浸る。
しかし、ここがもし魔法の世界ならば、これよりもすごい魔法を操る人が山のようにいるかもしれない。やはり自分だけの力ではないだろうと思ったメルストは、腹から聞こえてくる気の抜けた音に肩を落とした。
「あー、腹減ったぁ」
砂漠だろうと生き物はいるはずだ。メルストは遺跡の岩陰を見たり砂を足で払うように掘ってみるも、いる気配すらしない。
(……いたところで捕まえる気も食える気もしないな)
しかし、「あ、そうか」と彼は閃く。
物質創成と物質構築の力。これで食糧はいかずとも栄養源は作り出せるかもしれない。そう考えた。
「肉じゃなくてもタンパク質ぐらいは……。アミノ基・カルボキシ基・α炭素……最小単位じゃ意味ないな。オルニチン・βアラニン・グルタミン酸……いや無理だろ。アミノ酸からペプチド配列延々と述べないと肉出せないのかよ。あー駄目、暑くて思い浮かばねぇ」
考えるのをやめる。なんとなく思い浮かべた単体の鉄や亜鉛。それらが手や腕から染み出るように、紅く熱された液体として出てきては、光沢ある固体へと冷えて固まる。金属の形ではミネラルとして摂取はできない。ガリガリと腕にまとわりついた金属を落とし、遺跡の岩陰に仰向けに倒れ込んだ。
鳥の影すらもなければ雲一つない青い空。真夏の快晴をメルストは思い出すが、煩いセミどころか風の音すら聞こえてこない。
「本当に異世界、来ちゃったんだな……」
はぁ、とため息。吸い込まれそうな空を途方に眺める。
これは夢じゃない。現実だ。
「誰かいないのかな……こんなとこ何日も住めるわけないって」
水と塩だけでは生きられない。砂漠の向こうに行けば、オアシスや小さな町ぐらいはあるかもしれないと考えてみるが、そこにたどり着く前に干からびてしまうだろう。
灼熱の海に阻まれた孤島に残されたと言っても過言ではない。
「……なんで俺はこんなところにいるんだろ。ああ、死んだからここに来たんだっけ」
当然のように受け入れてしまっているのも、おそらく現実味がないと感じているのもあるだろう。それと考えることを放棄したくなるほどの暑さか。
ふと、自宅の風景を思い返す。粗末なレトルト食品でも、ここで食べれば絶品だろう。窓の外から聞こえる車の音や、子どもたちの遊ぶ声も、ここで聴けば寂しさを癒してくれるだろう。
携帯電話もない。パソコンもない。保険もなければ法律もない。……人もいない。
数億年前の地球にでも置いてけぼりにされたような、途方もない不安が襲い掛かる。
「俺、本当に死んだんだな……」
当たり前だと思っていたものを失って初めて、気づけるものが彼にはあった。
受け止めたくない事実を、徐々に認め始めようとしている。それがたまらなく怖く、そして後悔が募り始めた。
「なんで俺死んだんだよ……人生まだまだこれからだったろ。なんで……」
つまらない日々ではあった。世の中が嫌になった日もあった。怠惰の誘惑に駆られ、後に自己嫌悪で潰れそうになった夜もあった。だけど、死にたくなかった。
高校の部活だって、死にかけた日々だったけど辞めずに頑張ってきた。大学だって偏差値は高くないところだったけど、それでも苦い思いを乗り越えてやってきた。大学デビューは失敗し、自堕落な生活を送ってはいたものの、卒業研究だけは誰よりも頑張った自信はある。
修士と博士、二度にわたる外部の大学院の院試をパスしたのも相当大変だった。誰もが働いて稼ぐ中、自分は研究漬けで時間も金も遊びも全部犠牲にしてきた。何度も落とされた投稿論文が通ったとき、学位論文の審査が通ったときは狂ったように喜び、涙を流したっけ。博士課程時代の就活だって相当苦しんだが、奇跡的に大きな企業の研究職の内定を得られたときの嬉しさは今でも思い出せる。
仕事だって、他の意識高いエリートやちょっとした努力で成果をぽんぽん出す怪物だらけの中、落ちこぼれでもしがみついていた記憶はある。即戦力にもならない出来の悪いビジネスマンだったとしても、優秀な後輩に抜かされたとしても、上司に何度も期待外れの目を向けられたとしても、めげずに数年続けていた。
それらが相対的に大したものでなかったとしても、美化しただけに過ぎないくだらないプライドだったとしても、自分が積み重ねてきた人生の一部だ。
それらすべて、失った。
仕事だってここから挽回できたかもしれない。趣味も花を咲かせる日が来たかもしれない。まだやったこともない新しいことにも挑戦できたのに。恋人だってできて、結婚して、子どもも授かって、親孝行できてたかもしれないのに。
無駄だと思える日々を送っていた記憶ばかりが、自分を責める。無味乾燥な日々と人生をあきらめかけていた自分を思い切り殴りたい。
肺が苦しい。目が熱い。頭が締めつけられるように、後悔が心を押しつぶしていく。
「もっと……生きたかったのに」
一週間、いや、せめて一日だけでも生きられたら。
そしたら、親にだって、祖父や祖母にだって連絡して、声を聞くことができた。感謝だって伝えられた。関わってきた友達や職場の人、ネットの知り合いにも、一言言えた。ブログだって、閲覧数は多くなかったけど、区切りをつけられた。
そして、妹の墓参りができた。
ただの呼吸も小さな嗚咽になる。その目に、涙が込みあがった。
「こんなことなら、もっと自分の人生と向き合うべきだった」
パシュン、と破裂したような撃ち放たれたような軽快な音が小さく聞こえた。ずっと無音だった故にびっくりして起き上がり、周囲を見渡す。
「ッ!? なんだ……?」
人か、獣か、それともそのどちらでもない何かか。しかし気配はない。その代わり、遺跡の密集している方角から青い光が打ち上がっていた。閃光弾のように何かを知らせるようなそれに、メルストの足は咄嗟に動いていた。
(よかった、俺以外の誰かがいる!)
敵か味方かは定かではない。しかし、すぐに確認したい。半ば希望にあふれていた彼は涙をぬぐい、廃墟群を縫うように走った。
光が打ちあがったであろうその下には、この頽廃した景色に不釣り合いな存在が、彼の目を惹きつけた。
「えっ――?」
人間。それも、メルストにとって他に類を見ないほどの美しい少女が、廃墟の陰で力なく横たわっていた。