5-4-5.エリシアの師
「もしかして、アウレオール卿ですか? あの、世界最高峰の……」
メルストの声に応じた男の青い瞳には感動と喜びが含まれていた。
淡金の髪を緩やかに後ろへ流し、白と紺を基調にした礼装を身にまとっている。彫刻のように整った顔立ちは、まさに貴族と学者の狭間を往く存在を体現していた。
「そんな大層なものではありませんよ」と彼は笑った。声は男性的に低くも柔らかく、どこか親しみを感じさせる。
「ただ光が照らされただけですから。運が良かったとしか言いようがありません。いや、学生たちや研究班の皆……協力してくれた人たちがいたからこそですね。それに、今この瞬間にも他の錬金術師たちが新たな世界を切り拓いているかもしれません」
「――それでも、世界中であなたを敬う者がいるということは、光が当たるべき方だったからですよ」とエリシアが声を添える。
その声にアウレオールは目を向けると、一瞬だけ目を丸くし、そして懐かしむような目で微笑んだ。
「……エリシア、大賢者様」
ふいに彼は穏やかな声で名を呼んだ。
エリシアはその声に、微かに肩を揺らす。
「ご無沙汰しております、アウレオール先生」
静かに微笑むと、彼女は両手を胸元で組み、丁寧に一礼した。だが、どこか照れたような仕草も混じっている。
「なんとご立派なお姿に。ああ、いえ……大賢者様を前に失敬なことを申し上げました」
「お気遣いなさらないでください。先生は今でも……私にとっては、変わらぬ“先生”なのですから」
その言葉に、アウレオールの目が一瞬だけ伏せられる。
けれどすぐに顔を上げると、彼女をまっすぐに見つめた。
「……それもそうだな」
口元には微笑を湛えながらも、その奥には複雑な感情が宿っていた。
懐かしさ、誇らしさ、そして――届かぬ何かへのわずかな痛み。
その温度を感じ取ったのか、メルストの胸がきゅうっと締めつけられる。
「専属教師をされていたということは、エリシアさんは当時どのような方でしたか?」
気づけば、口にしていた。
「メ、メルストさんっ……!」
顔を真っ赤にして彼女が制止の声を上げるが、もう遅い。
アウレオールがゆったりと微笑んだ。あまりに自然な所作に、まるで王族の舞踏を見るような気すらした。
「あどけなくも知性があり、心豊かで博識なお方でしたよ。年齢にそぐわぬ洞察を持ち、他者の痛みに寄り添える――まさに、聖者のようなお方だった」
「ほ、ほめすぎですよ……」と、エリシアはそっと目をそらした。けれど、その耳は明らかに赤くなっている。
「まごうことなき事実を述べたまで。むしろ、私のような者がそのお力添えをしたなどと口にするのは、誇りというより畏れに近いものがあります。私は“教えた”というより、彼女のそばで学ばせていただいたのです。ともあれ、あの日々は私の誇りであり、宝物であることは断言できます」
「……そうですか」とメルストは笑みを返す。
「もちろん、エリシア様ご自身と向き合って指導させていただいてきたつもりです」
エリシアはその言葉に、ほんのわずか視線を落とし、そっと囁くように答えた。
「……私もまた、先生と過ごした日々を忘れたことはありません。あれは、私にとっての原点でした」
二人の間に、静かな空気が流れる。師弟としての時間、過去の記憶がふと蘇ったのだろう。
その様子を見つめながら、メルストは胸の奥にどこか言い表せない想いを抱いていた。
と、その空気をやや軽くするように、アウレオールがふと口調を変える。
「して、ヘルメス博士はどういった経緯でエリシア様とお知り合いに?」
「えっ」と頓狂な声を出す。「そ、それは……助けられたんです。一人で遭難しているところをエリシアさんに」
実存すらわからない神によって転生され、黒い砂漠と滅んだ監獄跡地しかない死の大陸ヴィスペルで目覚めたことをあまり他言しない方がいいというのは、メルスト自身分かっていた。アウレオールはほう、と感心したような声を挙げては、
「そこから縁あってアーシャ十字団に加入されたのですか。それと、どこで遭難……ああ失礼、こういう詮索は控えないと。それよりも、エリシア様が来られるという話を聞いたのでこれを渡そうと思ってね」
ふと、アウレオールが懐から一冊の小型の手帳を取り出す。古めかしくはないものの、修繕された跡が残っている。
「これを覚えているでしょうか。エリシア様が齢10の頃、初めてお書きになった論文草案です」
それをそっと差し出すと、エリシアは目を見開いた。
「えっ……まさかまだお持ちだったんですか?」
「ええ、我が子が書いた似顔絵のようだと言えば大変失礼に当たるのですが、たとえ貴女様にとってこれがただの落書きだったとしても、これは違うと理想と現実の差を前に破り捨てた案だったとしても、私にとっては輝かしい宝物です。若さ故の粗削りさを力強さとして受け取った一方、発想の鋭さと、何より魔法学の分野で人々を技術的に救いたいという熱意がにじんでいて……ずっと手放せませんでした」
(エリシアさんにもそんな時期があったんだな。というか学術的価値があるにしろ、つまるとこ子どもの頃の黒歴史を持ってきたことになるのか)
やはり学者という生き物はどこか感性がずれているなと両者を見て思うメルストであった。
「つまり、エリシアさんのデビュー作ですか」とメルストはつぶやく。「10歳で論文書いたのすごすぎませんか……?」
「いえ、所詮は子どもの夢物語に過ぎない代物でしたので」とわずかに照れた様子を見せる。
「良ければ見せてもらっても――」
「ダメです! 絶対だめです!」
慌ててエリシアが止める。そのやり取りを前にほほ笑んだアウレオールは話を続ける。
「それと、エリシア様は既存の定義や理論にとらわれすぎなかったのですよ。『“教え”は手本でなく、壁を越えるための階段である』……そう言って私の講義に反論してきた日のことは――」
「ちょ、ちょっと先生!」と顔を赤くしつつも青ざめるという複雑な表情をエリシアはして、アウレオールを制止しようとする。
(どこでもいじられるなこの人)
そうメルストは思う。
「申し訳ありません」とアウレオールは笑いつつ、「ですが嬉しかったのです。素直だけど芯がある。思いやりがあるも言うべきところは言う正義感。とても10歳の子供とは思えなかった。それに先ほど夢物語とは仰りましたが、学者に相当する内容と文体で会ったことに変わりはありませんでしたよ。これは持論ではありますが、私にとって“教え子”というのは、業績ではなく“心の礎”。貴女様は今や六大賢者の一柱でありますが……初めて“問い”を形にしようとしてくださった日を、私は何よりも大切に思っています」
「あの頃の私は、自分の中の答えを求めすぎて、学問のことになると他人の考えに耳を貸すことが下手でした。でも先生は、私の言葉を受け止めてくれました」
「貴女様のお言葉は、“ただの若さ”ではなかった。疑問を恐れない心と、誰よりも世界を信じる気質があったからこそ、エリシア様は“学者”になられたのだと思います」
エリシアはその場で受け取り、胸に抱きしめるようにして小さく頭を下げた。
「ありがとうございます……先生。私も、あなたからの問いかけがなければ、ここには立っていなかったと思います」
その姿を見つめながら、メルストの心にも自然と敬意が芽生えていた。
アウレオールはそんな空気を破るように、ふっと声の調子を戻す。
「失礼、昔話に花を咲かせてしまいましたね。メルスト博士も他の方々がおっしゃるように、数々の発明と研究を成してきたことは存じています。アコードのスペルディアの件も、感動いたしました。錬金術師として心より尊敬します」
「いえ、あなた様ほどでは」とメルストは咄嗟に返す。
「ただ、ここから先が私の我儘となるのですが……これも何かの縁。よければ錬金術師としてではなく、ひとりの友として私と接してくれませんか。実は私、前からヘルメス博士のことを気になっていまして」
「えっ!? え、あ、本当ですか……!?」
思わず情けない声が漏れた。
「まぁ、多少歳は離れてはいますが、友として気軽に関わってくれればうれしい限りです」
「え、いや、こちらこそ、光栄すぎてどうしていいかわからないのですが……その、友達……って、どうすればなれるのでしたっけ」
「ふふ……あはは、おもしろい人だね、メルスト君は。ますます気に入った」
(あぁ……心が持たない)
そして、アウレオールが手を差し出す。
「では、今から僕たちは友達――そういうことでどうかな」
「……っ、はいっ!」
二人は固く、そして自然に手を取り合う。
その時、どこからともなく拍手が起き、その中を一人の男が現れた。
抑揚の強い音は、祝福というにはどこか芝居がかっており、むしろ茶化すような気配すら感じさせた。
「素晴らしい。才ある若者と偉大な錬金術師、そして友好を結ぶ握手。歴史的な一枚画として、後世の書に継がれていくだろうね」
そう言って姿を現したのは、紫の裏地が覗く濃灰の礼装に、銀細工のステッキを携えた壮年の男。 背筋は伸びているが、その立ち姿はどこか“舞台役者”のように作られたものに見える。
それとは対比したように、伸びっぱなしの髪は灰色に濁り、その無精ひげを見るにこのパーティの中では浮いた存在に見えるが、細く鋭い眼光は一瞬でこの場の空気を変えた。鋭い目と、常に口元に浮かぶ笑み――それは皮肉と虚飾の仮面のようで。
何より、その口元に浮かぶ笑みには温度がなかった。
「これはどうも、蒼炎の大賢者様、そして若き錬金術師。お初にお目にかかります」
「え、あ、はい……」
メルストは反射的に返事をするも、その目の奥から感じられる含みのある視線に思わず言葉を詰まらせた。
そして、彼よりも先に一歩を踏み出したのはフィリップスだった。
「ケルススさん、あなたの知りたいことはここにはありませんよ」
その名を呼ぶ声には、明らかな冷気が宿っていた。
「何をおっしゃいますかな。ここは世界が誇る王立学会。真理を突き止める最先端の場でございましょう? 私のような小物には、到底手が届かない高みにございますが」
「皮肉と虚飾で真理に近づけられると思うなら、それは錯覚でしょうね」
「やれやれ、追放者に厳しいことだ。既往不咎の心も必要だとは思いますがな。過去を咎め続ける社会では、未来は育たぬとも言いますし」
「過去にこだわっているのではありません。未だに何も“変えていない”ことが問題なのですよ。ケルススさん、あなたの言葉はさぞ華やかだが、その背後にある行動には一貫して“誠実さ”が欠けている」
静かな口調だった。だが、その言葉には鋭さと重みがあった。
メルストもエリシアも、息を呑んでフィリップスの横顔を見つめた。
男は、笑みの形だけを保ったまま目を細めた。
「まさか、あのアウレオール殿にここまで言われるとは。いやはや面白い。しかしですな、貴方に嫌われるのももう慣れたものですよ」
「ならば、今さら関わりを求める必要もないはず。今一度、あなたの居場所を考え直してみてはいかがですか」
その言葉に、ロバートはふっと小さく笑った。
「それは真実の神々の判断に委ねましょう。私はただ、真理を追いに来ただけですから」
「“真理”とは口にして追えるものではない。“問う”ことすらやめた者に、それを掴む資格はないと思いますが」
静寂が場を包む。
数秒の後、ケルススは踵を返すと、肩越しに振り返った。
「ロバート・ケルスス――以後、お見知りおきを、ヘルメス博士」
その視線はメルストに向けられていたが、彼は何も答えられなかった。
ただ、その言葉の奥にある、どこか底知れぬ執着だけが心に残った。
ロバートの背が遠ざかっていくと、ようやくエリシアが静かに口を開いた。
「……あの、私が何か言うべきでしたか」
「いや」
フィリップスは首を振った。「君が口を出す必要はない。あれは私の役目だ」
その言葉に、メルストはようやく問うことができた。
「いまの方は……?」
「気にしなくて結構。彼とあまり関わらない方が身のためだ」
フィリップスの目が鋭くなる。
「は、はい。肝に銘じます」
メルストは、思わず背筋を正して答えた。
そこへ、軽やかだが芯のある声が後ろから飛んできた。
「お、ここにいたか!」
振り向けば、堂々たる風格を携えた中年の男がこちらに歩み寄っていた。
白髪交じりの髪をざっくり後ろで束ね、紺色のローブには王立大学の紋章。そして、腰には本と携帯炉の両方を吊るしている。
「ラーゼス先生」
エリシアが声を上げ、メルストもすぐに礼を取る。
「ようやく会えたようだね。して……本物のメルスト君はいかがかな?」
「はは、やめてくださいよ本人の前で」
肩を竦めて笑うにフィリップスに、ラーゼスは大きく笑った。
「メルスト君もどうだね、招待講演が終わって少しは安心したかい」
「いや、それがこの懇親会でも緊張しっぱなしで」
「先ほど、ホワイトサイズ会長とエリザベラ陛下にお会いしまして」とエリシア。
「はっはっは、それは確かに緊張する。私も生きた心地はしないだろうな」
「またまた」とフィリップスは半ばあきれる。「会長の研究室にいたときは論争の毎日だったって聞きましたけど?」
「はて、そうだったかな」とラーゼスはおどける。
「そういえば、ケルススとすれ違いませんでしたか?」
「ああ、さっき見かけたよ。懲りない奴だが、今更なにかをする気もあるまい。不審な行動をすれば追い出せばいい話だ」
ラフな口調でそう言いながらも、ラーゼスの目は鋭い。
長年に渡って学会を導いてきた“キミア学の父”――その眼差しには、時に鋼鉄のような厳しさが宿る。
「まあ、せっかくの会だ。苦味もあれば甘味もある。それは学も余暇も同じだ」
冗談めかしたように言って、ラーゼスはメルストらに顔を向ける。
「今は我々のような老いぼれでなく、若い人たちに会ってきなさい。先ほど君を見失っただのサインが欲しかっただの言っていたからな」
「私はまだそこまで齢ではないんですけど」とフィリップスの小言をよそに、メルストはバツが悪いような顔を浮かべた。
「あれだったら私も同行しよう。美味いワインでも一緒に飲みながらね」
そう言いながら、ラーゼスは歩き出す。
その背中を追うように、メルストとエリシアもゆっくりと歩き出したそのときだった。




