4-7-3.白き老竜の真意
「さっぱりしました! 魔力も気力も十分です!」
「そりゃよかった」
先ほどのことは忘れたかのように、術服を着たエリシアはニコニコとご機嫌だ。メルストもそれには安心し、遠方の山稜を眺める。
「それで、あの山登ればエルダードラゴンがいるんだよな」
「ええ。ですが、魔力が山から漏れ出ていますね。おそらくそれを糧に寄ってくる魔物がたくさんいるかと思います」
「それでこんな離れたところにいったん転移したわけね。ここから標的の魔力は感じる?」
「いえ、特には。山頂の向こう側にいるのかもしれませんが」
「じゃあ、そこに行ってみるっきゃないな」といった瞬間、メルストの姿がフッと消え去った。大量のエネルギーを生成・消費することで発動した"時空転移"は、本人の記憶と視界等の認識可能な範囲内で瞬間移動を為す能力だ。
「えっ!? あの、待ってください!」
それに一歩遅れて気づいたエリシアはその身から蒼炎を燃え上がらせ、全身を包み込む。それが燃え尽きたときには彼女の姿は忽然と消えていた。
新期造山帯ともいえるジハンド山脈の頂上は別世界が広がっていることを、上空へと転移したメルストは知る。ふもとからは決して見えなかった、鋭い岩山の狭間には草木や数々の池、そして突き出た石膏花の蕾。咲いた亜セレン酸の花弁はシルクのような輝きを放っている。
ドズン、と重味のある音を響かせ、着地する。込みあがる不快感と酔いは副作用として全身をふらつかせ、視界をぼやけさせるが、そこまでひどくはなくなってきていた。それなりに慣れて、使いこなせているみたいだ。
立ち上がった彼の傍で人一人分包み込めるほどの大きな蒼炎が滾り、中からエリシアが出てくる。
「もう、何かあったら危ないですよメルストさん」
「ごめんごめん。でも、なんかここ元々は森とかあったみたいだな」
点在するように確認できた緑だが、それが荒らされているものだと気付く。山頂は平地であったが、岩肌が荒々しく見える。長年の風化ではない。ごく最近のものだ。
「ここらに棲んでいた魔物たちや森はみんなエルダードラゴンの餌として捕食されていると報告されています。このまま放っておけば、食糧が多い場所へ移住する恐れがあるようでして」
「餌が多い場所……ここから一番近い町って、結構大きいんだっけ」
「ええ、第七区の中で一番豊かな街です」
「よし狩ろう。さっさと狩ろう」
「ですが、どこにも見当たりませんね」
生命の気配もなければ、竜一匹の影も見えない。しかし、背筋が凍るような、それこそ睨まれているような感覚を察知したメルストは冷や汗をかいた。
「いや……こっちに来てる」
振り返った先――小さな影がこちらへと向かってきていた。それは徐々に大きくなり、やがてふたりのいる地に大きな影が覆う。
森を薙ぎ飛ばさんほどの強い風が襲うが、それは竜翼の羽ばたきに過ぎない。白峰のような白鱗の巨体はまさに浮いた島のよう。他の浮島と違うのは、そこに個の命と意志があることか。
堅牢な肉体と鱗に刻まれた古傷は弱肉強食の世界を生き抜いてきた歴戦の勝者の証。傷の数だけ伝説があり、歴史があったのだろう。内に秘める膨大な力は、皮膚が焼けそうなほどの威圧として自然と滲み出ていた。
自身の背丈がその竜の鋭い爪ほどしかないだろうとメルストはただ、呆然と見上げる。
「でっけー……やべー……」
「この魔力……ッ、さすがに他の竜とは逸していますね。気をつけなければ」
「今度こそ食べられないようにしてね、エリシアさん」
「肝に銘じます!」
同じ轍は踏むまいと、エリシアも気を引き締める。それがフラグにもなりそうだとメルストは思ったが、口にはしない。
メルスト等の前に巨竜はついに降り立つ。骨の髄まで通じる地鳴りは、自身の身震いと錯覚してしまいそうだ。
(餌というより、なわばりを踏み荒らす侵入者として見られてるみたいだな)
捕食ならば、わざわざ唸り声を上げない。その紅い竜眼には、理性があった。
「ご老体を労わるのもいいけど、楽させてあげるのも救いの一つってな」
両の腕をまくり、白い光を放つ。それは、生み出された莫大なエネルギーが自然と光熱へ変換されたもの。これを破壊力として利用すればここら一帯の山脈は消し飛ぶだろう。
そうならないよう配慮しつつ、メルストは空へ――老竜へ向けて虚空を殴ろうとした。
しかし、それよりも早く、老竜は大きく銀翼を羽ばたかせ、後方へ距離を取った。大きな図体に反し、風のように速い。瞬く間にその姿を小さくさせた――途端。
「え」
視界が漂泊する。
遅れてきた轟音が聞こえたときには、メルストは山脈の上を飛んでいた。否、吹き飛ばされていた。雲をかき、間もなく強い衝撃が背面から感じたが、岩山の壁に埋もれていることすらも気付けないほど、竜の息吹の威力は凄まじいものだと目をぱちくりさせる。
「メルストさん! 大丈夫ですか!?」
「先生、心臓が止まるという例えが実現した瞬間を体感しました」
転移魔法で瞬時にメルストのそばへ辿るエリシアは心配の表情。斜面の鋭い崖へ半身を埋め、砂礫にまみれるメルストは何が起きたかわかってない状態だ。目がちかちかして視界も定かではない。とはいえ、メルストのいた場所からおおよそ10 kmは離れており、かつ一直線上に山脈の上部が半円型にえぐれた様子を見れば、その身が無傷であること自体おかしい話だ。
「ご無事でしたか……! 竜の息吹を直撃してお怪我がないのも不思議でならないですけれど」
「うん、シンプルに強くない?」
「エルダードラゴンの中でも白気の種は特に手強いんです。逆鱗に触れますと嵐を呼び起こして島を沈めたり山脈を更地にさせると言い伝えられておりまして……非常に危険です」
「うん、それ先に言ってくんない?」
気の抜けた言葉に反し、真剣な表情に切り替わっていたエリシアは踵を返しては大杖を構え、青い魔法陣を前に展開させる。瞬間、エリシアらの立つ場所を除き、辺り一面が氷結した。遅れて針状の巨大な氷の塊が、凍った岩山からパキパキと生え、成長していく。まるで氷河期へと逆戻りしたようだ。
「うおおっ、間一髪だったな……いまのもエルダードラゴン?」
「はい。やっぱり魔法も相当ですね」
冷静な口調だが、気は抜けられない。猛攻はこれだけで終わらず、水車ほどはある氷の塊が雨のように横殴りで吹き荒れ、防護魔法を今にも破壊しようとしている。そばの岩山に穴が空く勢いだ。大賢者の防護魔法以上に安全な防御はないが、迫りくる氷塊の嵐を前に怖気つかないほど、メルストは人間を辞めていない。
「こうも激しい遠隔攻撃をされちゃあ、反撃が難しいな」
虚空を殴れば、老竜のブレスと同等以上の威力を持った衝撃波を繰り出すことができるが、姿をとらえなければ無意味に地形を変えるだけだ。魔力回路や発生源を辿ることができるエリシアの方が、魔力の塊を探知するのに優れているだろう。
「遠くへの攻撃ならば、お任せください――"蒼焔"」
バッと前に突き出した手のひらから、極太の蒼い放射炎をレーザーのように放つ。ドゥッ、と連なる巨峰を跨ぎ、地平線への青いアーチが作られる。当たったのか否か、この一撃が老竜の戦意を芽生えさせたことに変わりはないだろう。蒼炎のアーチに沿って老竜がメルスト等へと向かってきていた。
「っ、大杖に乗ってください!」
その脚部に強い魔力を感じたエリシアは、メルストごと自分を蒼炎で包み、その場から姿を消した――別の場所へ転移した。
瞬間、メルストのいた場所が竜の足で踏みつぶされた、だけではない。巨大な竜巻が生じたかのように、着地した場所は小さなクレーターが穿たれる。雪覆う山やそれを支える地盤がめくれ上がっては空へと舞いあがった。上空の鎌鼬が浮いた山々を咀嚼し、瓦礫の雨を大地へ吐き出した。
「やっぶぇ! あっぶね! てかなんでこんなにご乱心なの!? 虫の居所悪いときに来ちゃった感じか!」
老竜の背後――少し距離を取った空間から蒼炎が生じ、中から大杖に座ったエリシアとメルストが飛び出てくる。球状の防護魔法に覆われているからか、降りかかる瓦礫がふたりに激突することはなかった。
「変な虫でも食べたのでしょうか」
「冗談でも笑えないな……。人間相手に容赦なさすぎだろ」
そんな悠長な会話もすぐに途絶えてしまったのは、老竜の長い首がこちらへと向けたからだろう。再び爆風にも似た突風を巻き起こしては巨翼を羽ばたかせ、メルスト等よりも高い空へと飛翔した。
開かれた口から放つ眩い光。避けろ、という声は轟音と白光にかき消される。
一筋の光線が数十kmも続く山脈を横断する。刻まれたエネルギーは熱として膨張し、巨大な爆発へと成長する。それは連なる噴火のように、山脈の上に溶岩壁を形成する。巨人でさえも乗り越えられないような高く、分厚い溶岩と火炎の壁を、間一髪避けられた。浮遊した大杖に乗ったまま、それを見つめる。
「山よりデカいんじゃないか、爆発」
ここまでして暴虐の限りを尽くす必要があるのか。それだけ警戒されるのは、やはり自分たち――エリシアとメルスト――の内に秘める力を見抜いているからだろうか。驚きあきれるばかりのメルストが息をのむ一方で、疑念を抱いたエリシアはそう思う。
「まさかここまで暴れられるとは……。このままでは死の大地となってしまいます」
「早く手を打たないとな」
足をつけた二人。同じように地に降り立つ老竜。相対。老竜は無数の牙の隙間から排気音を噴き出す。この冷え冷えとした場所に反した、大気が揺らぐほどの熱気だ。
びりびりと感じる気迫は意識をもってかれそうだ。隙を与えないよう、互いににらみ合う。やけに静寂な時間が流れた。
老竜が一度だけその紅い眼球を外へと向けた。まるでメルストらに向けていた戦意を別の何かへと移したようにも見て取れる。
そのような冷静な分析ができたのも、老竜の過度な息切れに気が付いたからだろう。そして、直接的なダメージを与えていないにもかかわらず、体中の至るところに刻まれている傷から血が流れていたことも理由の一つにあった。
「……? この竜って」
まさか、と感じる。思えば、生傷が絶えないこと、やけに疲弊していること、そして、訴えかけるような眼光。
邪魔をするなと。余裕のない意志が自然と脳裏をよぎった。
そのとき、背筋に悪寒が走る。エルダードラゴンからではない。その奥だ。これまで竜の猛攻を前にものともしなかったメルストの剛体が、初めて痺れ以上に痛みを伴うような刺激を、震えとともに見せた。
「エリシアさん。このエルダードラゴン……討伐しない方がいい」
ふいに出た言葉。エリシアがその理由を尋ねたときには、すでにメルストの目に老竜は映っていなかった。
「え? それはどうして――」
「現れたも何も、最初からここに棲んでいたんだ。いや、護ってきたといってもいい」
ズズズズ、と響く地面。何かを這いずるような音にも聞こえる。
ソレは、目の前の老竜とは異なり、本能のままに求めていた。だから、新たな存在、それも高エネルギーをもった食べやすそうな餌のもとへ不用心に近づいてきているのだろう。
「ここらに生き物がいないのはこの竜のせいじゃない。こいつはずっと戦い続けてきたんだ」
地より噴き上がった瓦礫。メルスト等とエルダードラゴンの前に現れたのは黒い巨塔、否、竜だった。大蛇ともいえるその体躯はメルストらを大きく囲み、逃がさないように地面を抉り、漆黒の壁を作る。
辛うじて光沢を見せる鱗ははだけたように一部しかなく、その巨躯のほとんどは筋肉がむき出しになったような、脈動する筋線維のようなものが綿密に束ねられている。地を潤滑に移動するための分泌液だろうか、飛散する黒い液体は地面に染み込むと、そこから根を張るように、一つの生命体として、黒い蔦状の多岐草を生やした。
天より見下すその黒い頭部には目がない。無数の白い牙を生やした咢がこちらへと大きく広げていた。
これまでの竜とは違う、明らかに異質な存在。しかし、この得体のしれない存在感に対し、メルストは既視感を抱いた。
「黒竜……!」
「――を模倣た逸脱した生命だ」




