4-5-8.メルスト・ヘルメスの名を背負う者
「君、この間頼んだ資料のことなんだけど」
……?
ぼんやりとした景色。ぶつぶつと切れる映像と音。それがひとつひとつ、痺れるような痛みとともに繋がっていく。
「ん? おい? "――"、話聞いているか?」
「え……?」
鳴り止まない電子音。何重にも奏でている軽い無機物同士が打ち付け合う音。無機質な白と灰が幾何学的に配置された、無風の空間。幾多の動きと雑音、そして感じる熱は人の数か。
「大変だと思うけどしっかりしてくれよ、いま大事な時期なんだから」
腰に手を当てている、目の前の男性は確か……。
「あぁ、はい。すいません」
口癖のようにすんなり出てきた言葉。同時、目の前で呆れている男性も、ここがどこかも、自分が誰なのかも輪郭がはっきりしてきた音と景色とともに思い出す。
「今から取り掛かるところです。定時までに終わらせます」
だろうな、と何をやっているんだ、が混じった表情を見届けた俺はいつものことだ、と流れるように立ち去る上司から手元のデスクへと目を向ける。
目が痛くなるような光を発する平面に映し出された、堅苦しい文。あぁそうだった、午後から会議があったんだっけ。ザッと並ぶ未読通知。作業の途中であっただろう無数の格子を基盤とした資料作成ソフト。そばには好きでもない飲みかけの冷めたコーヒーを手につけ、画面の使用編集ソフトの中身をざっくり目を通した。
試験PA1023……触媒D-1の添加率を変えたけど結果的に上手くいかなくて、試験PI0928は……薬剤B2001から薬剤C502へ変更してみた結果、伸び率も8%向上したしTgの低さも改善されたけど色がな……あとコストも現実的じゃない。再検討としてF剤を添加したいけど実際通るかどうか。あとは試験PAS1013の破断試験と破面観察……あぁ、これってブレンドか。ブレンドの測定はややこしいから好きじゃない。やけにいい結果だと思ったらこれ顧客依頼だったか、そしたら優先的にやらなきゃまずい。いつまでだっけ。
頭が働かない。寝起きだからか。居眠りにしてはなんだか長いこと夢を見ていたような気がする。今を思い出すことがなぜか難しい。
今日も疲れているな。
作業服を着て社内の実験室や工場、オフィスを駆け巡る。時間に追われていくうち、少しずつ思い出していく。しかしどこか疑ってしまう。
俺はいままでなにをしていたんだ?
会社を出て肌寒い夜道を歩いても、眠気とともに電車に揺られても、コンビニで夜食代わりの弁当とカップ麺を買っても、頭に引っかかる、空白の記憶。
どこか遠くの世界へ行っていたような。だけどその靄を掴むような記憶の探りはまさに夢を思い出すそれで、段々ばからしくなった。
ここが現実なんだ。俺が違和感として引っかかっている記憶はただの夢なんだ。そう割り切ろう。
「ただいま……」
疲弊した肉体。やるせない心。アパートの電気もつけっぱなしだし、鍵も開けっ放しだったことに、自分の管理能力のなさにまたも胸を痛める。
「おかえり、兄さん。お仕事おつかれ!」
え、と声が漏れる。すぐには思い出せなかった。いや、信じるのに時間がかかった。
「……彩夜?」
目の前に駆け寄ってきた明るい雰囲気の女性。後ろに結った黒髪と奥から漂う空腹を促す香り、おそらく料理の最中だったか。
「なぁに? そんなびっくりしちゃって。まぁ勝手に上がったのは悪いと思うけどさ、鍵開けっ放しだったよ? あ、講義ちゃんと受けてから来てるからね! 兄さん二言目にはすぐ大学行ってるか聞くもんね。ちゃんと単位も取れてるよ、だから安心して」
話す隙を与えないくらいに話しかけてくる彼女に、俺はなんだか懐かしい気持ちになった。確か彩夜は……いや、今こうして目の前にいる。その事実を受け入れるべきだ。
なんだろう、目が変だ。
「えっ、ちょ、なに!? キモ! なんで泣いてんの突然! やっぱ会社きついの? 大丈夫?」
余計な一言も途中にあったが、それも彼女らしい。
頭に引っかかていたことも、この疲弊も、もやつきも、どうでもよくなってきた。
もしかして、今までのがすべて長い夢だったのだとしたら。
俺はネクタイを緩め、靴を脱ぐ。心配そうに見ている妹の――彩夜の頭をぽんと撫でた。
そうだ。これが俺の求めていたものなんだ。
「なんつーか、単純だな」
そう零した俺は、今日初めて、笑みを浮かべたかもしれな――。
――ザッ、とノイズが走る。急激に訪れた全身の激痛、高鳴る耳鳴り、嘔吐感。頭が締め付けられるように痛い。
冷たい。肌が切れるように寒い。体、うまく動かない。胃が締め付けられるように痛い。何も食べていない……? だけどこれは空腹どころじゃない。頭もふらふらする。それに生臭い。気持ち悪い。
目の前にいたはずの温もりは突然消え、誰かの黒い背中が遠くに見えた。周囲に無数に散らばり、転がっているのは殴り書きされて真っ黒になった紙束に薬品瓶……? あそこにいる人の前に置かれた台には……誰かが眠っている。
何をしているんだ。
「お願いだ」
耳元で言われたような位置から声が聞こえた。目の前の人間か? いや違う。この口からだ。
「私の手で、あの人を救わせてくれ。私にしかできないことなんだ」
俺は何を言っているんだ。どうしてこの口が勝手に動く。目が熱い。泣いているのか? 嗚咽。息が苦しい。肺が焼けるように痛い。
あの誰かにこの体は話しかけているのか?
「お願いだ。お願いだから……! あの人にもう一度、希望をみさせてくれ――」
激しいノイズ。歪む暗闇。吐き気を催すような脳の揺れに目が眩み、必死に視界を取り戻そうとする。
おかしい。現実でもこんなことはなかった。まさかこれも夢なんじゃ――。
そうだ。何かを忘れている。かけがえのない、とても大切なことを。
――"メルストさん"。
誰かの声。鈴が鳴るような、とても透き通る女性のきれいな声だ。だけど誰の……名前、か? 誰が呼んでいる? けどなぜだろうか。とてもなじみ深くて、心地の良い声。
大切にするべき、守るべき、愛すべき人の声だと、訴えかけてくる。
"メル君!"。
"メル……"。
"おいメルストぉ"。
"メルスト君"――。
次々といろんな声が頭の中に入ってくる。抜け落ちた真白から彩られていく現実。
あの寒くも暑い、世界から孤立した黒い砂漠。目の前には黒い服を着た老人がぼんやり映りこむ。
――"ここは君の知る世界ではない。君はある世界で不幸にも死に、その魂が輪廻転生の環から外れ、この世界の輪廻転生に迷い込んでしまった"。
俺は。
"私の代わりに、この繰り返される世界の未来に希望を与えてくれ"
「……"メルスト・ヘルメス"」
そうだ。思い出した。
俺は生きなくちゃいけない。為すべきことを為すために、メルスト・ヘルメスとして、俺は――
――メルストさん!
淀んだ瞳に光が灯る。
その燈火は肉体へ伝播し、その身を縛る悪魔の手を焼き払い、侵された結晶の世界は一斉に白銀を散らせる。火を恐れるように、呪縛から解放されたメルストから魔女は離れた。
「嘘でしょ、何故――」
想定外の事態に魔女は狼狽えの目を向ける。一度だけよろめいた錬金術師は身から発するプラズマを払い、切れる息を押し殺すように笑みを取り繕う。
「何故だろうな。それを解明するのがあんたの仕事だろう、専門家」
「あなたは既に私の支配下のはず。自由に動けるわけがないわ」
それこそ、意識がふたつに分割しているか、一つの肉体に二つ以上の脳あるいは思考と意識が独立して機能しているか。しかしそんな類まれな例外はマイラでさえも立ち会ったこともなければあり得ない話だ。意識の並列は可能でも独立状態での制御は現時点では非常に困難である……そんな文献を見かけたことを彼女はふと思い出した。
「メルストさん、ご無事ですか……!?」
涙ぐんだエリシアの顔を見、そして周囲の凄惨な景色を見、自分がしでかしたことを理解した。
「ごめん、エリシアさん、フェミル……」
「いえ! メルストさんが無事なら何よりです」
「……気、抜けすぎ」
3人の会話の隙に、魔女はすぐさまメルストの脳内を読み取り、断片の記憶だけでも採収しようとする。
「仲間の声に救われた……? それにしたって復帰できるはずが」
「何も脳や神経だけじゃないんだ。この魂が屈しない限り、支配なんかされない。そうだろフェミル」
こくりと、フェミルはうなずく。「屈しない、大事」
「……己の中で何かを見つけたようね。けどこの場にいる全員、私の支配下にあることを忘れてなくって?」
指を動かしたとき、エリシアとフェミルが一斉にメルストへ武器を向けた。臨戦態勢。同じ目に遭ったメルストはそれをただまっすぐと見つめた。
「少しでも抵抗してみなさい。仲間の手によって死ぬことになるわよ。それとも、仲間が自害するという選択の方がいいかしら?」
「メルストさん、ごめんなさい……っ、私としたことが」
「くっ……」
抵抗しようにも体を震わすだけで指一本動かない。攻撃の合図は魔女の思考一つに握られている。だが、メルストは一切、慌てるそぶりを示さなかった。それがどういうことか、魔女は眉をひそめる。
「心配はいらないよ。……突破口は見えてる」
瞬時、メルストの姿は消え――魔女の頭上へ踵を落とそうとしていた。脚部から見えるプラズマと熱。反射的に魔女はかわし、隙を突こうとした。
しかしメルストの狙いは彼女でないことを後に魔女は知ることになる。
虚空を振った踵をそのまま地面へ――
ダァン! と片足を地面に踵踏むように蹴り、大地を大きく粉砕させた。
そのまま衝撃が伝播し、鏡が割れるように空間が砕ける。
「なっ……!?」
本来、攻撃対象に含まれないはずの世界そのもの――悪魔の体内が作られた世界だということを見破られたとでもいうのか。
「その気色悪い翼はこの別世界と直結しているだろ。大きいダメージは期待できなくても、この八方ふさがりの状況よりかはマシになるだろうよ」
この隔離されつつある世界を元のあるべき場所を無理やり引き戻す。そう考えたであろうメルストに対し、魔女は呆れ笑う。錬金術師のくせに、なんて無鉄砲で、直感的か。
「バカね、そんなことしたって私の魔法は……ぅぐ」
魔女の動きが止まる。浮いていた体を地面につけ、身を崩す。
「保険が効いたようだな」
「な、なにを――まさかッ」
「そんな肉体でもまだ人間の部分は残っていると思ってな」
ようやく気付いたようで、魔女はハッとした。
体を半分消し飛ばしたときに薬を投与まれたか。
「おのれ……!」
無理矢理体を起こし、憤怒の目を向けてはメルストに手をかざす。瞬間、身がはじけるような勢いでメルストの体が爆発し、その衝撃で隆起した大地へめり込む。だがそれだけでは物足りず、次々と放たれる雷撃や爆撃がメルストを襲う。
「痛ってぇ、効くな……そんだけ効いてるってことだな」
「なぜ……!? 悪魔の力で極限まで増幅された魔弾なのに……っ」
「逆に幻覚を見せられる気分はどうだ。自分が自分でなくなるってのは、言葉で言う以上に強烈で、怖いんだよ」
攻撃は効いているはず。それでも前に進み続ける得体のしれない錬金術師に初めて魔女は一歩、身を引いた。だが戦意を削ぐ理由にはならない。
「それならこの"蒼炎"で――」
ふらつく魔女の周囲に燃え上がった蒼炎。それが無数の槍へと形へと変え、メルストへと射出された。
だが、眼前ですべて消え失せ、鎮火した。内心安堵したメルストとは裏腹に、想定外の連続に魔女は困惑と憤りの目を晒す。まさかと振り返ると、自由を取り戻していたエリシアが大杖を向けていた。
「あなたの魔法の発信を防ぎました。これ以上の抵抗をしないことを強く勧めます」
「ッ、だからなんだっていうの。これまでの武術経験がまだ残ってるわ」
ドスッ、と鈍く裂ける音が魔女の心臓部から聞こえた。聖槍。目の前にはそれを握って突っ込んできたハイエルフ。咄嗟に後退し、一本の雷槍をその手から出現させては対抗した。
途端、フェミルの猛攻が魔女を襲う。負傷しているにしても悪魔の力で能力は向上したはず。だが、フェミルの方が優勢に回っていた。先ほどの槍さばきではない。同じ神経を模倣しているはずなのに、どうして――。
「そんな心のない真似、なんて……武術じゃ、ない」
飛散する紫電を、翡翠の風が断ち切る。再び胸部を貫かれた魔女はとうとう真紅の血を吐いた。
「この場の戦いで、何を思って戦うかが……何を思って強くなろうとしてきたかが、力を最大限……発揮、するの」
背後、そして前方奥から槍型の雷がフェミルめがけて放たれる――が、それらはすべて、エリシアの蒼炎に呑まれた。歯ぎしりした魔女は、声を張り上げる。
「……ッ、私だって、思う心くらい! あるに決まって――」
その手から無数の槍を出した瞬間、一本の槍が魔女の腹部を貫く。槍はすべて消え、聖槍が抜けた魔女の肉体はふらりと、彷徨うように崩れる場所を探していた。
「か、は……っ」
背から倒れそうになるも、目をひんむき、上体をのけぞり起こしては両腕を広げる。
「まだ……まだこんなところで!」
彼女を中心に、空間が再び波紋を呼び起こす。
「波動魔法――ッ、そんな……」
悪魔による波動魔法は万物をすべて燃やし尽くすと云われる。危機を察したフェミルはすばやく後退するも波動の伝播は速く、すぐに迫ってきていた。エリシアが絶望した表情を浮かべたのは、悪魔の波動に防御系の魔法が一切通じないと知っていたからだ。
だが、その常識すらも、何も知らないメルストは打ち破る。
「ッ、なんですって――」
誰もが恐れる力に、その錬金術師は立ち向かった。その拳ひとつで波動が消え去り、第二の一撃が魔女を覆いつくした。




