1-1-1.はじまりの夜明け
現実は小説より奇なりというけれど、それはどこまで本当なのか。捉え方は人それぞれだが、触れる創作によっては現実を凌駕するだろうと金子創吾は信じてやまなかった。
彼はフィクションの世界に憧れを抱いていた。ファンタジー小説でもサイエンスフィクションでも、リアリティある現代社会を描いたサスペンスでも、そこには可能性と確実な「出来事」が起きている。大袈裟に言えば事件ともいえる、金子にとっては刺激ある非日常がそこにあるとみていた。
生きる意味や価値なんか求めるどころか考えるはずもなく、普遍的に平和に育ち、なんとなく学校生活を過ごし、とってつけたような目標を胸に大学、大学院に通い、そして現実を知っては社会人となり、身の丈に合わない会社で忙しなくも無味乾燥な日々を過ごしている。特別嫌われているわけでもなかったが、人脈は必要最小限だ。
どこかの物語の主人公みたいに、特別な力を持ち合わせているわけでもなければ、物語になるような人生も送っていない。強いて上げるとしても、博士号工学を取得し、企業で化学分野の基礎研究および開発に勤しんだことぐらいだ。それでも優秀な企業研究者たちとは程遠く、常に劣等感を抱き続けていたが。かつて強く望んでいた学者の夢も、今ではくすんで見える。
だが、アカデミックから離れようと、彼は生粋の科学好きだ。個人ブログを立ち上げては研究者のノウハウや動植物の観察記録、おすすめの論文のレビューを公開していることをはじめ、フリー百科事典の間違った文章を編集して修正すること、どこかの知恵袋で悩める者達に光を与えていたことぐらいしか自慢できるものはなかった。
苦痛ではない。不満でもない。だが、なにか胸のどこかが欠落しているような、そんな虚構感に苛まれていた。交際相手でもできれば、結婚でもできれば、なんてことを考えても、多忙な毎日で行動に移る気にもなれなかった。フィクションで一時的な満足に依存していたのだ。現実逃避といえばそれまでだろう。
常日頃、空前絶後のアクシデントが起きないかと半ばあきらめの気持ちで、願い続けていた。
なんでもない日のなんでもない土曜の更けた夜。記述するとしても温かくも寒くもない新月の宵だといえよう。せいぜい明日、妹の墓参りがあるぐらいだ。
安物の腕時計を覗く。時間は23時58分。秒針が進むほど後悔が頭を絞めつける。
一言だけでもいい。謝りたい。もう一度だけ会えたらとどれだけ思ったか。それこそ、幽霊として化けて出てこないかといつもの癖で妄想し、突飛な出来事を望んだ。結局、馬鹿馬鹿しいと自分の幼稚さに息をつくが。
誰もいない小さな鉄橋の真ん中で、なにがおもしろいのか、さらさらと静かに流れる川を見続けていた。仕事の帰り道で通るここは、彼の重い足を必ず引き留める。川に映える月がどこか幽玄で、まるでこの世のものではないと彼の心を奪っていたからだ。
今日もなにもなかった。鉄橋を後にしようとしたとき、星すら見えない夜空に場違いな太陽が現れ、蒼い夜明けのようにまばゆい光と重い衝撃に身が包まれるまでは――。
目を覚ますと、夜が明け始めていた。
「――っ!」
息を吹き返すように、唐突に目を開ける。全身に電気が駆け巡ったようにビクンとあらゆる筋肉が反射し、身体が跳ね上がった。
椅子に座ったまま眠っていたようだ。切れる息を落ち着かせ、白黒する目にピントを合わせる。
「夢……なのか?」
長い夢でも見ていたのか、それとも今この瞬間が夢なのか。眠りから覚め、記憶も意識もまだはっきりしていない黒髪の青少年は、景色を見つめる。
蒼い暁に照らされた、苔つく石煉瓦の廃墟の中。風化した石壁の先、腐食したパイプや古錆びた歯車が露出している。半壊したうす暗い内部と、そこへ侵食した草や蔦。干からびた木々。土は砂っぽく、空気は死んだように乾ききっている。
そんな中、彼の正面にいたのは、朽ちた建物よりも大きな老木の根元に片膝を立てて座り込んでいる、ひとりの老人。
顔には深いシワが刻まれ、優に七十歳は越えていそうだ。老人の居場所にだけ明けの光が差し込んでおり、老人の表情と深いシワが一層目立つ。
長めの髪も顎含む口周りの髭も、そして眉毛も真っ白であり、繋がっているが無精ではない、どこか清潔感のあるそれだった。
しかし、その瞳だけは黒く、着ている布一枚だけのような簡素な服もまた、黒かった。
「誰……?」
『肉体を失った私に授かる名など何もない』
嗄れた声。しかし耳にずしりと来るような、重く真っ直ぐな声。
「それ、どういうことですか……」
『そんなことより、具合はどうだ。身体は動かせるか』
そう質され、彼は四肢に集中してみる。多少の痺れはあるも、いつもどおりの感覚。動かせる。
よし、とそれを見た老人は少し安心したようだ。
『見たところ、成功はしたようだな。少し記憶が曖昧のようじゃがな』
「あの、俺、何があったのかさっぱりで……」
ショックによるものだろうか、先程までの記憶が出てこない。とても長い夢を見た後の、微睡んだ世界にいる気分だ。
『単刀直入に言う。ここは君の知る世界ではない。君はある世界で不幸にも死に、その魂が輪廻転生の環から外れ、この世界の輪廻転生に迷い込んでしまった』
俺が死んだ……? これも夢なのか?
彼はボーっとする頭を働かせてみる。しかしここまでリアリティある夢は一度もなかったことを追想し、万が一を考えて、老人の話を信じてみた。
「し、死んだって……なんで死んだんですか? それに、あなたは……?」
『知ったことではない。ただ、脳に激しい電気的ショックと神経のダメージがあった。衝突死や刺傷によるものではないじゃろう』
「……あの、名前は言わないのですね」
『自分を失えば、名は忘れる。そういう世界じゃ』
そういえば、と自分の名前を思い出そうとも出てこないことに気が付く。これまでの記憶はあるにもかかわらず、生まれたときから共にあったはずの名前がこれっぽっちも出てこない。彼は途端に不安になってきていた。
この世界について何でも知っているような口ぶりと佇まいに、彼は一旦冷静に努め、話を推定する。
「それでつまり……俺は前世で死んで、別世界で生まれ変わったということですか? だとしたら……あなたは神様、みたいな存在とでもいえばいいんでしょうか」
何故死んだのか、彼は理解できていなかった。死んだとはいえ、今はこうやって呼吸をし、瞬きをし、考えることだってできる。死んだという実感がなかった。
意外そうにも、はたまた少し違うようなといわんばかりの表情で固まったように黙り込んだ後、顎鬚をさすりながら肯定する。
『大まかに言えばその通りだ。受け入れが早くて助かるよ』
「そりゃ……どうも」
寛容さ、器の広さに関しては人一倍はあると自覚している彼は、どうにかこの現実を受け入れようとしていた。
"なるようになる"。これが彼のこれまでのモットーだった。
『さて、私が残留思念の如く君の視覚野に留まれるのはそう長くない。端的に話すが、それで思い出せ』
「いや、そんな無茶な」
(こっちの心情も無視して、なんとも自分勝手な神様だ)
そう思いつつも、がんばって話を聞くよう耳を傾けた。
光として入ってくる景色が目に刺さるこの痛みも、大分和らいできている。
『君にはその私の"傑作"……ゴホン、その身体でこれからを生きてもらう。私に間違いがなければ、この世界で生き残れるだけの能力は備えてある。不足はないはずだ』
「傑作? この身体って、あなたが創ったのですか? まさか俺、ロボットだったりとか」
『ちゃんとした人間の身体じゃ。元々は死体だったがな』
「……外見大丈夫ですよね?」と不安を煽るような声。
『胸の大きな古傷を除けば、どこからどうみても普遍的な好青年、とでも言っておこう。人と関わるにあたって支障はないはずだ。腐ってはおらんよ』
神様の言う通り、自分の手を見る限りは機械ではない。神様ならではの為せる業かと彼は納得する。
「あ、ありがとうございます。俺、死んだらしいのに、いろいろとここまでしてくださって――」
『"メルスト・ヘルメス"』
「え?」
遮るように、老神は言った。
『その身体に授けようとした名前じゃ。前世の名は覚えておらぬだろう』
「まぁ……そうですけど」
『その神工的に造り変えた遺体には本来、肉体を持たぬ私が入るつもりじゃった。だがどういう因果か、それとも皮肉なことにどっかの神の悪戯か、君の魂との相性の方が良く、リスクも少ない』
何の目的で神様がここに入るつもりだったのだろうか。この世を満喫するため……ではないだろう。そう彼は不審に思いつつも、神様なりの都合があるのだろうと深くは捉えなかった。
「え、それって申し訳ないじゃないですか。その、そちらは大丈夫なんですか?」
『腹が立つのが本音じゃが、仕方あるまい。最悪の想定も兼ねて、万一の施しもしておるから安心せい』
それは少年に、というよりは自分に言いかけているように見て取れる。さらに気まずくなった少年は、何度目かわからない謝罪をしようとしたとき。
『はぁ、この世界の酒が飲める日を楽しみにしていたというのに』
「酒かよ」
少年にとって大したことない理由に、つい本心が口からこぼれる。幸い、その声は酒を想う神様の耳には届かなかった。酒に執着がない彼にとってはあまり共感できないことだった。ため息をひとつつき、少年は話を戻す。
「メルスト……それが、ここの世界での俺の名前なんですね」
『ああ、決して忘れるでないぞ』
笑いもしない老神だが、赤ん坊に名を授けた名付け親のように表情が微かに緩んでいた。
「わかりました」と少年――メルストが了解したところで、再び色を正した。
頼んだぞ、と告げた神様は萎みそうなほどまでに息を深く吐く。それに改めて申し訳なさを感じ、変な言い訳をしようとした。
「けど、やっぱり神様じゃなくて俺が入ってしまって、なんというか……」
しかし、やれやれと言った表情で微笑みかける。悔やんではいたものの、割り切っている表情だ。
『私のことは良い。選ばれたと思って、胸を張って生きてこい。そして、私の代わりに、この繰り返される世界の未来に"希望"を与えてくれ――もう時間がない。また会う時があれば、世の神々が好む絶世の酒でも交わそう』
それを最後に、いつの間にか老神の姿は消え去っていた。声も聞こえてこない。今までが幻だったかのような感覚に、しばらく呆けていた。
「……なんだったんだ」
現実の中で夢でも見たような。話に乗じて聞いてはいたが、改めて一人になった途端、迷宮の真ん中に放り投げられた気分を前に、急に不安が襲いかかる。
「にしても、どこだここ……?」
結局、ここがいつの時代のどこかもわからなかった。その上、最後の最後に何か使命を託されたような、と先程の会話を思い返そうとしたとき、鋭い痛みが頭の中を貫く。
それを堪えつつ、椅子から立ち上がった途端、二日酔いのように頭がガンガンとたたきつけられるような激痛が伴う。重なる痛みにふらつくも、辛うじて立ち続けた。
「なんだこれ……っ、うぅ、飲んでもないのに気持ちわりぃ」
酒臭くもない。だが、内臓に異物が詰まっているような、筋肉が壊れ切っているような。その上、顔がピリピリと麻痺している。頭痛が激しいのは、肉体が異常を知らせている他ならない。
「……ふう」
しかし、段々と楽になってくる。一時的だけだったようで、深呼吸したメルストは安堵した。徐々に冷静になり、思考もまとまってくる。椅子の手すりから手を離した。
振り返る。彼が目覚めた椅子はただの椅子ではないようで、何かの装置が取り付けられており、廃墟の壁と一体化したような大きな機器と接続されていた。
(変な椅子だな)
機械で奇怪な椅子だ、とつまらないことを隅に考える。ある程度の機械技術は発達しているのだろうと周りを見るが、その椅子以外で機械の部品が転がっているわけでもなかった。
「……このあとどうすりゃいいんだ」
というか、本当に夢じゃないのかよ。そう彼は心の中で呟き、人ひとりいない、無人の廃墟市街のような遺跡で途方に暮れる。穏やかなのに不穏な空気が混じる中、メルストはあてもなく歩き始めた。
読んでいただき、ありがとうございます!
異世界転生・転移系テンプレート×化学(錬金術)×バトルものを題材に書かせていただきました。
よろしくお願いいたします。