三題小説第三弾『初恋』『おっさん』『嫉妬』
「……折り入ってお願いがあります」
僕がぎりぎり聞き取れたのはそれだけだ。彼女が――甘利という苗字だけは知っている――話しかけてきたという事実に呆然としてしまった。今までにもケーキやドリンクを注文する時に接客の会話を二言三言交わしてきたものだけど、それが甘利さんの個人的なものだと分かった途端脳がエンストしてしまったようだ。
無意識に自分の制服のボタンに手を伸ばしてしまう。緊張している時の癖だ。
聞き耳を立てている者などいないのに、彼女の声のボリュームは少し落ちていた。若干上擦っている事から彼女も相当緊張しているようだ。それにしどろもどろだ。目もあちらこちらへと泳いでいる。当の僕も中々目を合わせられないでいるのだが。
「その、実はケーキ作りの練習をさせていただける事になりまして、突然の事で驚かれるかもしれませんが、味見をして貰えないでしょうか。もちろんお代はいただきませんので」
他の店員や店長がやってくれそうな事だ。ケーキが余ったのだろうか。それにしても何故僕なのだろう。
まぁ何か事情があるのかもしれない。何よりせっかく親しくなれるかもしれないチャンスをふいにする事になる。
「ぼぼぼ僕で良ければ」
我ながら情けない。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます。それでは今からでも構いませんか? 他にお客様もいませんし。やはり仕事が疎かにならない範囲での事ですので」
「う、うん。大丈夫だよ。こういう機会は中々ないからね。楽しみだよ」と、声がかっこよく響くように意識して言った。
丁度もう一つケーキを注文しようとしていたところなんです、と言う訳にはいかないよな。
「ありがとうございます」
甘利さんは爽やかな笑顔を残し、カウンター内へとリズミカルに弾むような足取りで帰って行った。
彼女の一挙手一投足を見るたびに初恋の特別さを思い知る。そもそも初恋なのだから特別かどうか比較しようもないけれど。
駅前の繁華街から少し離れた所にあるケーキ屋ラ・ジャルージに僕は足繁く通っていた。断じて美味しいケーキの為だ、とは言えそうもない。元々甘いものが好きで甘味処を見かければ突撃していた。入学式の季節に彼女の存在を知ってからそろそろ半年が経つ。今では店員さんに常連さんとあだ名されるほどになっていた、というわけだ。
さっそく甘利さんとケーキがやってきた。シンプルなチョコレートケーキだ。
「どうぞお召し上がりください」
ケーキとコーヒー、フォークと紙ナプキンが机の上に置かれる。僕がいつも注文しているブラックのコーヒーだ。
「もちろんコーヒーはサービスです」
そう言うと甘利さんは向かいの椅子を引くとそこへ座ってしまった。
「え、えっと……」
僕は心中どぎまぎしてしまう。だって仕方ない事だ。甘利さんのまばゆいばかりの笑顔に当てられる。
「はい?」
「食べてる間ずっと見てるの?」
緊張して喉を通らなくなるかもしれない。恋というものはそういうものだと聞いた事がある。
「はい! 直ぐにでも感想をききたいんです! よろしくお願いします!」
すごい緊張感だ。大事な試合に臨むかのような熱く静かな緊張感。これが恋なのか。
「それでは、いただきます」
甘利さんの視線が注がれる中、フォークを手に取り、ケーキの端を切り取り、口の中に放り込む。
チョコレートが舌の上で溶けて甘みが広がり、続いて苦味が後を追う。
アプリコットジャムの爽やかな酸味が口内に満ち充ちて鼻孔をくすぐって抜ける。
咀嚼するとスポンジケーキが上下の歯に押しつぶされておぼろ気な甘みがふうわりと現れた。
「どうでしょうか? 美味しいですか? 不味いですか?」
甘利さんが僕の目を覗き込む。黒真珠のような輝きに目を奪われる。
「うん。とっても美味しいよ。不味いなんてとんでもない」
批評家のように上手い事は言えそうもないが、このケーキはとても美味しいと断言できる。
ふとカウンターの方に目をやると男と目が合って、慌ててケーキに目を落とす。その人も店員だ。言っては悪いが人相の悪い男なせいか睨まれているように感じた。それとも味見の件に何か思うところがあるのかもしれない。
「ラ・ジャルージのメニューと比べてどうですか? あのレベルに達しているでしょうか?」
どうやらかなり高レベルな機微を求められているようだ。僕には何も問題ないように思えるが、もしかしたら店で出すほどのものではないのだろうか。シンプルなケーキに思えるが、やっぱりプロの領域では簡単なものではないのかもしれない。
正直そこまで分からない。しかし、こいつには味見させる意味がない、と思われるわけにもいかない。
「上手く言えないけれど店のメニューとは違うって感じがする気もするような……」
何を言ってるんだ僕は。これじゃあ何も言ってないようなものだ。
甘利さんはあごに手を当てて考え込む。彫刻のように整っていながら希薄にも思える柔らかそうな表情だ。
「ふむふむ」と言った。「確かに店長も同じような事を仰ってました」
大丈夫か店長。
「まぁあまり気にしないで。所詮素人の意見だからね」
「食べるのに玄人も素人もないと思います。それより何よりお客様の意見ですから、参考にさせていただきます! ありがとうございました!」と、甘利さんは身を乗り出さん勢いで言った。
「いえいえ。喜んでもらえたようで良かったよ。できれば、その、良ければ、あの」
頑張れ僕!
「また今度味見してもらえますか? 出勤日はほぼ毎回練習しているので余ってしまうんです」
「任せてください。それにしても熱心だね。材料代も馬鹿にならないだろうに」
「そうですね。ずっと目指してた夢ですから」
照れくさそうにそう言った甘利さんは何物にも代えがたい笑顔を見せてくれた。
ただただケーキ屋に通うだけの日々に思わぬ僥倖が訪れた。ただ受け身に何かが起こるのを待つのはやめだ。
メニューには可愛らしくデフォルメされたケーキとドリンクが手書きされている。いくつかのケーキにはデフォルメされた店員の似顔絵と丸文字で名前と解説が添えられている。どうやら店員ごとのオススメのケーキのようだ。
ベイクド・チーズケーキの所に『あまりさん』こと甘利さんが描かれている。デフォルメしてもその美がにじみ出ている。
ザッハトルテのところに唯一男の子らしき絵がある。『いのせさん』。デフォルメにも程があるだろう。あの男のどこにこんな愛らしさがあるというのか。
「そのメニューは店長さんの手作りなんですよ。とても可愛らしい絵ですよね。」
いつの間にか甘利さんがすぐ傍にいた。その手にはチョコレートケーキとコーヒー。今日も既にチーズケーキを食べたけれど、まだ腹には余分なスペースがある。
「何というか意外だね。店長さんは何度か見た事あるけど、こういう絵を描きそうな人には見えないというか」
印象でしかないが厳格そうな女性だった。
「そうかもしれませんね。とても厳しい人ですけど、それだけケーキに対して誠実なのだと思います。私たち製菓専門学校の生徒にとっては先生方と変わりませんから。現場を実地で教えていただける師匠なんです」
フォークでチョコレートケーキを口に運ぶ。前よりも口当たり柔らかになっている気がする。
「他にも同級生がいるの?」
「私以外の同校生徒は全員先輩ですね。猪瀬さんは卒業生ですけど。私も学校の紹介で雇っていただいたんです」
「チーズケーキ好きなの?」
「ええ。ただそこにあるオススメはどちらかというと作るのが得意なケーキですね」
「確かにここのチーズケーキは絶品だったよ」
「ところでお味はどうですか?」
甘利さんはいつものように感想を聞く。
「何だか前回より美味しくなってる気がするよ。より口に優しいというか、歯に柔らかいというか、舌に静やかというか」
このセリフは初めてだと思うが、同じような内容を何回も言ってきた。このケーキは何度目の味見だろうか。既に一カ月は経っている。そして全て同じチョコレートケーキだった。正直言ってもう何がんだかわからない。チョコレートケーキがゲシュタルト崩壊を起こしている。チョコレートがケーキでカカオの生クリームが湯煎にラム酒と発酵バターだ。でも彼女はまだ納得出来ていないようだ。何のための味見なのだろう。
「本当ですか!?」
「うん。もう完璧なんじゃないかな。店のものと比べても遜色ないというか。むしろ超えてしまってるんじゃないかという気がしているくらいだよ。甘利さん自身ははどう思うんだい?」
「超えてるなんてとんでもないです。でも、そうですね。そろそろ一段落しようと思います」
甘利さんは恥ずかしそうに俯いて手を振って否定する。少し赤く染まった頬が愛らしい。
プロを目指すものともなれば極めるなんて考えはおこがましいのかもしれないが、いくら極まったケーキでも一か月毎日のように食べれば飽きは来るだろう。
「そういえば常連さんの好きなケーキってモンブランですよね? 今度それを作りますね!」
「あれ? モンブランが好きって言ったっけ?」
「えーっと、特に多く食べていらっしゃる印象でした。違いました?」
「いや、うん、モンブランが特に好きだね。楽しみだなぁ」
確かに味見を頼まれる前にはよくモンブランを注文している。
しまった! 何の進展もないまま一カ月が過ぎた上につい二人きりの味見のひと時を打ち切ってしまった。
「私、本当に感謝しているんです。一カ月もの間、私の練習に付き合ってくださって」
甘利さんの上目遣いが脳天に突き刺さる。ここで終わらせるわけにはいかないんだ。
「こ、こちらこそ! 沢山美味しいケーキが食べられて、コーヒーも飲めて」これじゃあ乞食だ。「甘利さんとお話できて、甘利さんの力になれて」
甘利さんは少し目を見開いてこちらを見つめている。
この勢いだ! 今しかない! 僕! 頑張れ!
「甘利さん。良ければ」
突然厨房の奥から金属のぶつかるような大きな音が鳴り響いた。
甘利さんが慌てて席を立って厨房へ戻って行った。食器か什器でも落としたのだろうか。
甘利さんは直ぐに戻って来た。
「什器が落ちただけでした。常連さん。モンブラン楽しみにしててください」
「はい!」
我ながら情けない。
その後奥から出てきた猪瀬さんの様子から察するに、どうやら彼が何かやらかしたようだ。今だと『いのせさん』が似合っている。しょんぼりという言葉を全身で体現している。
会計に向かうと猪瀬さんが対応した。味見以外の自分が注文した分の代金を払う。
「いつも甘利さんに奢られてますよね。失礼ですがどういうご関係なんですか?」
少し刺々しい口調で猪瀬さんが言った。
「聞いてないですか? 試食を頼まれてるんですよ。練習台ってやつですね」
ははは、と笑う僕。惚気ているような気分だ。という事は僕だけが味見をしているのだろうか。
甘利さんはどうして僕だけに味見をさせるのだろう。常連が僕しかいないのだとしたらラ・ジャルージの事が心配になってくる。
刺さるような猪瀬さんの目線を背中に浴びながら店を出た。
いつもと変わらない落ち着いた内装の店内。柔らかい間接照明がベージュの壁紙やナラ無垢材のテーブルに降りかかり、穏やかなピアノ曲がどこからともなく広がってくる。
いつもの席、僕自身がこの店の調和を崩さずに済むよう奥の席に座る。
今日こそ何かしらの進展を望む。あるいは一つの決断をすべき時なのかもしれない。
注文を取りに来たのは猪瀬さんだった。いや、注文を取りに来たのですらなかった。猪瀬さんは粗雑にテイクアウト用の箱を机の上に置く。
「甘利さんからです」
「甘利さんはどうされたんですか?」
猪瀬さんが何かを思案している。言うべきかどうか迷っているようだ。
「シフト変更ってやつですね。早番になったそうで」
もう帰ってしまったという事か。
「だとしたら何でケーキがあるんだろう?」
「そんな事知らねぇよ。それだけ思われてるって事なんじゃないですかね」
猪瀬さんの言葉に突然あからさまに敵意が含まれた。
どうやら甘利さんは僕の為にケーキを用意してくれていたようだ。しかし甘利さんがいないからといって、このまま帰るというのも店に失礼だろう。
「じゃあモンブランとブラックコーヒーをお願いします」
「注文? 甘利さん目当てで来てるなら今日はもう帰ればいいだろ」
どうやらバレていたようだ。この事を甘利さんも知っているのだろうか。
「甘利さんは何か言ってた?」
「別に。ストーカーじゃないの? って進言しておいたけど。甘利さんが言うにはただ練習に付き合ってくれる常連さんだそうで」
どうやら彼自身も少なからず甘利さんに好意を寄せているようだ。そして僕に嫉妬の感情を抱いているのだろう。僕自身が猪瀬さんに対して嫉妬しているように。
「ストーカーだなんて。失礼な上に卑怯だね。他人を貶める事で甘利さんの好感を得られるとは思わないけどな」
「は? お前の方こそ身の程を知れよ。ただ味見しただけで何様のつもりだ」
「ただの味見すらさせてもらえなかったのは誰だっけ?」
猪瀬さんが舌打ちしてケーキの箱を叩き飛ばした。一気に頭に血が上った。
その時ドアベルがカランコロンと鳴った。そこにいたのは甘利さんだった。彼女は何事かを呟きながら厨房の方へ駆け込む。
猪瀬さんはバツが悪そうにカウンターへ戻って行く。
甘利さんは直ぐに戻って来て、猪瀬さんに別れを告げ、店を出る直前にこちらに気付いた。
「常連さん! モンブラン楽しみにしていてくださいね!」と、店の端にいる僕まで届く声で言った。
そのまま店を出て行った。忘れ物でもしたのだろうか。
ケーキが心配になって床の上から拾い上げた。幸い甘利さんは気付かなかったようだ。とりあえずケーキを確認する。予想していたほど形は崩れていなかった。しかし中身は予想だにしていないものだった。
猪瀬さんはショーケースを覗き込んでいる。仕事に戻ったようだ。箱を閉じ、席を立つ。猪瀬さんの視線に気づかないふりをして店を出る。
「もう来るなおっさん」と聞こえた気がした。
箱の中にあったのはチョコレートケーキでメッセージカードが添えられていた。カードの内容から色々と分かった。要するに甘利さんは猪瀬さんに認められる為に練習していたのだそうだ。
猪瀬さんと甘利さんの間でどういう会話があったのか分からないが、彼は勘違いし自分へのケーキを僕に渡してしまったという事だろう。
コンビニを探し、ゴミ箱に箱ごとケーキを捨てる。初恋も捨てる。嫉妬だけが残った。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
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