侍女とバケツ頭の騎士見習い
無数の蝉の声が響く中、木の梢と梢の隙間から洩れた光が地面に踊る。
それでも燦々と降り注ぐ日の光の下より全く涼しく、池の水面を走る風も心地良い。
ここは王城内の使用人の居住区近くにある池の畔だ。随分と久し振りだ。
姫様付きと命じられるまではよくここに来たものだ。
田舎育ちのせいか、山や緑が目に入ると気持ちが落ち着く。
親元を離れ12歳で侍女見習いとしてお城に上がり、来る日も来る日も様々な作法や掃除、着付けなどの実務について学ぶ事が多く、疲れた時に良くここで休んでいたのだ。
ああ、これは夢なのかもしれない。
身体の大きさに不釣り合いなバケツ型の大きな兜を被った少年が、いつものベンチに座っている。
正騎士のものとは異なりあまり研かれておらず、鈍く反射する銀の大振りの兜の側面に書かれた番号は「23560」。
見習い時代の私がよく共に休憩して過ごした少年が、あの頃と変わらない背格好でそこにいるのだ。
『こんにちは』
久し振りの筈なのに、夢の中の私は普段通りに声を掛けた。
ベンチに歩を進めれば首元で三つ編みにしたお下げ髪が揺れる。それは姫様付き侍女になる前にしていた髪型だ。
どうやら私も夢の中ではあの頃の姿のようだ。
彼はいつも隣に座れるように、真ん中より少し寄ってベンチに腰掛けていた。
私は当然というようにその隣に腰掛け、膝の上に紙包みを置く。
『じゃーん。焼き立てだよ。林檎のパウンドケーキ。これ、好きだったよね?』
バケツ頭が大きく何度も頷き、ガコガコと音を立てる。
食べ盛りなのか、ものすごく興奮した様子で、バケツが吹っ飛ぶのではないかと少し心配になる程首を振っている。
まるで餌付けをしている気分だ。でもそれが可愛いのだ。
最初は、あまりにもしょんぼりとバケツ頭が傾いているのを見つけたのが切欠だ。
背格好も私と同じくらいかもしくは小さく幼く見えたので、何だか放っておけずに休憩用に持っていたお菓子を上げたのだ。
彼は片手でバケツ兜の下を掴み少し持ち上げると、その隙間からカットしたケーキを内側に入れて食べる。
掟に則って顔は決して見せない。
私は彼がどこのどんな人か知らないまま、もうすぐ会えなくなってしまうのだ。
「23560」
正式には、第235期・隊員番号60号と読む。
毎年騎士団は、推薦ーー所謂縁故紹介から真っ先に入隊が決まり番号を振られていく慣わしだそうだ。
大体70人前後、多くて80人ほど採用し、才のない者や厳しい訓練に耐えられず半数近くが脱落するらしい。
隊員番号60番台ともすれば、誰からの後ろ盾もなく、最後の方で何とか入隊を許された、と考えられる番号だった。
大きな番号の者は毎年若い番号の貴族からは馬鹿にされ、また入隊許可順が遅かったということは、実力の順位もまた同じとも考えられる。
そんな彼が、これからも耐えていけるのだろうか。それが気がかりだった。
『あのね。私、凄い方の侍女になることが決まったの』
彼は次の一切れに手を出そうとしたが、手を止めてぐるりと私の方に首を向ける。
口が訊けない代わりに、身振りを大きく見せてくれる。どうやら凄い、と同意してくれているようだ。
『王族の方のお話相手兼侍女ですって。滅多にないお話なの。私、嬉しくって』
父の学生時代からの親友に薦められてお城に上がったのだが、その親友であるおじ様はなんと宰相様だったのだ。
その宰相様の推薦もあり、偶然にも二の姫様と私の愛読書が同じで、歳も近く話題も合うだろうという事での大抜擢だったのだ。
おじ様がいらっしゃらなかったら、辺境の田舎貴族の出でこんな高貴な方に就く事など出来なかっただろう。
男女間の会話は禁じられている事もあり、この辺の細かな事実まで全て話すのは憚られた。
だが、これから生活が一変するので、彼には伝えないといけない事がある。
『それで、王宮にもっと近い所にある宿舎に移動するの。お休みもあまり都合良く取れないみたい。だから、もうここには、あんまり、来れなくなるかも……』
彼は身を乗り出すようにして聴いていたが、私の最後の言葉に頭を下に落とした。傾いたバケツ兜が酷く重そうに見える。
『私、あなたの番号、ずっと忘れないから。お城の中でまたどこかですれ違っても、番号見て絶対気がつけるようにするから』
彼は膝の上でぎゅっと拳を握り締める。
私はその上に手を重ねて。
『私も、これからが大変だと思う。騎士の訓練もこれからどんどん厳しくなると思うけど。いつか会おう。二人とも頑張って、ちゃんとお務め出来るようになろ?』
彼は兜が軋む音を立てながら大きく頷いた。
姫様の寝所へ続く長い廊下を進みながら、懐かしい夢の余韻を振り払う。
あれが彼に会った最後だった。
無知な私は、騎士の兜に全て番号が書かれている訳ではない、という事を知らなかったのだ。
現に羽根騎士の兜にも番号はない。
それは他の近衛騎士や正騎士も同じだ。
彼が今どうしているのかは分からない。でもきっとどこかで頑張っている筈だ。
下手したら近くで観ているかも知れない。私も生半端なお務めは出来ないのだ。
それに姫様にお仕え出来るのも後僅かだ。
気を引き締めないと、と歩きながら拳を握り締めると、姫様の寝室の扉の前に立つ羽根騎士二人の甲冑が朝日に照らされて輝いているのが目に入ってきた。
手前から青い羽根ーー長身の副隊長殿と、奥側には私と変わらない身長の黄色い羽根。
間もなく姫様のお輿入れを機に一旦中断される仮面の掟だが、次に再開される時に少しでも経験者を残そうと、このタイミングで敢えて各所に新たに若手を配しているそうだ。
羽根騎士の隊にも、まだ少年と言える身の丈の黄羽根の隊員が新たに加わった。
ああ、可愛いなあ、黄色君。
二人に朝の挨拶をして副隊長殿には会釈したが、黄色君を見ていると微笑ましくて自然と笑みが出てしまう。
だって、ぎこちない動きで敬礼してくれるんですもの。
いつまでもにやけていてはいけない、いけない。
軽く咳払いをしてから、指の背で扉をノックする。
「姫様、朝でございます」
やがて中から聞こえてきた鈴の音を合図に扉を開ける。
「おはようございます、姫様。いいお天気で、暑くなりそうですよ」
にこやかに姫様に告げて、今日が始まる。
「え、あの、何ですか……?えっ、えっ、えっ?」
「あー、またかよ」
「彼女、あの年頃の子、好きみたいですからね」
「え、俺、何にもしてないっす。本当ですって」