ずっとそばにいると思っていた婚約者が、辞退すると言い出しました
「遅いですわ」
エヴァレット伯爵家の応接室へ入ってきたセオドア・リンデンに、マチルダは開口一番そう告げた。
セオドアは足を止め、壁際の時計を見る。
「約束は三時でしたよね」
「ええ」
「まだ二時四十五分ですが」
「わたくしはもう待っておりました」
「……そうですね」
「でしたら遅いでしょう?」
セオドアは少し考えた。
「次から二時半に来ます」
「そんなに早く来られても困りますわ」
「では、何時に?」
「それくらい、ご自分でお考えになって」
「難しいですね」
そう言いながらも、セオドアは怒らない。いつものことである。
マチルダ・エヴァレット。エヴァレット伯爵家の次女にして、次期当主。
長女アデラインは侯爵家への嫁入りが決まっているため、伯爵家を継ぐのはマチルダだった。
そしてリンデン子爵エドマンドと、その妻ウィニフレッドの三男であるセオドアは、いずれ彼女の夫としてエヴァレット家へ入る予定になっている。
婚約して六年。家族同士の付き合いも長い。
つまりセオドアは、マチルダのわがままにも長いこと付き合ってきた。
「どうぞ」
彼が差し出した紙箱を、マチルダは見る。
「何ですの?」
「焼き菓子です。先日も召し上がっていたので」
箱を開けると、蜂蜜と木の実を練り込んだ小さな焼き菓子が並んでいた。
「またこれですの?」
「嫌いでしたか?」
「嫌いとは申し上げておりません」
「では、お好きなんですね」
「普通ですわ」
そう言いながら一つ取り、一口、もう一口。セオドアが紅茶を飲んでいる間に二つ目へ手を伸ばす。
侍女は何も言わなかった。
この菓子が出る日は、夕食を少し軽くするよう侍女が厨房へ伝えるのが恒例になっていた。
庭を歩けば、
「どうしてそんなに離れて歩いておりますの?」
と言う。
セオドアが半歩近づけば、
「近すぎますわ」
「では、どのくらいがよろしいですか?」
「それくらい分かりなさいませ」
「また難問ですね」
少し先にぬかるみがある。
マチルダは無言で手を差し出し、セオドアも何も言わずその手を取った。ぬかるみを越えると、マチルダはすぐに手を離した。
「もう結構ですわ」
「はい」
「……何ですの」
「何も」
「何か言いたそうですわね」
「言えば怒られそうなので」
「でしたら言わなくて結構ですわ」
「そうします」
「本当に言わないのですか?」
セオドアは空を見上げた。
夜会ではもっと面倒だった。
セオドアが令嬢と二言三言話しただけで、帰りの馬車の中でマチルダは窓の外を向いた。
「ずいぶん楽しそうでしたわね」
「何がです?」
「先ほどのご令嬢と」
「挨拶しただけですよ」
「わたくしには、随分と楽しそうに見えました」
「笑顔で挨拶するのは普通でしょう」
「笑いすぎですわ」
「どのくらいなら適切なんです?」
「知りません!」
その直後、マチルダ自身は別の子爵家子息と一曲踊った。
帰り際、セオドアが尋ねる。
「僕が令嬢と話すのは駄目で、あなたが令息と踊るのはいいんですか?」
「わたくしは社交ですわ」
「僕も社交です」
「屁理屈をおっしゃらないで!」
セオドアは黙った。
マチルダは勝ったと思った。
別の日。
「今週は少し忙しくて、三日ほど伺えません」
「そう。別に構いませんわ」
「では、金曜日に」
「お好きになさいませ」
三日後。
セオドアが来るなり、マチルダは言った。
「ずいぶんお久しぶりですこと」
「三日ですよ」
「わたくしには長かったですわ」
セオドアが少しだけ笑う。
マチルダは慌てて付け加えた。
「別に寂しかったわけではありませんけれど」
「そうですか」
「……」
「では――」
「そこは少しくらい疑いなさいませ!」
「どちらなんです?」
「知りませんわ!」
本当に、面倒な女だった。
けれど、マチルダがこうなるのはセオドアの前だけだった。
父グレゴリーが言う。
「来週の領地視察には、お前も同行しなさい」
「承知いたしました、お父様」
本当は、その日は以前から読みたかった本をゆっくり読むつもりだった。
言わない。
母ヘレナが言う。
「次の晩餐会には、この濃緑のドレスになさい。次期伯爵として落ち着いて見えるわ」
「はい、お母様」
本当は黄色の方が好きだった。
言わない。
姉アデラインが化粧台の髪飾りを手に取る。
「マチルダ、これ借りてもいい? 侯爵家の晩餐会に合いそうなの」
「……ええ。どうぞ」
本当は、その日に自分が使おうと思っていた。
言わない。
アデラインは侯爵家へ嫁ぐ。マチルダは伯爵家に残る。
幼いころから、その違いは何度も言われてきた。
――お姉様は嫁ぐのだから。
――あなたはこの家を継ぐのだから。
――マチルダなら分かるでしょう。
マチルダは、いつも分かった。
分かった顔をした。
そしてセオドアが来る。
「今日は領地視察だったそうですね」
「最悪でしたわ!」
応接室へ入った途端、それである。
「お父様は急に予定を増やしますし、お母様はあの濃緑のドレスを着ろとおっしゃいますし、お姉様には髪飾りを持っていかれましたし!」
「それは大変でしたね」
「大変でしたわ!」
「では今日はゆっくり――」
「あなたまでそんな他人事みたいに言わないでくださいませ!」
「……僕はどうすれば?」
「知りませんわ!」
セオドアは困った顔をする。
それでも帰らない。
それがマチルダには、ずっと当たり前だった。
最初から、こうだったわけではない。
婚約したばかりのころ。十三歳だったマチルダが、一度だけセオドアの前で口にした。
「嫌ですわ」
セオドアは驚いた顔をした。
マチルダはすぐに俯いた。また叱られると思った。
けれど彼は笑った。
「あなたも、嫌だと言うんですね」
「……わたくしだって言いますわよ」
「そうですか」
それだけだった。
怒らなかった。失望もしなかった。翌日も普通に会いに来た。
だからマチルダは、もう一度言った。
嫌ですわ。
次は少し強く。
その次はもっと強く。
どうして分かってくださらないの。
もう知りません。
勝手になさいませ。
それでもセオドアは翌日になれば来た。
だからいつの間にか、マチルダは思うようになった。
この人だけは大丈夫。
何を言っても。
どれほどわがままを言っても。
ずっと、そばにいる。
その日の朝も、マチルダの機嫌は悪かった。
父には領地経営について注意され、母には振る舞いについて小言を言われ、姉には侯爵家での新居の話を楽しそうに聞かされた。
誰にも何も言い返さなかった。
そして午後、セオドアと遠乗りへ出た。
「今日は森の手前までにしましょう」
「どうしてですの?」
「昨夜かなり雨が降りました。森へ入る道はぬかるんでいるでしょうから」
「わたくしは湖まで行きたいのです」
「今日は危険です」
「いつも行っているでしょう」
「いつもは道が乾いています」
正しい。
だから余計に腹が立った。
「せっかく楽しみにしておりましたのに」
「また晴れた日に行きましょう」
「いつですの?」
「来週なら――」
「来週!」
マチルダは馬上で振り返る。
「そんなにわたくしとの時間を早く切り上げたいのですか!」
「そういう話ではありません」
「では湖まで行けばよろしいでしょう!」
「危ないと言っているんです」
珍しく、セオドアの声が少し強くなった。
それがさらに気に入らなかった。
「もう結構ですわ!」
手綱を引く。
「マチルダ!」
「そんなにお嫌なら、帰ればよろしいでしょう!」
馬を走らせた。
後ろからセオドアが呼ぶ。
止まらない。
どうせ追ってくる。
いつものように。
そして実際、追ってきた。
蹄の音が近づく。
次の瞬間。
ずるり、と蹄が滑る音がした。
マチルダが振り返る。
セオドアの馬が、ぬかるみに脚を取られていた。
馬体が大きく傾き、セオドアが投げ出される。
「セオドア!」
彼の身体が地面へ叩きつけられた。
命に別状はなかった。
けれど右脚の骨折はひどく、治療には長い時間がかかった。
そして医師は告げた。
以前と同じようには戻らないだろう、と。
歩くことはできる。日常生活も送れる。
ただ、長い距離を歩けば痛みが出る。悪天候の日には杖が必要になることもある。騎乗も、以前のようにはできない。
「どうして追ってきたりしたのです!」
見舞いに来たマチルダは、寝台の横で怒った。
「あなたを一人で行かせるわけにはいかなかったので」
「だからって、あなたまで怪我をしてどうするのです!」
「そこは僕もそう思います」
「笑い事ではありませんわ!」
「笑ってませんよ」
「笑っています!」
言いながら、ずれた毛布を直す。水差しを確認し、薬の時間を侍女に尋ねる。窓から風が入れば閉め、枕が低ければ直した。
「マチルダ」
「何ですの」
「座っていてもいいですよ」
「わたくしが立っていたいのです!」
「僕の見舞いなのに、あなたの方が疲れますよ」
「怪我人がわたくしの心配などなさらないで! あなたは大人しく休んでいなさいませ!」
セオドアは、それ以上何も言わなかった。
後遺症が残ると聞いたときも、マチルダは同じだった。
「杖が必要なら、作らせればよろしいでしょう」
医師が少し困る。
「長時間の騎乗は――」
「馬車がありますわ」
「領地によっては馬車では――」
「道を整備します」
父グレゴリーが眉を上げた。
「簡単に言うな」
「では整備計画を作りますわ」
「そういう問題ではない」
「何が問題ですの?」
マチルダには分からなかった。
セオドアの脚が以前と同じでない。
だから何だというのだ。
歩ける。話せる。笑える。
ここにいる。
なら、それでいい。
時間が経てば、二人の暮らしはまた元通りになる。
少なくともマチルダは、そう思っていた。
それから半年。
セオドアは、一度も弱音を吐かなかった。
脚が痛むとも言わない。馬に以前のようには乗れなくなったことを嘆きもしない。
長く歩いたあと、わずかに顔をしかめることはあった。
「痛むのでしょう?」
「少し疲れただけですよ」
杖を使う日も、
「慣れればどうということはありません」
と言った。
マチルダが手を貸そうとすれば、
「大丈夫ですよ」
と断る。
いつも通りだった。
少なくとも、マチルダにはそう見えた。
だから、本当に大丈夫なのだと思っていた。
セオドアが何を考えているのか。
何を諦めようとしているのか。
マチルダは、一度も聞かなかった。
そしてセオドアも、一度も言わなかった。
半年後。
エヴァレット伯爵家の応接室には、両家の家族が揃っていた。
グレゴリー・エヴァレット伯爵。その妻ヘレナ。長女アデライン、次女マチルダ。
向かいには、エドマンド・リンデン子爵とウィニフレッド夫人。
そして杖を傍らへ置いたセオドア。
最初に口を開いたのは、そのセオドアだった。
「本日は、お願いしたいことがあって参りました」
マチルダは何の疑いもなく彼を見ていた。
「現在の僕では、エヴァレット伯爵家の婿として期待される役目を十分に果たせません。ですので、この婚約を辞退させていただきたく存じます」
マチルダは瞬きをした。
意味が分からなかった。
「……何を仰っていますの?」
「マチルダ」
「聞こえておりますわ。何を仰っているのかと聞いているのです」
グレゴリーが口を開こうとした。
しかし、その前にエドマンドが静かに言った。
「その前に、一つ、私どもから申し上げたいことがございます」
部屋の空気が変わった。
「今回の事故について、マチルダ嬢お一人を責めるつもりはございません。息子があなたを追ったのは、息子自身の判断です」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、事故に至るまでの二人の関係については、看過できません」
マチルダは何も言えなかった。
ウィニフレッドが続ける。
「セオドアは以前から、あなたのお怒りを買わないことを優先しておりました」
「……」
「何を申し上げても許してくださる相手と、何を申し上げても傷つかない相手は違います」
マチルダは反射的に何かを言い返そうとした。
けれど、何も出てこなかった。
セオドアなら許してくれる。
そう思ったことなら、何度もある。
怒っても。突き放しても。理不尽なことを言っても。
翌日にはまた来てくれる。
だから大丈夫。
ずっと、そう思っていた。
けれど。
セオドアは傷つかない。
そんなことは、一度も考えたことがなかった。
同じではない。
今さらになって、その違いが胸の奥へ落ちた。
痛かった。
ウィニフレッドの声は穏やかだった。
怒鳴られた方が、まだ楽だったかもしれない。
「もちろん、私どもにも責任はございます」
エドマンドが苦く笑う。
「伯爵家との良縁であることに甘え、息子が譲っているのを、仲がよいからこそだと都合よく考えてしまった」
ヘレナが目を伏せる。グレゴリーも何も言わない。
「ですから、あなたお一人を責める資格は私どもにもありません」
ウィニフレッドはマチルダを見る。
「ですが、このままでよかったとも思えないのです」
「……それは」
「今だけは、息子の言葉を最後まで聞いていただけますか」
マチルダは黙った。
セオドアが彼女を見る。
「僕は、あなたを嫌いになったわけではありません」
息が戻った。
ほんの少しだけ。
「ですが、一度この婚約を白紙に戻したいのです」
「……嫌ですわ」
小さな声だった。
セオドアが眉を寄せる。
「マチルダ?」
「嫌ですわ!」
今度は部屋中に響いた。
全員が固まった。
「マチルダ」
父が呼ぶ。
「嫌です! 絶対に嫌ですわ!」
アデラインが目を丸くする。
「マチルダ……?」
「脚が悪いから何ですの! 杖をつけばよろしいでしょう!」
「ですが――」
「馬に乗れないなら馬車がありますわ! 道が悪いなら直せばよろしいでしょう! 領地を全部、自分の脚で回る必要などありませんわ!」
「僕より適任の方は――」
「いりません!」
涙が落ちた。
マチルダ自身が一番驚いた。
「ほかの方など、いりませんわ! あなたでなくては駄目なのです!」
アデラインが呆然と妹を見る。
「……あなた、そんなにセオドア様のことが好きだったの?」
「好きですわよ!」
「知らなかったわ」
「どうして誰も知らないのです!」
「言わないからよ!」
「そんなの――!」
「マチルダ」
父が低い声を出した。
「少し落ち着きなさい」
「落ち着けませんわ!」
グレゴリーが黙った。
父に真正面から言い返したのも、初めてだった。
ヘレナが娘をじっと見て、静かに言った。
「……言いたいことがあるなら、この際です。全部おっしゃいなさい」
「ありませんわ!」
「あるでしょう」
「ありません!」
「では、なぜ泣いているの?」
マチルダの唇が震えた。
「それは……」
「お父様にも。わたくしにも。アデラインにも。ずっと言わずにいたことがあるでしょう」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがてマチルダが鼻をすすった。
「……では」
嫌な予感がしたのか、グレゴリーがわずかに身じろぎした。
「では申し上げますわ!」
全員の背筋が伸びた。
「どうしてわたくしばかり『マチルダなら分かるでしょう』なのです! 領地視察だって、十四の時から毎回ですわ!」
「次期当主なのだから当然だろう」
「分かっておりますわよ!」
「なら――」
「分かっておりますわ! でも、分かっているからって嫌じゃなくなるわけではありません!」
グレゴリーが黙った。
「お母様もです!」
「ええ」
「濃緑のドレスばかり選んで! わたくし、黄色が好きですの!」
「……黄色?」
「一度も好きだなんて聞いてないわ」
「聞かれたことがありませんもの!」
今度は姉。
「お姉様もですわ!」
「私も!?」
「この前の髪飾り!」
「返したでしょう?」
「そういう話ではありません!」
「じゃあ何なのよ!」
「わたくしも使いたかったのです!」
「言いなさいよ!」
「言える雰囲気でしたの!?」
「普通に聞いたわよ!」
マチルダは止まらない。
「それから十三の時も!」
「十三?」
「お姉様が借りた青い髪飾り!」
「何年前よ!」
「覚えておりますわよ!」
アデラインは額を押さえた。
「お姉様は侯爵家へ嫁ぐから音楽も刺繍も続けてよくて、わたくしは帳簿! 領地! 視察! 次期当主!」
「あなた、それを嫌だなんて一度も――」
「家を継ぐことが嫌なのではありませんわ!」
「じゃあ何なのよ!」
「家を継ぎたいことと、そのためなら何でも平気なことは別ですわ!」
アデラインが口を閉じた。
「……私、あなたが平気なんだと思ってた」
マチルダの目からまた涙が落ちる。
「みんなそうおっしゃいますわ!」
誰も返せなかった。
「わたくしだって嫌なものは嫌です! 疲れる時は疲れますし、休みたい時は休みたいですし! 十歳の時に犬を飼いたいと申し上げたのだって!」
グレゴリーが目を見開く。
「まだ覚えていたのか?」
「覚えておりますわよ!」
「それは次期当主が世話にかまけては――」
「十歳ですわよ!」
さらに母を見る。
「それから朝食の卵!」
「卵?」
「半熟が好きですの!」
「それは厨房に言いなさい!」
「そんな小さなことまで、わたくしはずっと我慢してきたという話ですわ!」
完全に勢いだった。
部屋の空気が妙なことになっている。
マチルダは泣きながら肩で息をした。
「……わたくし、誰にも嫌だって言えなかったのですもの」
その言葉だけは、小さかった。
「だから……セオドアにだけ……」
視線がセオドアへ向く。
「セオドアなら、嫌だと言っても、怒っても、次の日には来てくださるから……ずっといてくださると思っていたのです」
セオドアの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
マチルダは袖で涙を拭い、彼を見る。
「……あなたもですわ」
「僕も?」
「あなたも我慢していること、わたくしにおっしゃって」
「今さら言っても――」
「今さらだからですわ!」
「一つだけなら」
「一つで済むはずありませんわ!」
「まだ何も言っていませんが」
「いっぱいあるでしょう!」
セオドアはしばらく黙り、やがてため息をついた。
「では。怒った勢いで『もう来ないで』と言うのは、やめてほしかったです」
「……」
「その翌日に『どうして来なかったの』と怒るのも」
「……はい」
「贈り物を気に入っているのに、『普通ですわ』と言うのも」
マチルダが顔を上げる。
「なぜ気に入っていると分かるのです?」
「顔に出ています」
アデラインが吹き出した。
「お姉様!」
「ごめんなさい」
セオドアは続ける。
「僕が他の令嬢と話すと怒るのに、ご自分が令息と踊るのは社交だと言うのも」
「それは社交ですわ!」
「僕も社交です」
「……」
以前なら、ここで怒っていただろう。
けれどマチルダは唇を噛んだ。
「……ほかには?」
セオドアが少し驚く。
「まだ聞くんですか?」
「全部おっしゃいなさい」
「では」
少しだけ声が低くなる。
「僕が嫌だと言うと、『わたくしのことが嫌いなのですね』と言うのも、つらかったです。そのたびに、嫌だと言えなくなりました」
マチルダの顔から勢いが消えた。
「……はい」
「そして、一番つらかったのは、僕なら何を言っても離れないと思われていたことです」
長い沈黙。
マチルダは俯いた。
「……思っておりましたわ」
「はい」
「何を言っても、翌日には来てくださると」
「はい」
「だから……甘えておりました」
「そうですね」
「……最低ですわね」
セオドアは少し考えた。
「少しだけ」
マチルダが顔を上げる。
「そこは否定なさいませ!」
「今、我慢していることを言えとおっしゃったでしょう」
「……そうでしたわ!」
アデラインがとうとう笑った。
ヘレナも口元を押さえている。
グレゴリーだけは、何とも言えない顔だった。
結局、その場で婚約継続とはならなかった。
セオドアは、婚約を一度白紙に戻したいと言った。
マチルダはもちろん、
「嫌ですわ!」
と言った。
けれど、何度も息を吸って、ようやく続けた。
「……ですが、あなたがそれを望むのであれば」
初めてだった。
自分が嫌でも、相手の嫌を受け入れたのは。
セオドアは静かに頷いた。
マチルダは涙を拭う。
「ただし」
「はい」
「覚えておいてくださいませ」
「何をです?」
「わたくしは諦めませんわ」
「……」
「もう一度、あなたの方から婚約を申し込んでいただきますわ」
セオドアが少し笑った。
「そこは、ご自分から申し込むという選択肢は?」
「では、わたくしから申し込みますわ!」
即答だった。
それからのマチルダは、驚くほど変わった。
――わけではなかった。
「セオドア! 杖をお持ちになって!」
「今日は必要ありません」
「雨が降りそうですわ!」
「まだ晴れています」
「降ってからでは遅いでしょう!」
「では持ちます」
「最初からそうなさいませ!」
相変わらず、うるさい。
「今日は歩きすぎですわ。座ってくださいませ」
「まだ大丈夫です」
「痛くない顔をしても分かりますのよ!」
「本当に大丈夫です」
「では五分だけ座りなさい!」
「三分で」
「五分!」
「四分」
「……四分半!」
妙なところで折れるようになった。
セオドアも言うようになった。
「今日は一人で歩きます」
「ですが――」
「あなたも、僕が嫌だと言った時には聞くと約束しましたね」
「……分かりましたわ」
五歩後ろからついてくる。
「ついてこなくても大丈夫ですよ」
「散歩ですわ」
「同じ速度で?」
「偶然です」
完全には変わっていない。
でも、以前とは違った。
セオドアが嫌だと言える。
マチルダが、それを聞ける。
マチルダも嫌だと言う。
セオドアも、それを聞く。
一年後。
マチルダは自分から求婚した。
セオドアは受けた。
そして十年後。
エヴァレット伯爵家の庭を、七人の子供が走り回っていた。
長女エレノア。
次女マーサ。
長男アーサー。
三女ルース。
次男ヘンリー。
三男トーマス。
そして末娘メイベル。
「お父様!」
「お父様、こっち!」
「次はぼく!」
セオドアの周りに、今日も子供たちが集まっている。
右手には杖。左腕にはメイベル。背中にはトーマスがよじ登ろうとしていた。
「セオドア!」
庭中に声が響く。
マチルダが早足でやってくる。
「三男を背負いながら末娘を抱くのはおやめなさいませ!」
「まだ背負ってませんよ」
「今から背負うところでしょう!」
トーマスが元気よく言った。
「お父様、馬!」
「お父様を馬にするのではありません!」
マーサが笑う。
「お母様も昔、お父様をいっぱい振り回したんでしょう?」
マチルダの動きが止まった。
「……誰から聞きましたの?」
七人の視線が一斉にセオドアへ向く。
セオドアも視線を逸らした。
「あなたですわね!?」
「事実しか話していません」
「話さなくてよろしいのです!」
その騒ぎを、少し離れたところからヘレナが眺めていた。
十年前より少し白髪が増えた伯爵夫人は、孫たちを一人ずつ数える。
「一、二、三……」
そして娘を見る。
「……にしても、七人は作りすぎよ?」
「何をですの?」
「子供よ」
「…………」
さすがに少しだけ頬が赤くなった。
ヘレナが呆れたように言う。
「あなた、昔はあれほどセオドアさんに当たり散らしていたでしょうに」
「昔の話を持ち出さないでくださいませ!」
「それが十年で七人よ」
マチルダは少し考え、至極真面目な顔で言った。
「仕方ありませんわ」
「何が?」
「昼間にこの方へ当たり散らすより、夜に当たる方がお互いのためになると気づいてしまいましたの」
「…………マチルダ」
「何ですの?」
「母親に聞かせる話ではないわ」
「お母様が聞いたのでしょう?」
「私はそこまで聞いてないのよ」
少し離れたところで、セオドアが咳払いをした。
その日の夕方。
侯爵家から遊びに来ていたアデラインと、マチルダは二人で紅茶を飲んでいた。
庭では七人の子供たちがまだ走っている。
アデラインが窓の外を眺めながら言った。
「でも、本当に七人よ?」
「そうですわね」
「さすがに多くない?」
「仕方ありませんわ」
「さっきも聞いたわ、それ」
マチルダは紅茶を一口飲む。
「だって」
「うん?」
少しだけ声を落とした。
「気持ちいいんですもの」
アデラインの手が止まった。
「…………」
「何ですの、その顔は」
「いや。あなたがそこまで言うとは思わなかっただけ」
「お姉様にしか申し上げておりませんわ!」
「私も聞きたくなかったわよ!」
「聞いたのはお姉様でしょう!」
「多いかとは聞いたけど、理由をそこまで詳しく聞いた覚えはないわ!」
マチルダは肩をすくめる。
「人に当たるより、中に当たった方がいいですもの」
アデラインはしばらく無言だった。
やがて深く息を吐く。
「……あなた、十年前とは別方向にひどくなってない?」
マチルダは庭を見る。
杖をついたセオドアの周りを、七人の子供たちが駆け回っている。
長女が末妹の手を引き、次女が父親へ何かを言い、長男が弟二人を止め、三女は一人で花を摘んでいた。
セオドアがこちらに気づき、笑う。
マチルダも笑った。
「家庭は円満ですわ」
アデラインも窓の外を見る。
「七人いるものね」
「ええ」
マチルダは満足そうに頷いた。
「とても円満ですわ」
私にしては、かなり素直? な恋愛模様になったのではないかなと思います。
まあ、途中で怪我はしていますし、婚約も一度白紙になりますが。
別作品の感想欄で、
「子供五人じゃ少なくない?」
「もっと出来てそう」
といったお言葉をいただきまして。
そういえば何作か幸せなその後を書いてきましたが、私はどうにも、仲の良い夫婦を見ると子沢山にしたがる傾向があるようです。
改めて気づきました。
というわけで今回は七人です。
多い?
仲が良いので仕方ありません。
本人も気持ちいいそうですから、なおさら仕方ありません。




