第1話:凶兆
千年祭の夜、それは起きた。
日が暮れても、まだ城下町は祝祭の賑わいを残しており、酒場には明かりが灯り、人々の笑い声や歌声が聞こえる。
しかし、王城の中は異様な静けさに包まれていた。本来ならば、兵士や使用人たちが賑やかに行き来しているはずだ。それなのに、まるで時間が止まったかのように空気は静寂に包まれ、石の床が冷たく響いている。
突然、鋭い悲鳴が闇を裂いた。
「陛下! 陛下――!」
それは、王妃の声だった。
こげ茶色の癖のある前髪を風に跳ね上げ、第一騎士隊の隊長の青年――ペルナは鋭い眼差しで前方を睨みつけ、全力で廊下を駆け抜ける。
「何だってんだ!?」
たった今まで、ペルナは広間の前にいた。だが、その場所には何のためにいたのか、わからない。数分前くらいからの記憶がない。ただ、王妃の悲鳴を合図にするかのように走り出し、今も走っている。
やがて、王座の間に転がるように飛び込むと、玉座に座る国王の姿が目に入った。その胸には剣が突き刺さっている。
そして、黒装束の何者かが国王の胸から剣を引き抜くと、そのまま泣き崩れている王妃に向かって振り上げた。
「やめろ――!」
ペルナは剣を抜き、駆け出し、叫ぶ。しかし、それらの全ては届かなかった。数メートルほど手前で、虚しくも空を切っただけだった。
王座の間に兵士たちがなだれ込んでくれば、途端に騒々しくなる。
その声と音を背中に聞きながら、ペルナは止まりかけた足を前へと踏み出す。怒りに満ちた鋭い目は、まっすぐに前を向いている。
その視線の先、黒装束の者は口元に獰猛な笑みを浮かべた。それから徐に、手にしている剣で何かを指し示す。
ペルナは剣の切っ先が指し示す方へと視線を向けた。
入り口付近、そこでは駆けつけた兵士たちが目の前の光景と血の匂いに動揺し、混乱を広げている。
「王子!?」
その中に、国王の一番下の弟であるルシッカの姿を見つけた。今度こそ、ペルナの足は止まった。敵か、王子か、どちらに足を進めるかを瞬時に判断しなければならない。
「ここから出ろ!」
ペルナは、ルシッカに駆け寄ると腕をつかんだ。
「兄上……兄上が……どうして?」
「ルシッカ王子。王子! ルシッカ、聞け! ここから出るんだ! ここは危険だ! 早く逃げろ!」
呆然と立ち尽くしているルシッカの耳元で、ペルナは大きく叫び、その勢いのまま近くの兵士に託した。
ルシッカは蒼白の顔で小刻みに震えながら、兵士に引きずられていく――その背中に向けて、黒装束の者が剣を放った。
振り返りざま、ペルナは反射的に剣を振り上げる。響く鉄の音。放たれた剣の切っ先は軌道を変えて壁に突き刺さった。
王子が王座の間を後にしたことを確認してから、ペルナは再び黒装束の者に体ごと顔を向ける。決して短くない距離を、二人の視線がかち合う。
次の瞬間、その距離を埋めるようにして、武器を構えた大量の敵が音もなく現れた。そして、一斉に襲いかかってくる。
「何だと!?」
いつのまに!? ペルナは驚きに目を見開いた。
途端に、金属がぶつかる音、叫び声――王座の間は大混乱に陥った。
その頃、同じように玄関ホールでも激しい戦闘が行われている。
騎士団は混乱しながらも必死に戦っているが、敵の数が圧倒的で防戦一方だ。
ペルナが率いる第一騎士隊の副隊長を勤めるグレイプは、玄関ホールで剣と魔法で応戦しながら、兵士たちに指示を出す。
ただし、指示は冷静で的確だが、それを兵士たちは実行できなくなりつつある。数が減らない敵と消耗するだけの自分たちの体力に、困惑と動揺で足並みが乱れ始めてきていた。
「まずいな」
グレイプは苦々しく呟くと、王座の間がある方角へと目を向ける。少し前に聞いた報告では、そちらでも激しい戦闘が行われているということだった。こちらに応援が来ないということは、同じように苦戦していると察した。
王座の間は、依然として激しい戦闘が続いている。
次々と倒れていく味方を足元に、ペルナは目に入る汗もそのままに剣を振るっている。援軍は来ない。減らない敵に、完全な消耗戦。もはや、次の動きさえも考えられない。感覚のみで動いている。
だからこそ、視野が少し狭まっていたのだろう。背中に何かがぶつかった衝撃で、前のめりに姿勢が傾いた。
「何だ……っ!」
振り返れば、敵に押し飛ばされた味方だった。そして、今まさに敵が大斧を振り下ろさんとしている。その者共々、叩き潰そうということだろう。
「嘘だろ!?」
ペルナは態勢を戻そうとするが、床に転がる遺体に足を取られて僅かに動きが遅れた。
「ペルナ様――!」
そう聞こえたかと思うと、今度は衝撃と共に体が横に傾いた。その勢いのまま、押し飛ばされて床に倒れこむ。
「だ、大丈夫ですか!?」
騎士見習いのマノだった。クルクルのパーマ頭が、いつも以上に汗でクルクルとしている。玄関ホールから全力で駆けてきたせいで、息も切れ切れだ。
「悪い。助かった」
大斧を床に叩きつけた敵が、こちらを向く前にペルナは起き上がり、すぐさま相手の腹に剣を突き刺した。
それから、マノを背中に守るようにして立つ。
「あ、あの! グレイプ様からの……で、伝言です」
マノは憧れの相手からの感謝に舞い上がりそうになる感情を抑えて、託された通りの言葉を伝える。
玄関ホールの状況。敵の正体は不明。そして、救援は期待するなということ。それらを一気に口にした。
「戻れるか?」
ペルナは少しずつ扉の方へと移動しながら言う。
「はい。大丈夫です! 廊下に敵はほとんどいませんでしたから」
「そうか。じゃあ、死ぬなとだけ伝えてくれ。それと、お前は――」
「ボクは逃げませんからね!?」
「あ、ああ……そうだな。わかってる。グレイプを助けてやってくれ。こっちは、俺が何とかする」
マノに先を越されて、ペルナは苦笑いを目元に見せた。見習い騎士を死なせたくないと思ったが、見習いにも騎士道はあるのだろう。だから、それを尊重する。
「行け!」
視界の端に扉が見えたところで、ペルナはマノの背中を押した。
「はい!」
マノは頷き、弾かれるようにして駆け出した。
その背中が王座の間を出たところで、ペルナは扉を背に再び激しい戦闘と対峙する。
しかし、ふと今のやり取りの中に違和感を覚えた。ただ、それが何に対してなのかまではわからない。やがて、頭は剣を振るうことだけに集中する。
マノは、王座の間を出て全力で廊下を走る。
うん? 今、何か? 途中で何かとすれ違った気がした。黒い影のような風がヒュッと自分の横をすり抜けたように感じて、自分が走ってきた廊下を振り返る。
しかし、そこには何もない。廊下の先、王座の間から激しい戦いの音が聞こえてくるだけだ。
さらに、マノは完全に足を止めた。今まで必死すぎて気づかなかったが、そこには誰もない。王座の間と玄関ホールからは激しい戦いの音がするのに、廊下そのものは静寂の空間が延びている。
「ペルナ!」
再び自分を呼ぶ声に、振るう剣を止めることなく、ペルナは目だけを向けた。
「これは魔術だ」
そう聞こえたかと思えば、自分の横を一頭の黒い狼が走り抜けていった。それをそのまま目で追いかける。
「助かった」
思わず、ペルナは呟きを漏らした。そして、今一度、剣を握る手に力を込める。
狼は、敵味方の騒乱の中をまっすぐに駆け抜け、たった一人の標的とする敵の喉元に噛みついた。
不意をつかれた敵は悲鳴を上げてひっくり返った。自分に覆いかぶさり、喉に食らいつく狼の腕に短剣を突き刺す。しかし、狼は怯むどころか、鋭い牙をより深くに食い込ませる。やがて、敵の体から力が抜け、動かなくなった。
それと同時、ペルナは敵に向かってなぎ払ったはずの剣が空を切り、その勢いで前につんのめった。
どういうことだ? 目の前の状況に理解が追いつかない。
たった今まで戦っていた敵たちが忽然と姿を消した。
突然、静まり返った戦場に、それまで奮闘していた兵士たちも戸惑う。その反面、助かったとも思う。
「どうなってんだ……一体?」
ペルナは荒い呼吸に肩を上下させる。だが、すぐにハッとして玉座に顔を向けた。
玉座の横、最初に見た時と同じ位置に、黒装束の者は立っている。そして、自分に向けられた視線を受け止めると、愉快そうに唇の端を持ち上げた。
ペルナと狼は同時に走り出す。しかし、その剣も牙も届くことはなかった。二人の目の前、黒装束の者は霧散するように姿を消した。
王座の間は、静寂というには苦しいほどの重い沈黙が広がっている。
その場に残ったのは、国王と王妃の遺体。敵に打ち破られた味方の亡骸。そして、喉を噛みちぎられた敵の死体だけだった。
「大丈夫か!」
ややあって、玄関ホールで戦っていた騎士、グレイプが駆け込んできた。一瞬だけ、目の前に広がる惨状に足が止まりかけたが、そのまま歩みを進める。
「そんな……まさか」
だが、さすがに国王と王妃の変わり果てた姿には言葉をなくした。普段の感情の薄いクールな表情は、そこにはない。悲しみとも、落胆とも呼べるような暗い光が瞳に揺れている。
「すまない……間に合わなかった」
うなだれるペルナの横顔を見れば、グレイプは頷くしかない。
「暴れてた敵たちは魔術だった。こっちにも魔術師が一人いた。うまくまぎれていたが、実際は戦ってないから見つけさえすれば、どうということはなかった」
「つまり……実際は、たった三人にやられたってことか?」
グレイプの話を聞きながら、ペルナは辺りを見回す。
広い室内、最初にいたはずの兵士の半分くらいが倒れている。その中に敵の死体は一体だけ。あまりにもやるせない。
「ところで、団長と副団長は?」
ふと、グレイプが気づいたように言った。玄関ホールには姿がなかったから、こちらにいるのだろうと思っていた。
「そっちにいたんじゃないのか? あ、王子の警護で……って言っても、二人が揃って一緒にいるってことはないよな?」
ペルナは眉間にしわを寄せる。嫌な予感に胸がざわめき始める。
すぐさま、その胸騒ぎは現実のものとなった。
「ペルナ様! グレイプ様! 大変です!」
騎士見習いの声が王座の間に大きく響いた。
報告を受けて、ペルナとグレイプは騎士団寮へと駆け込んだ。
今となっては城内中が大騒ぎだが、その場所も混乱に騒然としていた。特に、騎士団長の部屋の前の人だかりは異様な雰囲気に包まれている。
「通してくれ!」
ペルナは、人だかりをかきわけて部屋の中へと入った。その後ろをグレイプも続く。
そして、二人は部屋の中の光景を見て固まった。
広い室内のベッドの上、騎士団の団長が昆虫標本のように剣が刺さった状態で倒れている。
「私が来た時には……もう。王座の間にも、玄関ホールにも姿が見えなかったから様子を見に来たら、すでにこうだった。運よく、犯人と鉢合わせしたんだが……惜しくも取り逃がしてしまった。すまない」
その傍らに立つ、副団長であるヴェシメロニは、ただでさえ深い眉間のしわをさらに深くしている。ただ取り逃がしたわけではないだろう。室内は荒れている。激しい戦いがあったことが――わかる。
そのような話を聞いても、ペルナとグレイプは何も言えない。言葉が出ないまま、ただ立ち尽くすだけだ。
しかし、この時、二人は違和感を見逃していた。
何もかもがめちゃくちゃな部屋の中、ベッドだけが乱れていない。倒れている騎士団長は背中から刺されている。倒れ込んだとしたら、少しくらいは羊毛の毛布やリネンのシーツが乱れていても良さそうなものだ。それなのに、整えられたベッドの上に飾られるかのようにして横たわっている。
その違和感は決して際立つものではないかもしれない。それでも、この場で見逃したのは後の痛手となるだろう。
もっとも、それも仕方がない。城が襲撃を受け、国王と王妃が暗殺された。そして、騎士団長と多くの兵士を失った――その事実の全てを受け止めるには、少しばかり時間が足りないのかもしれない。
その一方で、悪い話ばかりではない。王位継承者であるルシッカは無事だった。それは大いなる救いである。
窓の外、遠くの空で雷鳴が低く唸っている。
窓に映る自分たちの姿と遠雷を見つめながら、ペルナは奥歯を噛みしめて、腹の底から湧き上がる悔しさと虚しさを堪える。
暗殺された国王の父親、先代の国王に騎士にしてもらった恩がある。その時に約束した。王を守り、民を守り、国を守ると誓った。それなのに恩を返すどころか、約束を守れなかった。それが悔しくてたまらない。
「やるべきことがある」
グレイプは、今にも暴れだしそうな空気をまとっているペルナの肩に手を置いた。
もちろん、グレイプだって同じ気持ちだ。しかし、ここで怒りや嘆きに時間を費やしている暇はないと言う。そう誰かが言わなければならなかった。
政治的な陰謀なのか、何か他の目的があるのか、敵の正体すらもわからない。何もかもがわからない状態だ。
千年祭の日――平和な日常は、一瞬で消え去った。
そして、永遠の平和。世界の均衡は、犠牲によって正されようとしている。




