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03.ナノマシン

「え……ミール? あなたもアノマリー科なの? もしかして先輩とか」

「ああ、そういうふうに思ってるんだね、リオは」


 ミールは手にしていたマグカップと書類を机に置き、軽く手をかざした。ラックの上から白衣がふわりと浮かび、彼の肩へと落ちる。それに腕を通し、長めの袖を少し捲って腰に手を当てリオの方を見た。胸元には「Mir(ミール)」と「Professor(教授)」の文字が刻まれていた。


「見ての通り。僕がセラン工科大学アノマリー科の教授だよ」

「え……先生?」


 本当に? どうしよう……ラフに接しすぎたけど大丈夫かな。それに教授も超能力者なんだ。


「ミールでいいよ。先生なんて堅苦しいし。バス停前の君と同じでいい」

「恥ずかしいので思い出させないでください…」


 緊張してるリオの気をほぐすため、フランクに接してくれているのだろう。


 リオは超能力でミールの感情を読み取り、彼女が自分に好意的で気を遣ってくれていることをおぼろげに感じとった。


「さっそくだけど、今年のアノマリー科の新入生は君だけだからガイダンスを始めちゃうね。その辺の空いてるところに座っていいよ」


 ミールが先ほどと同じように手を振ると、リオのすぐそばへキャスター付きの椅子と小さめの机が静かに移動してきた。


 すごい……同時に複数の物を動かしてる。自分なら集中してもできないのに。


 その内心を見透かしたようにミールが微笑む。


「リオも訓練すれば、これくらいできるようになるよ」

「心を読んだんですか?」

「読まなくても顔に出てるよ。それに超能力で読心なんてできないよ、知ってるでしょ?」


 自分で思っているよりポーカーフェイスができていないらしい。


 それから一時間ほど大学の説明が続いた。特にアノマリー科は、他の学科とまったく異なる制度であった。


「単位制度は存在せず、修士や博士課程もない」

「他学科への編入は認められない」

「最初の半年間は毎日研究室への訪問義務があり、その日の課題をこなすことが絶対条件」


 ――などなど。

 他にも細かい決まりが山ほどあった。気が滅入りそうだが、やれないことはない。それに進級試験もないらしく、真面目に通えば卒業できそうだ。試験なしにセラン工科大学卒業の箔が付くのはかなりお得であった。


「あと、今からこのナノマシン注入器を使ってね」


 ミールは当然のように白く濁った液体の入った注入器を差し出してきた。


「え、今ですか? 私、あんまりナノマシンを保有しないようにしてるんですけど……」


 やんわり断ろうとするリオにミールは屈託のない笑顔で言う。


「安心して。これは非売品のアノマリー科専用モデル。官民問わず、これより優れたナノマシンなんてほとんど存在しないよ。副作用もほぼないし、君のナノマシンは地球製の数世代前のものだよね? 旧世代の排除・引き継ぎ機能もあるから問題なし」


 顔を覗き込むように説明され、リオは理屈よりもその美貌の圧に押されそうになる。だが、ナノマシン投与とは本来もっと慎重に扱うべきものだ。副作用はもちろん、体内の保有許容量を超えれば最悪命に関わる。それをこんな軽さで勧めるなんて――月では当たり前なのだろうか。


「リオ、ちゃんと大学の招待状と同意書は読んだよね? 入学時の指定ナノマシン注入義務に署名してるはずだよ?」


 正直言えばリオには覚えがなかった。理由は単純である。書類が多すぎたのだ。しかもこの時代にしては珍しくすべて紙媒体。彼女は奨学金と学費免除の項目ばかりに目を通し、細かい条項は読み飛ばしていた。


「政府専用リニアの一両貸切、寮の滞在費と清掃整備費、リオ専用のVTタイプ・マシナリー、チャーターされた最高級タクシー……このナノマシンを断ると、その全部が自己負担になるけど大丈夫?」


 天使のような容姿で、悪魔のようなことを言う。辞退の余地などなく、リオは注入器を受けとるしかなかった。自分の迂闊さを棚に上げつつも、リオは覚悟を決めた。


 ミールの言葉が本当なら、これは正規ルートでも手に入らない最上級の「Eモデル」かもしれない。百万ディエムでも買えない――いや、お金では買えない代物だ。そう思えばやる価値はある。


「針の刺し方は地球製と同じだよ。太ももの外側に勢いよくね。内側は太い血管があるから気をつけて」

「わかってる――!」


 リオは覚悟を決め、ショートパンツの裾を少し上げると、勢いよく注入器を大腿部の外側へ突き立てた。瞬間、消毒ジェルが広がり無痛針が走る。ナノマシンが体内へ流れ込んでいく。視界の端で、古いナノマシンのデータが新しいものへ書き換えられていった。


 全身を駆け巡る熱と痛みに思わず呼吸が乱れる。五分ほど悶絶したあと、リオは激しく咳き込んだ。


「排出が始まったね。はい、バケツ」


 ミールが素早く差し出す。リオは急いで顔を突っ込み、咳き込んだ。鼻や口から白い粘液が溢れるように漏れ出ていく。古いナノマシンが体液に包まれ排出されていた。無事新しいナノマシンとの入れ替えが完了したようだ。


「見ないでよ……」

「気にしないで。みんなこうなるから」


 ミールは淡々と、リオの体液を含んだバケツを丁寧に処理し始めた。


 体液が混じったものを嫌な顔ひとつせず片づけてる……嫌悪の感情もまったく伝わってこない。生徒が可愛くて仕方ないタイプ? ――あ、まだ出る……。


 再びバケツに放出する。羞恥と申し訳なさに包まれながらも、ミールは終始優しく対応をしてくれた。化粧室を借りて身なりを整え研究室に戻ると、バケツも含めて部屋はすっかり片づいていた。


「これで君も正式にアノマリー科の一員。この研究室もフリーパスだよ。――さあ、大学探検に行こうか?」


 差し出された手をリオはつい掴んでしまう。そのままふたりは並んで研究室をあとにした。


――――――――――――――――――――


 ミールに手を引かれ研究棟を出ると、リオはさすがに気恥ずかしくなって手を離した。それでもつかず離れず歩きながらキャンパスを案内されていた。


 思ったより普通の大学だ。綺麗で広いけど、連邦の大学と大きな違いは感じない。


 月の都市セランは天上の世界だと思っていた。とりわけセラン工科大学はその頂点の存在だと。けれど目の前に広がる風景は驚くほど普通であった。


 敷地内を進むにつれ、すれ違う学生たちがさりげなく距離をとっていく。


 ミールを見ると皆が避けるように離れていく……? やっぱり、あの容姿は月でも別格なんだ。


 リオはそう悟りながら彼の隣を歩き続けた。


 大学中心部――公園の広がるエリアに差し掛かったとき、空気を震わせる轟音が頭上を切り裂いた。見上げると、自由連邦では軍用に使われているガンシップが市内の低空を飛んでいった。


「ミール、あれって?」

「SPDの強襲用ガンシップだね。イーサ地区で銃乱射事件があったみたい」


 軽く言うけど、大事件じゃないの? というか警察がガンシップって……


 訝しげな表情のリオにミールはまた顔を覗き込んだ。研究室のときと同じ距離で。わざと照れさせているとしか思えない。


「セランは地球の小国家くらいの広さがあるからね。どこかで何かは起きてるよ」

「……か、顔、近いです」


 慣れない。近づかれるとどうしても調子が狂う。今の自分、絶対ダサい。


 月の治安よりも、ミールとの距離の近さのほうがよほど今は問題であった。


「あっちが食堂とか飲食店のエリアね。ちょっとお手洗い行ってくるよ」

「わかりました。ここで待ってます」

「ふふっ、もっとフランクでいいよ」


 リオは照明用のポールに近づき、背を預けた。ふとミールの方を見ると、男子トイレの方に入っていく。


「……え?」

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