23.Case Emily 06
リオは埃と血のついたスーツのまま自室の扉を開けた。そこにはいつものようにVTが待っていた。
「ただいま……」
「お帰りなさいませ、リオ様。ミール様より事情は承っております。まずはお風呂で体を清めましょう」
VTにも話は伝わっているんだ……。
何も言わずリオは服を脱ぎ、風呂場へ向かった。脱いだ服はVTがきれいに整えてくれた。湯船にはちょうど良い温かさのお湯が張られている。
シャワーを頭から被り、血や埃を洗い流した。ホテルで見た血まみれの遺体が頭をよぎるが、吐き気はない。精神も思ったほど揺さぶられなかった。
体内のナノマシンが優秀に働き、肉体だけでなく精神面も調整してくれていた。瞬間的な恐怖や地獄のような光景を、心の傷とならないようにコントロールしているのだろう。ホルモン調整様様だ。
鼻まで浸かるくらいにお湯に浸かる。ぼんやりする頭の中で考えはまとまらず、時間の感覚も曖昧だった。数分が数十分にも感じられ、やがて風呂から上がった。
体を拭き終え、VTが整えた化粧台からスキンケア用品を取り肌を整える。あんな事件の直後でもルーチンはこなせるものだ。
下着の上にオーバーサイズのシャツを着てテーブルに向かった。甘いジュースを一口飲むが続かない。椅子の上で脚を抱え込み、じっと座り込んでいた。
これでいいのかな。
自分にできることは何もない。帰ってくるまでに散々思い知ったことだった。アンジェとのインターンから、気づけば「国家規模の争い」にまで話は広がっている。超能力があってもただの学生の身分では関われない。
会ったばかりのエミリーは友達だと言ってくれたのに。死の危険に晒されているのに……。
そのとき、リオにメッセージが届いた。視界に浮かんだテキストを読む。
『しばらく実習も研究室も休みだから好きに過ごして。危ないことはしないように』
ミールからのメッセージだ。それを読んでより心が沈んだ。
自分は安全な場所にいる。ミールもアンジェも、これからエミリーを助けるために動くのは明らかなのに。
「OSI」――それが何かは知らない。ただ会話の中で、ゴーストと同じ特別な組織であることは推測できた。
ミールたちはOSIという組織に本当は所属している。アンジェも特別補佐官すら仮の姿で、このOSIがたぶん本命の組織……。
だが、わかったところでどうすればいいのかは見えない。思考の袋小路だった。
「ミールは私のこと全部知ってるのに。私には何も教えてくれない……」
最初に口から出たのは不満だった。子供のような、仲間外れにされたことへの愚痴だ。エミリーへの心配よりも、自分本位な思いが心を満たしていることに、恥ずかしさと罪悪感があった。
膝に顔を伏せ、左腕のブルーゴールドのブレスレットを撫でながらため息を吐く。
しばらくリオはシャツ一枚のまま、椅子にうずくまり続けていた。VTが静かに近づき、いつもの様に落ち着いた声で促す。
「リオ様、そのままでは風邪を引きます。ぜひ寝巻きを――」
「……大丈夫だよ。体温ぐらい勝手に調整されるし」
返す言葉には棘があり、自分でも意図しないほど荒れていた。いつもなら感謝できる気配りも、今は神経をひっかくように煩わしかった。
部屋はしばらく無音に。家電の駆動音だけが微かに響いていた。
――――――――――
「仲間外れにされて拗ねてるのかい、リオ?」
背後から聞き覚えのない口調の言葉が降ってきた。体が反射的に跳ね振り返る。
「誰……?」
そこにいるのはいつも通りの「VT」。だが、違う。雰囲気が決定的に。何よりも――
瞳が、緑に発光していた。
通信時に瞬く淡い光とはまるで違う。虹彩全体が均一に染まり、薄暗い室内で浮かび上がっていた。
「VT……? その目……」
「ああ、外部干渉の出力が強いと、こういう現象が起きるんだ。私は特にね」
「外部……干渉? つまり、誰かがVTを乗っ取ってるの?」
明らかにいつものVTではなかった。相手の言ってることが本当なら、今のVTは防壁を突破されて操られている。並みの相手じゃそんなことできない。
セラン製の最高級マシナリーを遠隔ハック……そんなのできるの、ウィザード級か……もしかして――
「私が何者なのか、今一生懸命考えてるところかな? おおかた君の予想通りだよ。セラン技術を注ぎ込んだVTシリーズをハックなんて現実的じゃない。となれば?」
「……あなたは政府関係者。それもかなり上の。このタイミングで私を知ってて、直接接触してくるレベルの……」
「ちゃんと頭は回ってるね。さっきまで塞ぎ込んでたとは思えないくらいに」
疲労しているはずなのに、リオの電脳は澄んでいた。セランに来てからの様々な経験が、彼女の思考力を格段に鍛えていた。
「目的は何? 私をずっと監視してたってこと?」
「常に監視なんてしていないよ。これでも私は忙しいんだ。普段の君の保護はVTがやっている。異常がなければ私に知らせも来ないよ」
「じゃあ、どうして今は?」
……相手の意図が読めない。テロの件で政府が私から何か得ようとしてる? でも、私に何を求めてるの?
思考が追いつかない。情報があまりにも足りない。
「怪しいのは自覚している。だが、私は敵意があって来たわけじゃない。信じてもらえないかい?」
「名前も素性もわからない相手をどう信じればいいの? 自己紹介からでしょ」
「確かに。一理あるね」
VTの体は片手を胸に当て、名乗り始めた。
「私はセラン最高評議会議長。さまざまな名で呼ばれるが、知っているものには『月の女王』と揶揄されている。表の名前は……『エメス』と名乗ることが多いかな」
リオは目を見開いた。背中に冷たいものが走る。
月面都市セランの「統治者」。誰も知らないセランという都市国家の「最高指導者」。都市そのものといってもいい存在。
その人物が今、マシナリー越しとはいえ目の前にいた。想像以上の大物だった。
「エメス……? うちの大学の理事長も確か同じ名前だったような……偶然?」
「大学の理事長の名前を覚えてるなんて感心するよ」
「特待生の書類に毎回署名があったから……」
「なら続けて驚かせてしまうけど、偶然ではない。セラン工科大学の理事長も私が兼ねている」
どんどん知らない事実が発覚していく。
突如自身の周りの環境全てが、歪なものに感じられた。大学と政府地下施設。アノマリー科と秘密の組織。そして学園そのものが政府直轄どころか、最高指導者自身が支配している。宇宙一の大学のブランドなんてどうでも良くなってくる。
私は何に関わっているの……?
リオはしばし唖然としていた。




