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月でつくる未来につき、  作者: 中本すい
エミリー編
23/27

23.Case Emily 06

 リオは埃と血のついたスーツのまま自室の扉を開けた。そこにはいつものようにVT(ヴィーティー)が待っていた。


「ただいま……」

「お帰りなさいませ、リオ様。ミール様より事情は承っております。まずはお風呂で体を清めましょう」


 VT(ヴィーティー)にも話は伝わっているんだ……。


 何も言わずリオは服を脱ぎ、風呂場へ向かった。脱いだ服はVT(ヴィーティー)がきれいに整えてくれた。湯船にはちょうど良い温かさのお湯が張られている。


 シャワーを頭から被り、血や埃を洗い流した。ホテルで見た血まみれの遺体が頭をよぎるが、吐き気はない。精神も思ったほど揺さぶられなかった。


 体内のナノマシンが優秀に働き、肉体だけでなく精神面も調整してくれていた。瞬間的な恐怖や地獄のような光景を、心の傷とならないようにコントロールしているのだろう。ホルモン調整様様(さまさま)だ。


 鼻まで浸かるくらいにお湯に浸かる。ぼんやりする頭の中で考えはまとまらず、時間の感覚も曖昧だった。数分が数十分にも感じられ、やがて風呂から上がった。


 体を拭き終え、VT(ヴィーティー)が整えた化粧台からスキンケア用品を取り肌を整える。あんな事件の直後でもルーチンはこなせるものだ。


 下着の上にオーバーサイズのシャツを着てテーブルに向かった。甘いジュースを一口飲むが続かない。椅子の上で脚を抱え込み、じっと座り込んでいた。


 これでいいのかな。


 自分にできることは何もない。帰ってくるまでに散々思い知ったことだった。アンジェとのインターンから、気づけば「国家規模の争い」にまで話は広がっている。超能力があってもただの学生の身分では関われない。


 会ったばかりのエミリーは友達だと言ってくれたのに。死の危険に晒されているのに……。


 そのとき、リオにメッセージが届いた。視界に浮かんだテキストを読む。


『しばらく実習も研究室も休みだから好きに過ごして。危ないことはしないように』


 ミールからのメッセージだ。それを読んでより心が沈んだ。


 自分は安全な場所にいる。ミールもアンジェも、これからエミリーを助けるために動くのは明らかなのに。


 「OSI」――それが何かは知らない。ただ会話の中で、ゴーストと同じ特別な組織であることは推測できた。


 ミールたちはOSIという組織に本当は所属している。アンジェも特別補佐官すら仮の姿で、このOSIがたぶん本命の組織……。


 だが、わかったところでどうすればいいのかは見えない。思考の袋小路だった。


「ミールは私のこと全部知ってるのに。私には何も教えてくれない……」


 最初に口から出たのは不満だった。子供のような、仲間外れにされたことへの愚痴だ。エミリーへの心配よりも、自分本位な思いが心を満たしていることに、恥ずかしさと罪悪感があった。


 膝に顔を伏せ、左腕のブルーゴールドのブレスレットを撫でながらため息を吐く。


 しばらくリオはシャツ一枚のまま、椅子にうずくまり続けていた。VT(ヴィーティー)が静かに近づき、いつもの様に落ち着いた声で促す。


「リオ様、そのままでは風邪を引きます。ぜひ寝巻きを――」

「……大丈夫だよ。体温ぐらい勝手に調整されるし」


 返す言葉には棘があり、自分でも意図しないほど荒れていた。いつもなら感謝できる気配りも、今は神経をひっかくように(わずら)わしかった。


 部屋はしばらく無音に。家電の駆動音だけが微かに響いていた。


――――――――――


「仲間外れにされて拗ねてるのかい、リオ?」


 背後から聞き覚えのない口調の言葉が降ってきた。体が反射的に跳ね振り返る。


「誰……?」


 そこにいるのはいつも通りの「VT(ヴィーティー)」。だが、違う。雰囲気が決定的に。何よりも――

 

 瞳が、緑に発光していた。


 通信時に瞬く淡い光とはまるで違う。虹彩全体が均一に染まり、薄暗い室内で浮かび上がっていた。


VT(ヴィーティー)……? その目……」

「ああ、外部干渉の出力が強いと、こういう現象が起きるんだ。私は特にね」

「外部……干渉? つまり、誰かがVT(ヴィーティー)を乗っ取ってるの?」


 明らかにいつものVT(ヴィーティー)ではなかった。相手の言ってることが本当なら、今のVT(ヴィーティー)は防壁を突破されて操られている。並みの相手じゃそんなことできない。


 セラン製の最高級マシナリーを遠隔ハック……そんなのできるの、ウィザード級か……もしかして――


「私が何者なのか、今一生懸命考えてるところかな? おおかた君の予想通りだよ。セラン技術を注ぎ込んだVTシリーズをハックなんて現実的じゃない。となれば?」

「……あなたは政府関係者。それもかなり上の。このタイミングで私を知ってて、直接接触してくるレベルの……」

「ちゃんと頭は回ってるね。さっきまで塞ぎ込んでたとは思えないくらいに」


 疲労しているはずなのに、リオの電脳は澄んでいた。セランに来てからの様々な経験が、彼女の思考力を格段に鍛えていた。


「目的は何? 私をずっと監視してたってこと?」

「常に監視なんてしていないよ。これでも私は忙しいんだ。普段の君の保護はVT(ヴィーティー)がやっている。異常がなければ私に知らせも来ないよ」

「じゃあ、どうして今は?」


 ……相手の意図が読めない。テロの件で政府が私から何か得ようとしてる? でも、私に何を求めてるの?


 思考が追いつかない。情報があまりにも足りない。


「怪しいのは自覚している。だが、私は敵意があって来たわけじゃない。信じてもらえないかい?」

「名前も素性もわからない相手をどう信じればいいの? 自己紹介からでしょ」

「確かに。一理あるね」


 VT(ヴィーティー)の体は片手を胸に当て、名乗り始めた。


「私はセラン最高評議会議長。さまざまな名で呼ばれるが、知っているものには『月の女王』と揶揄されている。表の名前は……『エメス』と名乗ることが多いかな」


 リオは目を見開いた。背中に冷たいものが走る。


 月面都市セランの「統治者」。誰も知らないセランという都市国家の「最高指導者」。都市そのものといってもいい存在。


 その人物が今、マシナリー越しとはいえ目の前にいた。想像以上の大物だった。


「エメス……? うちの大学の理事長も確か同じ名前だったような……偶然?」

「大学の理事長の名前を覚えてるなんて感心するよ」

「特待生の書類に毎回署名があったから……」

「なら続けて驚かせてしまうけど、偶然ではない。セラン工科大学の理事長も私が兼ねている」


 どんどん知らない事実が発覚していく。


 突如自身の周りの環境全てが、(いびつ)なものに感じられた。大学と政府地下施設。アノマリー科と秘密の組織。そして学園そのものが政府直轄どころか、最高指導者自身が支配している。宇宙一の大学のブランドなんてどうでも良くなってくる。


 私は何に関わっているの……?


 リオはしばし唖然としていた。

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