17.幼生のおわり
月に来て二年目になる頃、リオはもう守られるだけの存在ではなくなっていた。日々の訓練の成果で、彼女にはそれなり以上の自衛力が身についていた。
今では多少の銃撃戦に巻き込まれても動けるし、超能力による限定的な反撃も可能だとマクシィから太鼓判を押されていた。事実、銃撃が止んだ瞬間に駆け抜けながら、人型ボットの武装や手足を念動力で圧壊させ、戦闘力を奪うこともできた。
走り込みの距離も三十キロに伸び、シャイアンでトレーニングする他の走者たちを周回遅れにするほどだ。彼女の肢体は女性らしい柔らかさを保ちながらも、その下にしなやかで強靭な筋肉を宿しており、以前よりも引き締まって見えた。
マクシィのように銃弾を避けたり、ボットを完全に破壊するまではいかない。だが入学前の彼女と比べれば、心身ともに見違えるほど成長していた。
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「今日で私の訓練は完全に終了だ」
いつものように訓練を終えた直後、マクシィは唐突にそう言った。
「え、そうなの? 次は別の訓練ってこと?」
「違う。私がリオの担当から完全に離れるという意味だ」
「え?」
もはや日常とまではいかなくても、毎週の恒例となっていた訓練がなくなる――その事実にリオは少なからず驚きを覚えた。
「急だね」
「本当はもう少し丁寧に終わりを告げたかった。だが自由連邦軍として正式な異動が決まった。明日にはセランを出発する」
「そっか……じゃあ、遠くに行っちゃうの?」
寂しいと言われれば少しは寂しい。けれどそれ以上に、あまりにもいつも通りの口調で別れを告げられたことに、胸の奥が落ち着かなかった。
「そうでもないさ。駐在武官から月軌道艦隊の艦に戻るだけだ。新型『HAF』のテストパイロットになる」
「マクシィってパイロットだったんだ。やっぱりエリートだ」
「AFなんて、大した訓練を積まなくても操縦できる。HAFもそう変わらん。スターファイターとは違ってな」
「Heavy-Armed Frame」――人体の延長線上に設計されたその兵器は、素人のリオにも他とは違う、どこか特別な存在に感じられた。
「私は工事現場の民間用AFしか見たことないし。HAFって聞くだけで、なんか現実味がないよ」
「わからんでもない。民間人が目にすることは滅多にないからな」
「じゃあ、マクシィとは当分会えない感じ?」
師匠とも言い切れず、友人とも違う。先輩後輩というには距離がありすぎて、それでも他人とは呼べない。そんな言語化しにくい関係だった。だからこそ別れには奇妙な感慨があった。
「そうだな。将来リオがセラン政府所属になれば、自然と顔を合わせることもあるだろう」
「進路の一つとしては考えてるよ」
「頼もしいことだ。――育てた相手を撃たずに済むなら……それが一番いい」
軽い冗談のように聞こえたが、彼なら本気でそう言いそうだった。リオは苦笑しながら数か月の訓練の日々を思い返した。
「異動の前にアンジェにも会ってあげてよ」
「もちろんだ。同期だからな、顔くらいは見ておく」
「同期だから? 他の想いはないの?」
リオは少しからかうように尋ねた。
「いや、特にはないな」
「つまんない」
本当に未練がなさそうにマクシィは淡々と答えた。それが彼らしいとも思えた。銃声が止んだ訓練場の静けさだけがふたりの間に残った。
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アノマリー科の研究室にて、リオはミールとのんびり過ごしていた。やはりここが彼女にとって最も落ち着く場所だった。
唐突に終わった今日の訓練を思い出す。超能力でボットの腕をひしゃげさせたが、ボットそのものはまだ動いていた。その記憶がひとつの疑問を呼び起こした。
「超能力だけじゃなくて、銃とかも扱えるようにしたほうがいいのかな……」
そんな彼女の呟きにミールが反応した。
「毎週のように訓練させておいてなんだけど――その必要はないよ。あくまで身を守るための訓練だから。銃はどこまでいっても人を殺すための道具だからね」
確かに……それに自分も軍人になりたいわけじゃない。
「リオが自分で望まない限り銃器の訓練はしないよ」
「そっか。私も別に誰かを撃ちたいわけじゃないし」
「うん、でもね――」
ミールの声が少しだけいつもと違った。
「自分の命を守るときは別だよ。何をしても、どんな手を使っても生きて帰ってきてね?」
「……うん」
いつもは掴みどころのないミールにしては、真剣で感情がこもった言葉。その瞳が少し揺れているように見えた。彼がそれだけ心配してくれているのかとリオは思った。
「帰ってきて」か……意識して言っているのか。そんな言葉一つで、こちらが一喜一憂してるのを理解しているのだろうか。
でも確かに分かることがある――ミールは私が死ぬことを恐れている。
危険な訓練をさせてでも、生き延びる力をリオに持たせようとしていた。死を避けるために危険なことをさせる。その矛盾は彼を苦しめているように見えた。冷静そうに見えて、リオが怪我をするたびにいつも感情が波立っていた。
ミールは後ろを向いたまま作業の手を止めずに言った。
「リオには辛いことをさせてるね」
「正直、最初はとんでもない目に遭わされてると思ったけど……いろんな経験できて今は楽しいよ。出来ることも増えてきたし」
「そうだね。最初は泣いてた君が、今じゃ銃弾飛び交う中を走り回ってるんだから」
「あんな目に遭わされて泣かない方がおかしいでしょ」
リオは笑って言い、後ろの席に座るミールの背中に頭をぶつけるようにのけ反った。
「君は猫みたいだからね。自由に出歩いて危ない目に遭っても、どうにかなるようにしたかったんだ。リオ……君が心配なんだよ」
「それはわかってるけど……」
「本当に?」
「え?」
振り向いたミールがリオの顔を両手で柔らかく掴む。鼻先が触れそうな距離。星空がリオの瞳を覗き込んだ。
「僕がどれだけ君を心配しているのか――本当にわかっているのかい?」
抑揚の少ない声。好きな顔なのに、今はほんの少しだけ怖かった。彼の金糸のような髪がリオの頬にかかる。
やがてミールは手を離し距離を取った。
「ごめんね。でも、君のために僕はできる限りのことをするよ……じゃあ、用があるから。部屋は開けっぱなしでいいからね」
そう言って白衣ではなくコートを羽織り、ミールは研究室を出て行った。
少し怖かった。なんで……
「……違うか」
怖かったのは容貌や雰囲気ではない。あの瞬間、彼の心の奥の感情が見えたからだ。いつもは隠されているそこにあったのは、灰色――寒さと痛みが入り混じった、感じたことのない心の色。
ほんの一瞬、隙間から吹き出したそれがリオの胸を貫いた。心にあんなものを溜め込んで、なぜ普通でいられるのか彼女には理解できなかった。
「私、ミールのこと……何も知らないんだ」
去り際に見えた彼の瞳は感情が昂ったせいか、星空がいつもより強く輝いていた。




