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五話

 学校に行くのが楽しみ、と思ったのは今日が初めてだ。通学路が、宝石がちりばめられているみたいにキラキラと輝いて見える。

 いつもと同じ時間に家を出たはずなのに、普段より五分早く学校に着いた。自然と早足になっていたようだ。

 登校してきた人がまだ少なくて、教室はテスト中のように静かだった。

 藍は左隣の空席をちらりと見る。瑞樹の席は、差し込む朝日に照らされていた。

 早く来ないかな。黒板上の時計に目をやった。七時四十分。瑞樹が来るのは、八時十分頃。まだ三十分もある。もうしばらく待つしかない。

 ドアが開くたびに、藍は視線をそちらにやった。まだ来るはずのない瑞樹の影を求めて。

 八時前になると、みなみが登校してきた。みなみは自席に鞄を置くと、藍の元に来た。

「みなみ、おはよう」

「おはよう」

 と、みなみは藍の前の席に腰を下ろした。

「ほんといいなぁ。この席」

 新しい席がそうとう不満なのだろう。まだ席のことで文句を言っている。

 みなみは瑞樹の席に視線をやった。

「早く来ないかなって、思ってるでしょ?」

「うん」

 藍が口を緩めながら答えると、みなみはくすくすと笑った。

 十分ほどみなみと話していると、

「おい、戸塚(とつか)、邪魔」

 背後から男子の声がした。藍は振り返る。前の席の、長谷部(はせべ)(わたる)だった。長谷部は不機嫌そうな半目で、みなみを見ていた。

「ごめーん」

 みなみは椅子から腰を上げると、時計を見た。そして、自席に戻った。長谷部は空いた席についた。

 藍は時計を見る。八時八分だった。もうすぐ瑞樹が来る時間だ。教室のドアに視線を向けて、瑞樹が来るのを待つ。

 刻々と時は進み、八時十二分になったが、瑞樹はまだ来ていない。朝自習開始時刻の八時十五分までに教室にいなければ、遅刻になってしまう。

 今日は欠席なのかな? 藍が思っていると、息を切らした瑞樹が教室に飛び込んできた。

 瑞樹は席につくやいなや、鞄の中からペットボトルを取りだして、ごくごくと喉を鳴らす。たった一口で、内容量の半分を体に流し込んだ。

「はぁー」

 瑞樹は息を吐きながら、水で濡れた唇を拭う。

「瑞樹、ぎりぎりだったな」

 航が振り返る。

「寝坊した。俺、皆勤賞目指してるから、危なかった」

 瑞樹が赤く火照った顔を下敷きで扇いでいると、チャイムが鳴った。

 ドアが開き、宮下が教室に入ってくると、航は前を向いた。

 宮下は室内を見回す。欠席者がいないことを確認すると、教室から出ていった。

 今から二十分間の朝自習が始まる。提出するべき課題をしたり、読書をしたり何をするかは自由。中には眠っている人もいて、かなり緩い。部活動をしていて、帰宅が遅い人はこの時間に必死に課題を終わらせている。部活動をしていない藍は、課題を家で終わらせている。だから、朝自習はその日にある小テストの勉強か、読書をしている。

 三年四組の生徒は、推薦入試、指定校推薦で受験する人、もしくは就職する人がほとんどだ。だから、内申点と評定平均が大事になってくる。定期テストの点数、授業態度、課題の提出が内申点に大きく影響する。特に、三年一学期までの成績が重要だ。

 二十分の朝自習が終わった。朝のショートホームルームのあと、五分もせずに一限目の授業が始まった。

 今日の一限目は古文。

 古文の担当は、三年一組の担任、長野〈ながの〉だ。定年目前のお爺ちゃん先生で、怒ることがほとんどない、優しく穏やかな先生だ。自分の本当のお爺ちゃんのように、気さくに話しかける人も多い。

 一限目でうとうとしている人が多い中、長野のスローなしゃべり方と、古文の小難しい文章が子守歌となって、生徒を眠りへと誘う。

 長野は、授業中に寝ている生徒を起こすことはしない。寝ている方が悪いという考えで、テストに出す重要なことも、寝ている人が多いときに言う。そのため、古文の平均点は悪い。

 藍の前の席の航は、授業開始から十分は起きていたが、今は下を向いたまま動かなくなっている。おそらく、夢の中にいる。藍の見える範囲の半分くらいの人が寝ている。教卓の前のみなみも、うとうとと舟を漕いでいる。

「この動詞の活用は、中間テストに出しますので、覚えておきましょう」

 長野は動詞の活用表の隣に、赤いチョークで大きな丸印をつけた。藍も自分のノートに赤い丸印を書く。

「いつものことですけど、眠っている人が多いですねぇ」

 長野は教室内を見渡すと、呆れたような表情を見せた。だが、生徒を起こさない。淡々と授業を進める。

 眠っていた生徒を起こしたのは、授業の終わりを告げるチャイムだった。電源を入れられたロボットのように、皆目を覚ます。

「起立、礼」

「ありがとうございました」

 授業が終わり、日直の生徒が黒板を消そうとすると、

「まだ消さないで」

 と、声が上がった。

「あー、眠」

 航は欠伸をしながら、振り返った。

「なあ、瑞樹、さっきの授業起きてたか?」

「寝てた」

 瑞樹は目をこすりながら答えた。

「お前も寝てたのかよ。どこまで起きてた?」

「多分、最初の十分くらい」

「俺と一緒くらいかよ」

 航は小さく肩を落とすと、視線を瑞樹から藍に滑らせた。

「歌川さんは、もちろん最初から最後まで起きてたよね?」

「うん」

 藍が頷くと、

「さっきの古文のノート、見せて下さい!」

 航は顔の前で手を合わせて懇願した。

「いいけど」

「航、せこっ」

 そう言ったのは瑞樹だった。藍は瑞樹のほうを向く。

「歌川さん、俺にもノート見せて下さい」

 瑞樹も航と同じ格好を藍に見せた。

「いいよ」

「ありがとう」

 瑞樹が微笑んだ。藍の胸はキュンと跳ねる。会話の内容は何であれ、瑞樹と話せたのだ。隣の席って、最高だ。

「俺が先だからな」

「はいはい、分かってる」

 藍が航にノートを手渡そうとすると、航の背後から小さな手が伸びてきた。ノートが藍の手から離れる。

「私も写す」

 犯人はみなみだった。

「おい、戸塚、俺が先にノート写させて、って頼んだんだぞ」

「その次は俺」

 瑞樹は人差し指で自分の鼻をさす。

「お前は瑞樹の次。早くノート返せ」

 航が手を出し、ノートをよこすように催促したが、みなみは無視した。みなみは航の机の上に藍のノートを広げると、床に膝をついた。そして、写し始めた。

「一緒に写せばいいじゃん。早くしないと、二限目始まるよ?」

航は鼻からふんっ、と息を吐き、自分のノートを広げた。瑞樹は椅子を航の席によせ、写し始めた。

「おい、まだめくるな」

「長谷部、写すの遅い。早くしてよ」

 みなみはめくったページを前に戻した。みなみのほうが、書くスピードが速いようだ。

「もうめくっていい?」

「まだ」

 航がシャーペンを動かしながら言うと、みなみはため息をついた。

「ていうかさぁ、長谷部は藍じゃなくて、他の人にノート借りればいいじゃん」

「俺の友だちで、古文なんか真面目に聞いてるやついねえもん」

「だからって、藍から借りる必要ないじゃん」

「前後の席なんだから、歌川さんに借りたっていいだろ」

 航は口を動かすと手が止まる。だから、なかなか写し終わらない。

「俺、あとでいい」

そんな航を見て、瑞樹は自分のノートをパタンと閉じた。そして、藍を見た。

「歌川さん、またあとでノート見せて」

「うん」

 藍が言うと、

「ありがとう」

 瑞樹は笑いかけた。藍は胸が高鳴り、頬が熱くなるのを感じた。この笑顔、ずっと見ていられる。

 嬉しい時間を裂くように、チャイムが鳴った。もう二限目が始まる。

「藍、ノート持っていくね」

「おい、返せ。持っていくな」

 みなみは航の声を無視し、ノートを自分の席に持っていってしまった。

 古文のノートが藍の元に戻ってきたのは、五限目の終わりだった。みなみは教卓の前で教員から見えにくいことを利用し、二限目のうちに写し終わった。航が昼休み、瑞樹が五限目の最中にこっそり写していた。

「歌川さん、ノートありがとう。きれいにまとめられてて、分かりやすかった。あと、字が綺麗だね」

「そうかな。ありがとう」

 字が綺麗。藍は幾度となく言われた言葉だ。けれど、今まで言われた中で、瑞樹から言われたことが一番嬉しかった。ついにやけてしまう。

 これからもノートを見せることがあるかもしれないから、もっと丁寧に書こう。藍は心に決め、六限目の授業のノートを取った。


 毎日置物に願わずとも、瑞樹と話すことは容易だった。

 居眠りで聞いていなかった授業の話、英語の授業で英文の読み合い、漢字の小テストの採点。一日に何度でも話すことができる。友人とするような楽しい会話でない事務的な話でも、藍にとっては満足だった。

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