三話
翌日。藍が教室のドアを開けると、教室の中にいたクラスメイトの視線がこちらに向いた。
挨拶をするのではなく、誰が入ってくるのか確認する目だった。相手から挨拶されなかったので、藍は無言で教室に入った。
窓際の特等席に着く。鞄の中の教科書とノートを机の中に入れ終わると、頬杖をついて窓の外を眺めた。
薄雲がかかる空に飛行機が飛んでいた。どこに行くんだろう。目で追ったが、ほどなくして見えなくなった。視線を空から街に下げる。
藍の目は行儀良く並んでいる民家の屋根ではなく、ぽっかりと空いた黄土色の空間をとらえた。フリーマーケットが開催されていた公園だ。
あそこであれを買ったんだよね。遊具のないグラウンドだけの公園を眺めたままでいると、
「瑞樹、おはよう」
と、男子の声が耳に入った。藍の視線は『瑞樹』、と声がした方に向く。
身長約一七五センチの痩せ形。サッカーに励む彼の肌は小麦色に焼けている。
「おはよう」
歯を見せて笑う彼が眩しい。制汗剤のコマーシャルに出演できそうなくらい爽やかだ、と藍は思っている。
見とれていると、瑞樹の後ろから小さな影が教室に入ってきた。みなみだった。みなみは何か言いたげな顔をして、こちらに近づいてきた。
「藍、おはよう」
「おはよう」
みなみは藍の耳元に顔を寄せる。
「顔、にやけてるよ」
と、茶化すように言った。
「えっ」
藍は、自分がどんな顔をして瑞樹を見ているか分からなかった。とっさに口元を隠す。
チャイムが鳴った。みなみはぷぷっ、と笑いながら自分の席に向かった。
「藍、チラ見しすぎ」
みなみから言われ、藍は瑞樹から視線をそらす。休み時間の度に、瑞樹の方をチラチラと見てしまう。何をしているか、誰とどんな顔をして話しているのか、どうしても気になってしまう。見てはいけない、と頭で分かっていても、心が彼を求めている。
「そんなに見てると、気持ち悪がられるよ」
と、みなみは横目で瑞樹を見た。
「話しかけてみれば?」
「いい。話すことないし」
藍がぽつりと言うと、みなみは眉尻を下げた。
話しかけたい、と藍だって思っている。けれど、共通の話題がなくて何を話せばいいのか分からない。女子とも話しているみたいだけど、どんな話をしているのかな? 藍は考えてはみるが、全く見当もつかないのだ。
午前中の授業が終わり、昼休みになった。教室は友人と語らう声と弁当の匂いで満ちている。
「五限目、数学とか最悪。嫌いだし、ご飯の後で眠いし」
みなみが文句を言いながら、ミートボールを頬張った。藍は一年生の頃からずっと、みなみと机を向かい合わせて弁当を食べている。
藍が冷凍スパゲッティをつつきながら、みなみの話を聞いていると、
「歌川さんだよね」
と、声をかけられた。
藍が横を見ると、瑞樹が立っていた。突然の出来事に、瑞樹の顔を直視することができない。食べかけの弁当を見ながら、
「はい、何ですか?」
と、しか言えなかった。
「田北先生が昼休みの間に職員室に来てほしいって」
瑞樹はそう言うと、こちらに背を向けて教室を出ていった。
藍とみなみは顔を合わせ、目をぱちくりとさせる。
「話しかけられた……」
「よかったね」
「うん」
返した声は、嬉しさのあまり声になっていなかった。
藍は弁当を食べ終わると、すぐに職員室に向かった。
春休みの課題はちゃんと提出したのに、何だろう? いくら考えても、田北から呼ばれた理由がさっぱり分からなかった。
「失礼します」
職員室のドアを開け、中を覗く。田北は自席でパソコンを操作していた。藍は職員室に入り、恐る恐る田北に近づく。
「田北先生」
「おー、歌川」
こちらを向いた田北から、負の感情を感じなかった。ますます呼ばれた理由が分からない。考えあぐねていると、田北から現代文の教科書を差し出された。
「これ、お前が去年なくしたって言っていた教科書だ」
藍は教科書を受け取り、ひっくり返す。裏面に『二年三組 歌川藍』と書いてあった。誰にも貸していないのに、神隠しのようにいつの間にか消えたこの教科書。
「ありがとうございます」
現代文担当の田北が誤って持って帰っていたのだろう、と思ったが、
「どこにあったんですか?」
発見場所を知りたくて訊いてみる。
「図書室の本棚の中にあったらしいぞ」
「図書室ですか?」
想定外の場所だった。藍は入学直後の校内散策以来、図書室に行っていない。
「図書室で勉強したときに、間違って入れたんじゃないか?」
「いえ……」
「でもよかったじゃないか。見つかって」
「そうですね。ありがとうございました」
藍は田北に一礼して、職員室をあとにした。
どうして自分が行っていない場所に、教科書があったんだろう。不思議な出来事に首を傾げる。
教室に戻ると、
「田北の呼び出し、何だったの?」
みなみから問われた。
「去年なくした教科書があったんだって」
「今さら?」
みなみは目を瞬かせた。
「うん」
「実は田北が間違って持って帰ってたから、すまなかったとか?」
「いいや。図書室の本棚の中に入ってたんだって」
「えー、何で? 図書室なんて行かないのにね。意味分からない」
と、みなみも首を傾げた。
「私にも分からない」
「もうこの教科書使わないのにね。二年生のうちに見つかってれば、新しいの買わないですんだのにね」
六月に行方不明になった教科書。一週間経っても見つからず、藍は仕方なく新しいものを購入した。
真相が分からないまま、藍はもう使うことがない二年生の現代文の教科書を、鞄の中に仕舞った。
その日の夜、藍はベッドに寝転がったまま、学習机の上の置物を見つめた。月明かりに照らされた置物はつやつやと光っていて、昼間よりも妖しく見える。その姿は、本当にすごい力を持っているのではないか、と思ってしまう。
たまたまなのかもしれないけど、矢野くんと話せますように、という願いが今日も叶った。次は何を願おうかな。そんなことを考えながら、藍はゆっくりと瞼を閉じ、眠りについた。




