二十三話
三月一日、今日は卒業式当日だ。三年四組の教室の黒板には、『卒業おめでとう』と、チョークでカラフルに書かれている。
昨日は卒業式の予行練習で登校日だったけれど、宮下は姿を見せなかった。
先生は元気になったのかな? 藍が自席で頬杖をつきながら、宮下のことを考えていると、ドアが開いた。
先生かな?
反射的にドアに目をやる。立っていたのは大久保だった。大久保はいつもの無地のスーツではなく、上等そうなストライプ柄のスーツを着ている。左胸には卒業生たちと同じ、ピンク色の花のコサージュがついている。
「出席番号順に整列」
全員が廊下に並び、体育館に向かって歩いていく。視線の先には、数多の後頭部が並んでいる。
体育館のドアが開いたのか、吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。卒業式が始まるんだ、と実感する。
全員の入場が終わり、パイプ椅子に座ると、吹奏楽部の演奏がぴたりと止まった。管楽器の音色で華やかだった体育館は粛然となる。
開式の言葉が終わった。藍は教員席を横目で見る。けれど宮下の姿はない。私の願い、叶わなかったんだ。藍は教員たちから視線を外し、顔を前に向けた。
卒業証書授与、学校長挨拶、送辞、答辞、来賓紹介。プログラムは滞りなく進み、卒業式は閉式した。藍は途中、何度か教員席を見たが、やはり宮下の姿を確認することはできなかった。
最後のホームルームを行うため、卒業生は教室に戻った。三年四組の生徒は泣いている人もいれば、笑っている人もいる。藍は泣きも笑いもせず、無に近い。
息つく暇もなく、大久保が教室に入ってきて教壇に立った。最後のホームルームが始まった。
「卒業おめでとう。この三年間は充実したものになったか? 私は最初、副担任という立場でこのクラスを見ていたが、正直、クラスのことが全く分かっていなかった。授業中の私語や生活態度にはがっかりさせられた。だが最後のほうは、受験生の自覚をもって過ごせていたと思う。これからは皆、それぞれの道に進む。社会人、学生になっても自分らしく頑張るように」
大久保は話を締めると、ドアをちらりと見た。
「最後にお前たちに会いたいという人が来ている」
大久保がドアを開けると、教室はざわめいた。一滴も出なかった涙が、藍の目から溢れ出した。宮下先生、来てくれた……。
宮下はゆっくりと教室に入ってきて、教壇に立った。痩せたままだったが、いくらか血色はよくなっている。中途半端に伸びていた髪も散髪して、綺麗に整えられていた。
宮下の肩はわずかに震えている。けれど顔は笑っていた。生徒の前では明るい宮下として、振る舞うようだ。
「卒業おめでとうございます。体育館の後ろのほうで見ていました。私は最後まであなたたちを見守ることができませんでしたが、今日、あなたたちの晴れ姿を見ることができて、本当に嬉しかったです。これからは悔いのないように、自分の人生を生きてください。本当に卒業おめでとう」
宮下がお辞儀をすると、教室内から割れんばかりの拍手が巻き起こった。藍も掌が真っ赤になるほどの拍手を送った。
次は宮下から一人一人に卒業証書が手渡された。
「歌川藍」
「はい」
藍は宮下と向かい合う。夢じゃない。本当に来てくれた。また涙が出そうになる。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
あの日くっきりと浮いていた手の筋は、わずかに隠れていた。
宮下は全員に卒業証書を渡し終わると、
「これで最後のホームルームを終わります。皆、元気に頑張ってね」
休職前と同じ満面の笑みを見せた。
ホームルームの後、撮影会を行った。教卓をどけ、宮下を真ん中にする。宮下の両隣は争奪戦で、陽気な女子が勝ち取っていた。藍は二列目の端で写真に写った。
集合写真撮影後は、個別での撮影会が始まった。みなみと帰る予定の藍は、母親に帰ってもらった。思う存分、学校に残れる。
「藍、宮下先生と三人で写真撮ろうよ」
「うん」
みなみと一緒に、宮下と撮影するための列に並ぶ。男女合わせて、十人ほど並んでいた。さくさくと進み、思いの外早く順番が回ってきた。
「先生! 次は私たちです!」
みなみがスマホの内カメラを向けて、写真を撮った。自撮りに慣れていない藍は、ぎこちない笑顔だ。
撮影が終わり、その場を離れようとすると、
「藍、待って」
宮下から呼び止められた。
「ほこりがついてる」
宮下から肩をはたかれると同時に、
「十二時になったら、特別教室棟に来て」
耳打ちされた。
「先生、早く~」
順番を待っていたクラスメイトが、藍と宮下の間に割り込んだ。邪魔にならないように、三歩横に移動する。
「さっき撮った写真、後で送るね」
「うん」
「私、撮りたい人がいるから、ちょっと他のクラスに行ってくる」
みなみは教室から出ていった。
藍は黒板上の時計に目をやる。十一時半だった。宮下との約束までに、やっておきたいことがある。
教室の中を見ると、用がある人物の姿があった。
「矢野くん、ちょっといい?」
「えっ、俺?」
「うん」
困惑顔の瑞樹は航と顔を見合わせる。
「行ってこいよ」
航が促し、瑞樹がこちらに寄ってきた。藍は瑞樹を廊下に連れだし、踊り場に行った。
「どうしたの?」
瑞樹は気まずいのか、視線を左右に揺らし、筒状の証書ホルダーをぎゅっと握った。
「私も矢野くんに謝ろうと思ってた。ごめんなさい」
瑞樹は目を瞬かせ、口をぽかんと開ける。
「えっ、何で? 俺、歌川さんに何もされてないけど?」
「いや、気にしないで。じゃあ、元気でね」
藍は瑞樹に背を向け、階段を駆け下りた。
三年七組。藍は初めてこの教室の前に来た。教室のドアを開け、泥棒のように中を覗き見する。目的の人物を見つけ、教室の中に入った。
梨々花は相変わらず、甘ったるい声を響かせながら、友人と自撮りをしていた。
「高須さん」
彼女の背中に声をかける。
梨々花はこちらを向いた。薄らと化粧をしているようだ。睫毛はくるりと上を向いていて、瞼はキラキラと光っている。唇もほのかにピンク色だ。
「歌川さん、何?」
梨々花の顔が強ばる。強ばった顔も可愛らしさがあった。好意がなくても、この顔に守ってと言われたら、従ってしまいそうだ。
「ちょっといい?」
梨々花は友人と目配せした。友人は無言のまま、藍に向かって顎をしゃくった。行ってきなよ、の合図だったようだ。
「いいよ」
と、梨々花は承諾した。
「行こう」
藍は梨々花も教室から連れ出した。廊下は人が多い。渡り廊下に向かう。
「高須さんに言いたいことがある」
「何?」
言いたいことがある、と言われて怖じ気づいたのだろうか。梨々花は藍から目を反らす。
「ごめんね」
「えっ?」
唐突に謝られた梨々花も、瑞樹と同じ反応だった。
「それだけだから」
藍は逃げるように梨々花の前から立ち去る。
やっておきたかったこと。瑞樹と梨々花への謝罪だ。二人の不幸を願ってしまったことを、どうしても謝りたかった。けれど置物のことは絶対に話さない。意味の分からないことを言っていると思われるに違いないから。あの二人は、謝られた理由を知ることはないけど、それでいい。とにかく謝りたかっただけ。言葉にしただけで、藍の心にあったしこりは、手術して取ったみたいに綺麗になくなった。
四組の教室に戻って時計を見る。約束の時間まで、まだ十五分以上あった。
藍はトイレに行って、宮下の元に向かった。
宮下はもう特別教室棟にいた。
「先生」
「藍」
宮下からハグされた。痩せて骨張っている体から、春の日差しのような心地のいい温もりが伝わってくる。
「お母さんから聞いたよ。私に元気になってほしい、って言ってくれたって。ありがとう」
ハグが強くなる。密着すると宮下の腰骨が当たった。彼女の痩せ具合を感じた、藍は心苦しくなった。
「先生、私、謝りたいことがあるんです」
「何?」
「先生が体調を崩したのは、私のせいなんです。私が担任は宮下先生がいい、なんて願ったから先生は……」
宮下は藍から離れた。
「違う、藍のせいじゃない」
と、宮下は首を横に振った。
「私が先生に向いてなかっただけだから」
「違います。私が、先生のお母さんが持っている象の置物に願ったから……」
「違うから」
宮下の声は、芯があり真っ直ぐだった。
「お母さんも『あの置物はすごい力を秘めている』って言ってるけど、あんなのに願ったところで、願いなんか叶うわけないよ」
「でも私は何度も叶いました」
「藍があの置物に願って叶った、って思ってることは、本当に運がよかっただけか、藍の努力で手に入れたことなんじゃないの?」
クラス編成が希望通りになったこと。瑞樹と隣の席になれたこと。遊びだったけど瑞樹と付き合えたこと。考えてみれば、全て運がよかったと思える。
指定校推薦で合格できたこと。合格は、藍が面接練習に励み、努力が実を結んだからだ。自分自身でつかみ取ったものに違いなかった。
「置物の影響じゃない。運のよさと努力の結果。自分に自信を持ちなよ」
面接練習の最終日、宮下から褒められたことを思い出す。そうだ、私、頑張ったんだ。だから合格できたんだ。
「……はい」
自信満々にはなれない。でもちょっとだけ、自信を持とうと思えた。
「よろしい」
宮下は親指を立てて笑った。今日一番の笑顔だった。
宮下は親指を引っ込めると、腕時計を見た。そのままの手でジャケットのポケットを探り、白い紙を取り出すとそれを藍に手渡した。
「これ、私の携帯の番号と住所。私、あの家にしばらくいるから、大学が夏休みになったら遊びにおいで。待ってるから」
「はい」
藍は白い紙を胸の前で握りしめる。嬉しくてつい力が入る。
「でも、その前に離任式で会うか」
「離任式、絶対に行きます」
「ありがとう。私、このあと用事があるからじゃあね」
宮下は右手を振るとジャケットを翻して、渡り廊下に向かって歩いて行った。藍はその背中を見つめる。弱っていても、生徒の前では気丈に振る舞う、強くて優しい先生。彼女のことが大好きだ。
宮下の姿が完全に見えなくなった。藍は紙をブレザーのポッケに入れて、教室に戻った。
「どこ行ってたの?」
みなみは藍の席で、写真ホルダーを眺めていた。どのくらい待っていたのだろうか。わずかに頬が膨れている。
「ごめん。トイレ」
宮下と二人きりで話していたなんて言えない。すでに膨れている頬が、ハリセンボンのように丸くしてしまうことが、藍には容易に想像できた。
「そうなんだ」
納得したのか、みなみは頬をしぼめた。
「撮りたい人と一緒に写真撮れた?」
「撮れたよ」
みなみが写真ホルダーを見せびらかしてくる。一年生のときに同じクラスだった人、同じ中学校出身者で撮影した集合写真、利光とのツーショットもあった。
「いっぱい撮ってるね」
「うん。満足」
「それなら……」
帰ろうか。二人の声が重なった。
廊下や階段では、まだ撮影会が続いていた。校舎から出ると、撮影している人はいなかった。
制服を着て通学路を歩くのは今日が最後。記念に一緒に帰ろう、とみなみが提案した。
「宮下先生、最後に来てくれて嬉しかった」
「そうだね」
「先生が教室に入ってきた瞬間、泣いちゃった」
「私も。式中は全然泣けなかったのに、先生の姿見たら涙出てきた」
「ちょっと痩せてたけど、笑顔は全く変わってなかったね」
「うん」
「やっぱり先生のこと、大好きだなって思った」
「私も」
藍は頭がくらりとするほど力強く頷いた。
高校生活最後の下校は、三年間の思い出を話した。修学旅行、体育祭、文化祭。十五分では話しきれなかった。
分かれ道、笑っていたみなみの顔がキリリと引き締まった。
「三年間、ありがとう。藍と親友になれてよかった」
突然の礼に、藍は面映ゆくなる。
「えっ、どうしたの?」
違う中学出身の藍とみなみ。一年のとき、同じ中学の出身者が八組におらず一人でいた藍に、みなみから話しかけてきた。みなみも八組に同じ中学の出身者がいなかったという。一人ぼっち同士、一緒にいるようになって、今では親友と呼べる仲になった。
「思ったことを言っただけ」
「私もみなみと親友になれてよかった、って思ってるよ」
「よかった。思ってるの私だけかと思ってた」
みなみは歯をにっと見せて笑った。中学生のように幼い顔は、十八歳に見えない。
高校生活最後の下校が終わるから、思っていても言いにくいことを言って別れようと思っただろうに、二人はその場から動かなかった。何かを話すわけではない。ただ一緒に通学路に立っているだけ。
二人の間を風が吹き抜けた。冬の寒さは和らいだけれど、風が吹くと肌寒い。
「風が吹くと寒いね。帰ろうか」
みなみが鼻をすすった。
「うん」
二人は顔を見合わせる。互いに照れが隠せていない。
「じゃあね、藍」
「じゃあね」
先に背を向けたのはみなみだった。小さな背中が遠ざかっていく。
藍もみなみに背を向ける。風の力を借りて、自宅へと歩みを進めた。




