二十二話
第三志望校の合格発表翌日、藍は結果を報告するため、高校に行った。
職員室に向かい、お世話になった先生たちを探す。まず見つけたのは、利光だった。
「先生、おはようございます」
「あら、おはよう。結果、どうだった?」
「第一志望と第二志望はだめでした。第三志望に合格したので、そこに進学します」
「そうなのね……」
一瞬、利光の表情が曇った。けれどすぐに柔和な顔を見せる。
「お疲れ様でした。希望通りの進路にならなくて残念だけど、大学はゴールじゃないからそこは忘れないでね。これからもあなたらしく頑張るのよ」
「はい。ありがとうございました」
今年丘ノ上高校に赴任してきた利光。授業中は、私語と居眠りしている生徒がいないか目を光らせていた。課題の提出が遅れれば、理由を説明させていた。藍の彼女への印象は『厳しい先生』だ。けれど今は違う。受け持ちの生徒じゃない自分にまで気をかけてくれる『優しい先生』だ。
藍は次に田北を見つけた。利光と同じように報告する。
「そうか。おめでとう。大学でもしっかり頑張れよ」
田北はにこやかに笑った。その笑顔は、三年間の中で一番優しい顔だった。
あとは大久保だが、職員室に姿が見えない。
「あの、今日大久保先生はいないんですか?」
田北に訊く。
「確か出張のはずだ。電話しようか?」
「はい。お願いします」
田北はもたつく手でスマホを操作し、電話をかけた。
「大久保先生、お疲れ様です。田北です。今、お時間いいですか? 歌川が先生に報告したいことがあるそうです」
ほら、と田北がスマホを手渡してきた。
「もしもし、歌川です」
『もしもし、大久保だ。報告とは何だ?』
電話越しの声はいらついていた。
「全ての大学の入試結果が出ました。第三志望の大学に合格したので、そこに進学することにしました」
『そうか。おめでとう。今、忙しいんだ。もう切るぞ』
大久保はそっけなく言った。そして、あっちから電話を切った。
「ありがとうございました」
藍は田北にスマホを返した。お世話になった三人への報告が終わり、学校を出た。
今日は晴天で、二月中旬にしては気温が高い。散歩をするのにちょうどいい。家に帰ってもやることのない藍は、自宅とは反対の方向に歩みを進めた。
三年間、通ったけれどこっち側には来たことがない。ちょっとした冒険みたいでわくわくする。
パン屋でもないかな? 藍はキョロキョロしながら歩くが、こっち側も何の変哲のない住宅街だった。
特に何もないし、もう家に帰ろう。藍はスマホの地図アプリを開いた。来た道に引き返すのではなく、今いる場所から自宅に帰れる道を探して歩き出した。
歩けども街並みはさほど変わらない。視線の先には住宅が建ち並んでいる。
十分ほど歩いていると、洋館風の家が目に入った。青い屋根は周りの家よりも高く、外壁は少量のツタが這っている。西洋が舞台の絵本の中から飛び出してきたみたいだった。
道路に面した大きな出窓も目を引いた。カーテンが閉められておらず、家の中が丸見えだった。
他人の家をじっと見るのは悪いと思いつつも、出窓に目がいってしまう。
窓際には、動物の置物がこちらに背を向けて並べられていた。ぱっと見で二十個以上はある。
藍はある一つの置物を見て、背筋がぞくっとした。脇から冷や汗も出てくる。
捨てたはずのあの象の置物が目の前にあった。
どうして? 捨てたはずなのに。『この世からなくなりますように』。そう願って捨てた。でもよくよく考えたら、代償が思いつかない。願いは叶わなかったのだと、察する。
ゴミとして収集はされた。何かの手違いでこの世からなくならなかったとしても、この家の中にある理由が分からなかった。
藍は人目も憚らず、窓の向こうの置物を凝視していると、
「お嬢さん、他人の家を覗くなんてとってもいい趣味ね」
しゃがれた声が耳に入った。
しまったと思ったけれど、もう遅かった。
恐る恐る振り返る。背後に魔女と呼ばれる女性が、にやついた顔をして立っていた。その姿は、以前会ったときと何一つ変わっていない。
「すみません」
藍はその場を走り去ろうとしたけれど、腕を掴まれた。
「久しぶりに会ったんだから、少しお話しましょうよ」
「結構です」
「まあ、そう言わずに」
抵抗する間もなく、藍は家の中に連れ込まれた。
外観の通り、家の中も洋館のような造りだった。家の中は改装しているのか、古さは感じられず綺麗だった。
女性は廊下の電気をつけた。電球が消えかけなのか、光が弱々しい。
「こっちよ」
チョコレート色の廊下を進み、ある一室に通された。藍は一歩部屋に入って、立ち止まる。そこは窓の外から覗いたあの部屋だった。外から見るよりも多くの置物が部屋の中にあり、壁も怪しげな面などで埋め尽くされている。異様な空間に入り込めないでいると、
「さあ、そこのソファに座って」
女性から促された。藍は部屋の中に入り、茶色基調のパッチワーク柄のソファに腰を下ろした。まだ新しいのだろうか、張りのあるソファは固かった。
「今、紅茶を入れるから待ってて」
と、女性はダイニングキッチンに向かった。
飾られているものが自分のことを見ているみたいで、藍は落ち着かない。肩をすくめて、ローテーブルの中央を凝視する。
三分ほどで女性が戻ってきた。お盆に載っているティーカップから湯気が揺れている。
「どうぞ」
藍の目の前にティーカップが置かれた。市販の紅茶では嗅いだことのない、独特な匂いが鼻をつく。苦手な匂いに眉をひそめる。
「この紅茶、私がブレンドしたの。美味しいから飲んでみて」
女性は鼻にティーカップを近づけ、香りを吸い込んだ。至福そうな顔をすると、口をつけた。
何が入っているか分からないから飲みたくない。藍はティーカップに口をつけて飲んだふりをする。
「どう?」
「おいしいです」
「よかった。そう、そう。朝、焼いたクッキーもあるのよ。食べる?」
クッキーも何が入っているか分からないから、絶対に食べたくない。
「結構です」
「あら、そう?」
と、女性は再び紅茶を口に含んだ。骨と皮ばかりの喉を鳴らすと、ティーカップを置いた。
「さっき、この家の中を覗いていたけれど、何か面白いものでもあった?」
いやらしい笑いを向けてきた。
「……」
「あの置物のことでしょ?」
女性は顎をしゃくって、藍が捨てた象の置物を示す。藍が何を見ていたのか、お見通しのようだ。
「……私はあの置物を、あなたと会った日に可燃ゴミの袋に入れて、次の日に捨てました。それがどうしてここにあるんですか? もしかしてあの日、私の家までつけてきて、ゴミ出し場を確認して、次の日に私の家が出したゴミ袋をあさったんですか?」
「ハッハッア」
呪いの薬を完成させて喜ぶ魔女のような笑い声だった。不気味な声に藍はびくりとする。
「そんなことするわけないじゃない。あなたと会った日はすぐに家に帰ったから、あなたがどこに住んでいるかなんて知らないわよ。それによその家のゴミをあさるなんてこと、私は絶対にしないわよ」
「ならどうしてあれがここにあるんですか?」
藍は窓辺で光を浴びる象の置物を指さす。
「降ってきたのよ」
「降ってきた?」
「そう。あなたと会った次の日の昼前に。ここに座って外を眺めていたら、何か物体が降ってきた。外に出て確認してみたら、その置物だったの」
女性は立ち上がると、窓辺にいって象の置物を手に取った。
「降ってきたあと、カラスの鳴き声が聞こえた。ゴミをあさったのは私じゃなくてカラスよ」
女性は戻ってくると、置物をローテーブルの上に置いた。
「カラスがたまたまあなたの家のゴミをあさって、この置物を咥えて飛んだ。そして私の家の前に落とした。私は本当に運がいい」
置物を見つめる女性の目は、愛しい人を見ているかのようにうっとりとしている。
本当に運がいいと思う。家は街に何千軒もあるのに、ピンポイントでこの家の前に落ちてきたのだから。
藍は十一月の公園でのことを思い出す。怖くなって手放した置物なのに、返せとせがんできた。断ると血相を変えて、掴みかかってきた。再び置物を手にした今、女性は何を叶えたいのか。
「公園で私に置物を返せって言ってきましたけど、そこまでして叶えたい願いって何ですか? あなたも代償を負って、取り返しのつかないことになったって。また悲劇を繰り返すおつもりですか?」
藍の質問に女性の目は虚ろになった。
「取り返しのつかないことになった。でもそれは私じゃない。夫なのよ」
怪しい風貌、フリーマーケットで売っていたこと、公園での話しぶりから、てっきり女性の身に起きたことだと思っていた。
「使ったのはあなたじゃないんですか?」
「ええ。私じゃない」
「ここにあるものは……」
「全部亡くなった夫のもの。公園で話したことは私の身に起こったことじゃなくて、夫の身に起こったこと。占いや幸運のグッズが好きだったのも、オークションで買ったのも私じゃない」
女性はソファから立つと、藍の背後にある棚に向かった。飾られている写真を手に取り、藍に見せた。
「夫と私。二年前の姿よ」
写真にはちょび髭を生やした恰幅のいい男性と、細身で目鼻立ちがはっきりとした美しい女性が写っていた。女性は丸っきり別人だ。本人だと主張されても信じがたい。
「顔だってこんなに張りがあったのに。一年半前に夫が亡くなってから、どんどん痩せこけちゃって今は見る影もない」
女性は哀愁を漂わせて、自分の頬をなぞった。写真立てを定位置に戻すと、ソファに戻った。
「私の叶えたい願いっていうのは、娘を元気にすること。毎日、何回も願っているのになかなか元気にならない」
昔の姿に戻りたい。私欲を願うのかと思っていたが想定外だった。
「娘さん、病気なんですね……」
「そう」
女性は深く頷いた。
「私の娘、教師なの。『教師は大変じゃないの?』って言ったんだけど、それでもやりたいって。それに、私たちも強くは反対できなかった」
ふーっと重いため息が聞こえた。
「今年なんか、『初めてクラスを持った。しかも三年生だ』って張り切ってたのに。最初のほうは何とか頑張ってたみたいなんだけど、日に日に顔色が悪くなって。今は休職してるの」
女性は瞬きもせず、置物をじっと見つめている。
「この置物なら、きっとあの子の病気を治してくれる。私はどうなってもいい。あの子には元気になってほしい。だからあの日、公園であなたに迫ってしまったの。怖かったでしょう? ごめんなさいね」
女性は目を閉じて深々と頭を下げた。垂れ下がった真っ黒の髪の中に、白髪が見える。
「いえ……」
部屋にしんみりとした空気が流れた。空気を読まず、藍のお腹は鳴りそうになる。壁にかかっている時計を見ると、十一時半になろうとしていた。
そろそろ、帰ります。口に出そうとしていると、近づいて来る足音が聞こえた。
「あら、凜ちゃん」
女性の娘とはどんな人か。振り返った藍の目は点になった。
「先生⁉」
部屋の入口に立っていたのは、すっかり痩せ細った宮下だった。休職してから三ヶ月余り。ほとんど外に出ていないのだろう。整えられていたショートヘアは中途半端に伸びてはねている。肌も血の気を感じられないほど白くなっていた。
宮下と目が合った。宮下は無言で下を向くと、生まれたての子鹿のように震え、どこかに行ってしまった。
「凜ちゃん!」
女性は勢いよく立ち上がり、宮下を追って部屋を飛び出した。
彼女の娘が宮下先生だなんて思いもしなかった。藍は、車にはねられたような衝撃を受けた。
三分ほどで女性が戻ってきた。
「ごめんなさいね」
と、言いながらソファに腰を下ろす。
「そういえばあなた、丘ノ上高校の生徒さんよね。凜ちゃんのこと、知ってるの?」
「はい。私のクラスの担任です」
「そうだったの……」
女性は数十秒黙ったあと、
「凜ちゃんはどんな先生だった?」
質問を投げかけてきた。
藍は元気だった頃の宮下の姿を思い出す。覚えている彼女の姿を口にする。
「太陽のようにとても明るかったです。それに不安なことがあったら相談して、って言ってくれる優しい先生でした」
「そう……」
つぶやいた女性の頬に一筋の涙が流れた。涙は顎先まで流れると、ローテーブルの上にぽたりと落ちた。
「凜ちゃん、やっぱり無理して明るく振る舞ってたのね。本来は、明るいとは無縁で、人前に立つのも苦手な大人しくてシャイな子なのに……」
女性の語る宮下の姿は、藍の知っている姿と正反対だった。生徒の前では明るく溌剌としていた彼女は、仮面をかぶった姿だったのだ。
「まだ訊きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
「はい」
「あなたたちのクラスって、荒れてるの?」
「荒れてはないと思います」
「そうなの? 注意してもうるさいままで、嫌になるって嘆いてたけど。他の先生に比べて若いからなめられてるのかな、って言ってたこともあったから」
朝自習、授業態度については注意を受けた。それは一度ではない。秋吉が怒鳴りにくるまでに複数回あった。何度注意しても言うことを聞かなかった三年四組。大人しくてシャイだという宮下にとっては、荒れたクラスに当てはまっていたようだ。
藍の頭に疑問が浮かぶ。
「あの、私からも質問いいですか?」
「どうぞ」
「本来は人前に立つことが苦手な先生は、どうして教師になったんですか?」
「高校生のとき、なかなかクラスになじめなかった凜ちゃんに、居場所を作ってくれた先生がいたの。自分もそういう先生になりたい、って言って、教師の道を選んだの」
藍は宮下の言動を考える。心配事がないか訊くのは、充実した学校生活を送らせるため。生徒のことを下の名前で呼ぶのは、本当に親しくなりたかったから。きっとそうだ。
「……お母さん、藍」
後ろから声がした。振り返ると部屋の入口に宮下がいた。
「先生……」
「凜ちゃん……」
宮下は部屋に入ってくると、母親の隣に腰を下ろした。うつむいていて、顔はよく見えない。真っ白な手の甲は、筋がくっきりと浮いている。
「藍、ごめんね。私、弱くてダメな先生で……」
泣いているのだろうか。か細い声はくぐもっている。
「ダメな先生なんて思ったことありません。宮下先生は、生徒の悩みや不調を気にかけてくれる優しい先生です。私はそんな先生のことが大好きです」
宮下は顔を覆い、鼻をすすった。
「ありがとう……」
丸まった背中を母親がさする。宮下は指で目を擦ると顔を上げた。赤くなった目は、涙で潤んでいる。
「私、今年度で先生、辞めるんだ。このこと、誰にも言わないでね」
「そうなんですか……」
「うん。でも、卒業式には行こうと思ってる」
卒業式も来ないと思っていた。宮下の口から『行こうと思ってる』、と聞けて嬉しかった。
「このことも誰にも言わないでね」
「はい」
藍が答えると、宮下は微笑んだ。その笑顔には、教壇上で笑う明るい宮下の面影があった。
宮下は音もさせずに立ち上がると、部屋から出ていった。藍と女性だけになった部屋は、水の中のように無音になった。
「あの……」
藍が静寂を破る。
「どうしたの?」
「私にも先生が元気になるように、置物に願わせてください」
膝に額がつくくらい、深く頭を下げた。卒業式に来てほしい、という思い。それと宮下への贖罪だった。自分が『担任は宮下先生がいい』と願わなければ、先生はうるさい三年四組ではなく、真面目な生徒が多いAコースの担任になったのではないか。自分が先生を休職させてしまった。だから元気になってほしい。償わせてほしい、と藍は思った。
「顔を上げて」
藍は女性の言葉に従う。
「気持ちは嬉しいけど、絶対にダメよ。あなただって、この置物の代償を知ってるでしょ? 未来ある若者を犠牲にするわけにはいかない。凜ちゃんの元気を願って犠牲になるのは、私一人で充分だから」
女性は首を横に振った。反対されても、諦めたくない。いや、諦められなかった。
「私も大好きな先生に元気になってほしいです。そして最後に先生と笑顔で卒業したいです。どうかお願いします」
藍は再び頭を下げる。願っていい、と言うまで頭を上げない。そう心に決めた。
三十秒ほどで、鼻から抜けるため息が聞こえた。
「分かったわ」
と、言われ、顔を上げる。
「あなたに代償がいかないように私が願うから」
と、女性はテーブル上の象の置物を、藍の前にスライドさせた。
「ありがとうございます」
藍は置物を前に、深呼吸をする。
『宮下先生が元気になって卒業式に来てくれますように』
置物の頭を撫でる。絶対に叶いますように、と何度も何度も。
「ありがとうございました」
藍は置物を女性の前に戻した。
「あなた、お名前は?」
「歌川藍です」
女性は置物を手に取った。
『歌川藍さんへの代償が、全て私にきますように』
女性は象の頭を撫で終わると、それをテーブルに置いた。
「これで大丈夫ね」
「……すみません」
「いえ、いいのよ」
女性は笑った。
「凜ちゃんのことを願ってくれてありがとう」
目の前にいるのは魔女ではない。他人の代償を背負おうとしてくれている心優しい婦人だった。
藍の腹の虫が盛大に鳴いた。宮下を見て、空腹など忘れていた。
「私、そろそろお邪魔します」
「連れ込んで悪かったわね」
「私こそ、他所のお宅を覗いたりしてすみませんでした」
「もう気にしないで。気をつけて帰るのよ」
「はい。お邪魔しました」
藍は女性に一礼して、宮下家を後にした。




