十九話
翌日、藍は学校に行った。
自席でじっとしていると、登校してきたみなみがリュックを背負ったまま、こちらに寄ってきた。
「おはよう。昨日、大丈夫だった?」
「うん。大丈夫」
「よかった」
みなみは安堵の表情を見せた。
「昨日の授業のノート、朝自習のときに写す?」
「写す」
「OK」
みなみはグッと親指を立てると、リュックの中からノートを取り出した。
「はい、これ」
「ありがとう」
ノートを受け取ると、チャイムが鳴った。教室のいたるところにいたクラスメイトたちが、自席につくために一斉に動き出す。みなみも自席に向かった。
大久保が教室に入ってきた。出席確認のあと、藍は大久保と目が合った。
「歌川、ちょっと来なさい」
藍は無言で立ち上がる。教室内からひしひしと視線を感じた。教室を出た大久保についていく。
暖房器具のない冷えた廊下を、大久保は足早に歩いて行く。置いていかれないよう、藍も足を速める。
二人は渡り廊下を通って、特別教室棟の生物室に入った。
「座りなさい」
指示され、藍はプラスチック製の丸椅子に腰を下ろした。椅子の冷たさが、スカート越しに伝わってくる。
大久保は鼻から息を吐くと、左手で頬杖をついた。顎を突き出し、見下したような瞳でこちらを見てくる。
「月曜日のお前の態度には、正直呆れた。電話の途中から何も話さなくなるし、五分以上経っても何も答えない。いったい何を考えているんだ」
怒りはとっくに通り越したのだろう。大久保の声は、もうお前のことなんかどうでもいい、という投げやりな感じだった。
「……すみません」
藍は縮こまって謝ることしかできなかった。
「はぁ……。進路はどうするんだ?」
「一般入試で、第一志望校を受験します」
「お前の志望校は、一般入試で入学するには難易度が高いぞ。はっきり言うが、Aコースでしっかり受験対策をしないと無理なレベルだ」
「分かっています。それでも、ダメ元でも受験します」
「合格できなかったらどうするんだ?」
「他の大学も受験して、合格できたところに行こうと思っています」
「ふーん。そうか」
大久保は頬杖をやめると机に腕を載せ、身を乗り出した。目線が同じになる。
「お前の志望校は、指定校推薦を受けたいと言ったやつが他にもいた。その中から先生たちは、お前が一番ふさわしい、と言って選んでくれたんだ。こんなことになるなら、お前じゃないやつが推薦を受ければよかったのに」
大久保は藍の心に矢を突き刺すと、生物室から出ていった。藍は刺さった矢の痛みで涙が出そうになったけれど、ぐっと堪える。
藍も寒い生物室を出て、教室に向かった。
教室の後ろ側のドアを、音がしないように開けようと試みたけれど無理だった。静かな教室にガラッと音がして、数人がこちらを見た。ドア横の席のクラスメイトと目が合って、すぐにそらす。藍は自席に急ぎ、みなみから借りたノートを写し始めた。
ノートを写し始めて五分も経たずにチャイムが鳴った。大久保が入ってくる。大久保は連絡事項だけを淡々と伝えると、もう教室から出ていった。
朝のショートホームルームが終わると、
「さっき、大久保に呼ばれてたけど、何かあったの?」
みなみがやってきて首を傾げた。
「いいや。そんなに重要な話じゃなかったよ。昨日、話そうと思ってたことがあったんだって」
「へー、そうなんだ」
みなみはどこかいぶかしげな顔をしたが、それ以上は何も訊いてこなかった。
三年四組は、もうほぼ全員が進路を確定さている。授業は受験のためではなく、教科書を一通り終わらせるために行われている。
昨日、頑張ると決意した藍だが、今後への不安は尽きない。二月の一般試験のこと。滑り止めの大学のこと。考えないといけないことがたくさんある。
「…川さん、歌川さん」
「はいっ」
利光の声にはっとする。考え事に気を取られ、授業を聞いていなかった。
「どうしたの? あなたらしくない」
「すみません」
「昨日、欠席だったし、まだ体調が悪いんじゃない? 保健室に行ったら?」
「いえ、大丈夫です」
「そう? それならこの英文の日本語訳を書いてみて」
利光は黒板の英文を棒で指し示した。
藍は黒板の前に行き、チョークを握った。答えは分かっているのに手が動いてくれない。ただ英文の前で震えるだけだった。
「やっぱり保健室に行きなさい。顔が青白いわよ」
「大丈夫です」
深呼吸をする。どうにか手を動かし、日本語訳を書ききった。震える手で書いた字は歪んでいて、字がうまいと言われる藍らしくなかった。
「はい、ありがとう」
藍はふらふらと自席に戻った。手についたチョークの粉を払い、シャーペンを握る。たった今、黒板に書いた日本語訳をノートに記そうとしたけれど手に力が入らず、書けなかった。
一度、利光に当てられた藍は、その後当てられることなく英語の授業は終わった。
授業後、机で突っ伏していると、みなみが声をかけてきた。
「大丈夫?」
「うん」
顔を伏せたまま、素っ気なく答える。
二限目の授業からはちゃんと集中しよう。頭ではそう思っても、心が言うことを聞かなかった。どうしても不安に頭を支配されてしまう。結局、午前中の授業は全く集中できなかった。
昼休み、みなみの話を聞きながら弁当を食べる。お腹は空いているのに、箸が進まない。それに、不味く感じる。藍は半分ほど食べて箸を置いた。
「もう食べないの?」
「うん。今日、食欲ないや」
蓋をし、弁当箱をランチバッグの中に仕舞った。
みなみは話している時間も多かったのに、ほぼ食べ終わっていた。最後の一口を頬張る。みなみはもぐもぐと咀嚼しながら、弁当箱を片づけた。最後に水を飲むと、反転させていた机を元に戻した。
「ちょっと来て」
みなみから腕を引っ張られ、無理矢理立たされた。みなみは一五三センチと小柄だが、体格に似合わず力が強い。一六五センチ標準体型の藍を、簡単に引っ張っていく。
藍が連れて行かれたのは、特別教室棟のベランダだった。ひゅるりと吹いた風が、二人の髪を揺らす。
「ねえ、何かあったの?」
みなみから言われ、どきりとする。
「何もないよ」
「嘘だ。今日何かおかしいよ。だって授業聞いてなかったじゃん」
「ちょっと気分が悪かっただけ」
「なら保健室行けばよかったのに。利光先生、勧めてたじゃん」
「保健室に行くほどじゃなかった」
「やっぱり何かあったんでしょ?」
「……何もないよ」
みなみから目をそらす。そらした視線は『何かあります』と、言っているようなものだった。
「絶対に何かあるんでしょ! 私にも言えないようなことなの⁉」
金切り声が耳をつんざく。もう隠し通せそうにない。視線をそらしてしまった藍の負けだった。
「……私、大学の書類提出と入学金の振り込み期限が過ぎてて、入学取り消しになったんだ」
「えっ……」
思っていた告白と違ったのだろう。みなみは団栗眼を見開いた。
「月曜日、家に帰ったら大久保先生から電話があったんだ。『書類も入学金も何も大学に届いてないけど、どうなってるんだ。もう入学取り消しになったぞ』って」
藍はゆっくり一天を見上げた。綿菓子のようにふんわりとした真っ白な雲が、風に流されていた。
「それって、もうどうすることもできないの? 校長から大学に頭下げてもらうとか」
「無理だよ。だって私が悪いんだから」
藍は言いながら、視線をみなみに向ける。
「みなみはさ、二年生の修了式の日に行ったフリーマーケットのこと覚えてる?」
「覚えてるけど、それがどうしたの?」
「あのとき、私が買った象の置物のこと覚えてる?」
「覚えてるよ。魔女から買ったやつでしょ?」
「そう。あれのせいなんだよ。私があれに願ったから、大学に入学できなくなった」
みなみは藍の言っていることが理解できなかったようで、小首を傾げた。
「何であれのせいなの? ただの置物じゃん」
「信じてもらえないと思うけど、あれ、本当に願いが叶う置物だった」
「そんなわけないじゃん」
みなみは眉をひそめ、疑ったような顔をした。
「買った日に、みなみと矢野くんと同じクラスで、担任は宮下先生になりますように、って願った。本当に叶ったから、矢野くんと話ができますように、とか、隣の席になれますように、とかも願った」
「それは全部、運がよかっただけでしょ?」
「私も最初は運がいいだけだと思った。でも、矢野くんと付き合いたい。こんな夢みたいな願いも叶った」
「まあ、付き合いだしたって言われたときはびっくりしたけどさ、それもあれのせいなの?」
うん、と藍はスローモーションのようにゆっくりと首を縦に下ろした。
「他にもあるよ。矢野くんと高須さんが大けがしたのも私のせい」
「あれは不慮の事故でしょ?」
「違うよ。あの二人が憎くてしかたなくて、痛い目に遭いますように、って願った」
置物の力か、それとも藍が人の不幸を願ったことに驚いているのか、みなみは目を瞬かせた。
「昨日、学校下の公園に行ったら、魔女さんに会ったんだ。あの人もあれは本物だって。でも、願いは叶うけどその代わり代償もあるって」
「代償?」
「宮下先生が担任になった。でも休職した。矢野くんと付き合えた。でも遊びだった。私が大学に通えなくなったのだって、『合格できますように』って願ったから、その代償だよ。だから合格はしたけど、通えない」
「全部、たまたまが重なっただけじゃん。藍の言ってること、信じられないよ! だいたい、藍は真面目なところが評価されて指定校受けられたんだから。オカルトみたいなのに頼らなくたって、合格できるに決まってるじゃん」
藍は唇を噛み、ベランダの手すりに腕を乗せた。金属製の手すりは冬の空気に冷され、氷のように冷たかった。
「不安だった。だから叶えてもらいたかった。ただそれだけ。もう置物は捨てた。『この置物がこの世からなくなりますように』って」
みなみは藍の腕を掴み、無理矢理自分のほうを向かせた。顔は真っ赤になっていて、目は涙が浮かんで潤んでいる。
「それって、また置物に願ったってことでしょ? 私はオカルトなんてこれっぽっちも信じてないけど、もし藍が言うように本物だったら、願った代償がくるんじゃないの? ゴミに出したんなら、勝手にこの世からなくなるじゃん! 何で余計なことするの?」
怒りと心配で震えているみなみの手をはがす。熱で赤いみなみの手は、カイロのように温かかった。
「あの置物がこの世から消えてほしかったから」
「だからって藍が願う必要ないじゃん」
「どうしても消えてほしいの。それが最後の願い。何か代償があっても、全部受け入れるって決めてるから」
藍はみなみを真っ直ぐ見つめた。みなみが瞬くと、団栗眼から涙がこぼれ落ちそうになった。
「……もし、代償があったら今度は私にちゃんと話してね。一人で抱え込んだりしないでよ」
二の腕を叩かれた。痛くない。伝わってきたのは、母親から頭を撫でられるときような優しさだった。
「……うん。ありがとう」
涙でみなみの顔が歪んでいる。指で目を擦って視界をクリアにする。みなみは笑っていた。




