十七話
宮下が休職して一週間が経った。騒がしかった三年四組は過去のものとなった。教室は灰色の雲で覆われているように暗くなった。
その一方で教員たちは、「三年四組が静かになって安心した」という空気を醸し出している。
七限目が終わった。今日の授業も私語がなく静かだった。
まだ入試が終わっていないみなみは、今日も面接練習だ。だから藍は一人で帰る。十一月は二人で一緒に帰った日が、数えるほどしかない。
昇降口で靴に履き替えていると、
「歌川さん」
後ろから声をかけられた。振り返らなくても誰だか分かる。こんな甘ったるい声の持ち主、一人しか知らない。
藍は仕方なく振り返る。もちろん、後ろにいたのは梨々花だった。目が合ったけれどすぐにそらしてしまった。
理系Bコースの梨々花とは、教室がある階が違う。彼女の姿を見るのは、一学期の中間テスト明け以来だった。
五月に大けがをした梨々花も、今は元気そうだ。けれど、規定より短めのスカートからのぞく脚には、まだあの日の傷跡が残っていた。
「何?」
藍はそっけなく言う。
「今から時間ある? ちょっと話したいことがあるんだけど。今日が無理なら明日でもいいから……」
正直面倒くさい。でも嫌なことは早目に終わらせておきたい。
「いいけど」
「ありがとう」
藍の返答を受けた梨々花は、上履きを脱ぎ、光沢がある茶色のローファーに履き替えた。
「行こう」
揺れる内巻きゆるふわロングヘアの後ろを、藍は黙ってついていく。
梨々花はグラウンド近くのベンチに座った。藍もその隣に座る。グラウンドではサッカー部が練習をしていた。
「あのさ」
梨々花は藍ではなく、グラウンドを見つめながら口を開いた。
「矢野くんのこと、ごめんね……」
今さら謝ったところで何になるっていうの? 藍は遅すぎる謝罪に、怒りを覚えた。太ももの上で拳をぎゅっと握る。
「あたしたち、あのあとすぐに別れちゃった。歌川さんの気持ちを踏みにじって本当に最低だよね、って」
梨々花はスカートを握りしめ、肩を震わせた。
「あともう一つ、謝りたいことがあるんだ」
「何?」
梨々花が関わる記憶を、深海から網を引き上げるようにたぐり寄せる。『大人ぶっちゃって、うざ』。それだけしか覚えていない。何か嫌がらせをされた記憶がない。分からないぶん、余計に怖くなる。
「二年生のとき、現代文の教科書、なくなったでしょ? あれ、あたしがやったんだ」
ある日、忽然と消えた教科書。謎に包まれていた原因が、ようやく判明した。小学生がしそうなくだらない嫌がらせに、藍は言葉を失った。
「歌川さんってさ、あたしのこと嫌いだったでしょ? あたしもそんな歌川さんのこと、いけ好かないって思っちゃった。二年生になって、久しぶりに歌川さんのこと見かけて、何となく嫌がらせしようと思っちゃった。だから歌川さんが教室にいないときに、こっそり机の中から教科書抜いて、図書室に隠した。二週間くらいして、こっそり返そうと思ったけど、もう新しい教科書買った、って先生と話してるところ聞いたから、そのまま放置してた」
低俗なことをして何が楽しいのだろう。握っている拳に、さらに力を込める。
「あたしって、本当に最低だよね……。歌川さんがあたしのこと嫌いな理由、何となく分かるよ。大人っぽくて優等生の歌川さんと比べたら、あたしっていつまでも子どもみたいでうざいよね。こんな最低な人間だから罰が当たって、あの日階段から転げ落ちちゃったんだよ」
それは違う。藍は心の中で叫ぶ。私にしたことは最低だけど、罰が当たったんじゃない。あの日階段から転げ落ちたのは、私が悪いのに……。
梨々花の手の甲に、ぽたりと涙の滴が落ちた。梨々花は鞄の中から、レースがついた薄ピンク色のハンカチを取り出すと、目頭を拭った。ハンカチをブレザーのポケットに入れると、藍の前に立った。
「ただ謝りたかっただけだから。本当にごめんね。じゃあバイバイ」
梨々花は一方的に謝罪すると、この場から駆けて行った。謝られても、藍は梨々花のことは好きになれなかった。
帰ろう。藍はベンチから尻を浮かそうとすると、
「歌川さん」
背後から声を掛けられた。
尻をつけたまま振り返る。神妙な面持ちをした瑞樹が立っていた。
藍は何も言わずに前を向く。今度こそベンチから尻を浮かそうとすると、
「待って」
と、瑞樹が回り込んできた。目の前に立たれて尻を上げられず、帰宅を阻止される。
「何?」
藍は瑞樹の足元を見ながら、素っ気なく言う。
「俺も話したいことがある」
瑞樹はさっきまで梨々花が座っていたところに、腰を下ろした。
「高須さんと話してるところを見かけてさ……。さっきの話、盗み聞きとかしてないから」
彼も今さら何を言うのだろうか。
大けが以来、藍は瑞樹のことを視界に入れないようにしていた。久しぶりに彼の顔をじっくりと見る。性格は最低。でも顔立ちだけは、爽やかでかっこいいと今でも思った。
「えっと……」
「寒いから早くして」
「ああ、ごめんね」
藍からぴしゃりと言われた瑞樹は、下を向いてぼそぼそと話しを始めた。
「五月のこと、俺が馬鹿だった。歌川さんの気持ちも考えないで、あんな最低なことしてさ。ずっと謝りたかった。許してほしいなんて全く思っていません。本当にすみませんでした」
定型文のような謝罪。とりあえず謝っておこう、という感じだった。
「もういいよ」
藍はおもむろに立ち上がり、その場を離れた。
帰り道、藍はずっと悶々としていた。瑞樹と梨々花は藍の心を踏みにじり、傷つけた。憎しみのあまり、願いが叶う置物に二人が痛い目に遭うように願った。その結果、二人は大けがを負ってしまった。瑞樹はインターハイ予選に出られず、部活を引退。梨々花は中間テストを受けられず、成績が出なかった。私だって、あの二人に謝らないといけないのに……。
帰宅して手を洗う。外の汚れは綺麗に落ちても、心はすっきりしない。動画でも観て、二人のことは考えないようにしよう。
自室にこもるために階段を上っていると、固定電話が鳴っているのが聞こえた。踵を返して、電話機があるリビングに向かう。電気をつけ、受話器を取った。
「もしもし、歌川です」
『もしもし、丘ノ上高校の大久保と申します。藍さんはご在宅でしょうか?』
「はい。藍です」
大久保は電話に出たのが藍だと分かると、途端によそ行きの声を荒げた。
『さっき、歌川の受験した大学から学校に連絡があった。提出期限が過ぎたのに書類も届いていないし、入学金も振り込まれていないと言っていた。どういうことだ』
大久保の言葉に、頭の中は霧で覆われたように真っ白になる。
『歌川、聞いているか?』
怒声にはっとする。頭を振って脳内の霧を払う。
「平日は学校があって、自分で郵便局と銀行に行ける時間がないので、親に頼んだんですけど……」
受話器越しに大きなため息が聞こえた。ため息の大きさだけで、大久保がどんな顔をしているのか容易に想像ができた。
『それくらい自分でどうにかしたらどうなんだ? もう子どもじゃないんだから』
学校を休むなり、早退するなりして自分で行けばよかったのかな。正解が分からず、何も答えられなかった。
『非常に残念なお知らせだが、入学は取り消しだそうだ。進路はどうするんだ?』
もう何も聞きたくない。藍は受話器から耳を離した。大久保の声はもう聞こえない。
電話機から離れ、忘れてはいけない書類が入っている棚の前に行った。引き出しを開けると、一番上に入学同意書と入学金の振り込み用紙がまだあった。大学に送るために封をした封筒を破り開ける。提出期限日は先週の金曜日で間違いなかった。入学同意書を持つ手がぶるぶると震える。母親がとっくに郵送して、入学金を振り込んでくれたと思っていた。
藍は入学同意書から手を離した。紙ははらりとフローリングに落ちる。藍はその上に鞄を置き、スマホを取り出した。痙攣しているような指を動かして、母親に電話をかける。五時過ぎ、パートは終わっている。緊急性の高いときに限って、なかなか電話に出ない。
一分以上鳴らしただろうか、ようやく母親が電話に出た。
「もしもし、お母さん」
『どうしたの?』
「大学の書類……」
『はぁっ、忘れてた! 期限、いつまでだったっけ?』
「先週の金曜日。さっき先生から電話がかかってきた。書類も入学金も間に合わなかったから、合格取り消しだって……」
スマホから何も聞こえてこない。数秒のち、聞こえてきたのは声ではなく、鼻をすする音だった。
『……ごめんね。お母さん、取り返しのつかないことをして……』
母親の声は涙声になっていた。
『今運転中だから。帰ってゆっくり話そう。電話切るね……』
ぷつりと通話が終わる。藍はゆっくりとスマホを耳から離した。
棚の戸も閉めず、鞄もリビングに放置し、精気を奪われたようにふらふらと自室に向かう。
カーテンが閉まっている自室は洞窟のように暗く、冷えていた。電気も暖房もつけないでベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
何でこんなことに……。一年生からの努力は、全て水の泡となってしまった。涙が泉のように溢れ出してくる。涙に溺れてしまいそうだ。
暗闇の中で泣き続けていると、ドアをノックする音がした。返事をしないでいると、
「開けるよ?」
母親の声がし、ドアノブがカチャリと回った。電気のスイッチ音がしたあと、足音が近づいてきた。
「藍、こっち向いて」
藍には、顔を上げるという簡単な動作を行う気力も残っていなかった。
「お願いだからこっち向いて」
藍は枕に顔半分を埋めたまま、片目だけを母親に見せる。うつ伏せ状態で眼球に圧力がかかっていたため、視界は歪んでいる。
母親はベッドの前で正座をしていた。下を向いていて、顔は見えない。
「ごめんね……。一生懸命頑張って合格できたのに、お母さんがその努力、台無しにしちゃって……」
私だって、任せきりで悪かったのに。藍は再び顔を伏せる。それでも母親は話を続けた。
「このこと、お父さんに電話したの。帰ってきたら今後のこと、相談しようって。じゃあ、また後でね……」
側から人の気配がなくなった。息苦しくなった藍は仰向けになって、肺に酸素を取り込む。
今日は色々なことがあって疲れた。今は何も考えられない。藍は瞼を閉じ、視界を真っ暗にした。
夢と現の狭間にいると、素早いノック音が聞こえた。腫れて重くなっている瞼を持ち上げる。
「藍、リビングにきなさい」
父親の低い声で呼ばれた。鉛のように重い体を起こし、一階のリビングに向かう。
リビングには腕を組んでいる父親と、うつむいた母親が並んで座っていた。藍は父親の正面に座る。
父親は固く組んでいた腕をほどくと、
「せっかくの合格を台無しにしてすまない」
と、頭をテーブルにつくくらい下げた。母親も、すでに下のほうにあった頭をさらに下げる。
「勝手な提案になるが、一般入試を受けてみるのはどうだ? もし不合格になってしまったら予備校に行けばいい。浪人中は勉強に集中できるようにサポートするから」
「……今の学力だったら絶対に不合格になると思うけど、一応受験してみる。でも、浪人はしない。他の学校も受験して、合格したところに進学する」
「本当にそれでいいのか?」
「うん。いい」
本当はよくない。合格取り消しになった大学にどうしてもいきたい。
不動産会社勤務の父と、スーパーのレジ打ちパートの母。一生懸命働き、藍が奨学金を借りないでいいように、学費を準備してくれている。そんな両親に予備校代を出してもらうのが心苦しい藍は、自分の気持ちを抑えつける。
話し合いを早々に終わらせた藍は、自室にとんぼ返りした。部屋の中に入ってこられないように鍵をかける。
ドアにもたれかかり、虚空を見つめる。
何でこんなことになってしまったのだろうか。もしかして……。藍はおもむろに立ち上がり、学習机に向かった。
机の引き出しを開け、象の置物を手に取った。
面接の前日に『合格できますように』と、願った。確かに合格はできた。でも、入学することはできなくなった。
『合格はさせてやったぞ』
藍には象の顔が、自分を嘲笑しているように見えた。何とも憎い。思わず、置物をフローリングに叩きつける。軽い置物はフローリングと衝突すると、跳ね上がった。
藍は置物を拾い上げる。めいっぱい叩きつけたにもかかわらず、傷一つついていなかった。代わりに、フローリングに目立つ傷がついてしまった。
今度は上を向いている鼻に手をかける。へし折ってやろう、と力を入れるけれど、丈夫に作られているようで、全く折れる気配がない。
『そんなことをしても、痛くも痒くもないぞ』
置物がそう言っているような気がした。藍はもう一度、フローリングに置物を叩きつけた。やはり傷一つつかない。
今までのことを考えると、本当にすごい力を秘めているに間違いない。みなみ、瑞樹と同じクラスになれて、担任が宮下になったこと。瑞樹と隣の席になって、その後ちょっとだけ付き合えたこと。そして志望校に合格できたこと。瑞樹と梨々花があんな大けがをしたことは想定外だったけれど。
願えば叶った。でも、願いが叶って幸せだったのは一瞬で、そのあとはつらいことばかり。
みなみがちょっと冷たくなったこと。宮下が休職したこと。瑞樹と付き合えたけど、本当はおふざけだったこと。せっかく合格できたのに、入学はできなくなったこと。全部、全部、こいつに願ったせいじゃないの?
こんなもの、捨ててしまおう。けれど、この置物を買ったとき、みなみから言われたことが脳裏に甦る。
『願いが叶うグッズじゃなくて、呪いのグッズの間違いじゃないの?』
捨ててしまったら、呪われるかもしれない。藍は捨てる勇気が持てず、再び置物を引き出しの奥底に仕舞った。




