新たな関係
第8章
私はキプロス王の侍史として身近に仕え始めてから、その立場を利用して二つの個人的な調査を始めた。
ひとつは、あの印璽に掘られた紋章。どこのものか調べ始めたのだ。
もう一つは、マリアンヌがどういう女性か、どこでどうしているのかを知りたかった。
印璽の紋章は、外交文書を調べることで、簡単にわかった。神聖ローマ帝国皇帝からの錫の取引に関する機密文書で確認できた。しかしマリアンヌ個人のことは、どう調べたよいものか。そんなとき、顔見知りのヴェネツィア商館の人間から、今人気のラベンダーのオイルが配合されたクリームをプレゼントされた。もちろん売り込み目的で私に贈ったのだろうが、効果抜群だった。焼けて乾燥した肌をつややかにし、鎮静効果もあるので、女性だけでなく、船乗りの間にまで評判となっているという。ジェノヴァではなくヴェネツィアのある修道院付属の薬局の製品だと聞き、もしやと思ったのだ。
そこで私は隠密行動でヴェネツィアの情勢視察に向こうことをキプロス王に上申し、出発前にあるヴェネツィア人の商船の船長を通じて、そのクリームを大量注文し、ヴァネツィアで受け取ることにした。
マリアンヌがヴェネツィア人であることは予想できた。薬草使いの治療師。そしてラベンダー。
初回の大量注文の条件として、納品の際、“開発の責任者自ら使い方の説明に来るように”と、伝えておいたので、私はマリアンヌに再会することができた。
注文主は外国商団の船長ということにしていたので、すぐ荷を積み込むから、と埠頭に近い滞在中のホテルで彼女を待っていた。
あの10代の青年の頃とは全く違う、ガレー船の奴隷生活で鍛えられた体躯に、地位の高さを表す服装を着こなした出で立ちに、初め彼女は私に気がつかなかったようだった。大量注文のお礼を述べたかと思うと、熱心に丁寧に、何よりわかりやすく使い方や保存の注意などの説明を始めた。
「一通りご説明申し上げましたが、ご理解いただけましたでしょうか? 何かお聞きになりたいことなどございませんか?」
「原材料のラベンダーだが、これはグラース産のものか?」
「はい、よくご存じでいらっしゃいますね。温暖な気候と南向きの斜面の丘陵地帯をも土地で生育した最高級のものです。」
「キプロス島も温暖で南向きの斜面の地域がある。そこでもラベンダーを栽培すれば、同じような精油が作れるものだろうか?」
「キプロスですか。植物から精油を生成する技術は、特別な技術、装置、経験を必要とします。栽培だけであれば可能かもしれませんが、現地に行って確認しないことには、なんとも。」
「では、一度、あなたがキプロス島にきてもらえないだろうか、マリアンヌ。よければ、実際にこのクリームで、あなたの正しい施術方法を受けたいのだが。昔のように。」
なかなか私に気がつかないマリアンヌを少々からかいたくなってしまったのだ。
目を瞠って、しばらくの間私を見つめると、マリアンヌはくすりと笑い、「それでは早速、準備いたしましょう。痛みや筋肉が張っているところはございませんか?」といたずらっ子のような瞳で問いかけてきた。
私は人払いをして、しばらくの間、彼女と二人っきりで、至福の時間を過ごした。
翌日、私はキプロスへと出航した。無理矢理にでもマリアンヌを連れ帰りたかったが、それ以上に彼女に生き方を変えて欲しくは無かった。それに、事情があり、彼女が母親がわりになっている幼い子どもがいるという。後見人としての責任を投げ出せない、と。それから私はマリアンヌとひそかに手紙のやりとりを行うようになった。
正式に私を後継者と指名して、キプロス王は数年後に病でなくなった。改宗イスラム教徒の新たなキプロス王がうまれたというニュースは、まずヴェネツィア商館を通じてサンマルコ共和国政府に伝わったようだった。驚くほど早い段階で、本国政府の要人が特使として表敬訪問にやってきた。そのヴェネツィアの特使は、どこか見覚えのある気がしたが、どうしても思い出せなかった。
私はキプロスが交易の要衝だということが分かっていたから、もっと発展させるためにヴェネツィアとの通商に関しては今まで以上によい関係を築くつもりでいた。ヴェネツィア特使はおそらく、私がジェノヴァ人と知って、ジェノヴァを優遇するのではないかと探ってきたのだろう。私の経歴も調べてきたに違いない。
就任祝の表敬訪問といいながら、実質は腹の探り合いで、お互い手の内を見せない話し合いだったが、私は何故だが、この特使に好印象を覚えた。商いのためなら宗教の壁など関係ないという態度、将来の目的のために、目の前の課題を冷静にこなす姿勢。お互い現実主義者同士だからこそ、具体的な課題をはじめれば話が進むと確信したのだ。
「ご安心ください、特使殿。私が元ジェノヴァの船乗りだということは、貴国の情報網でもうご存じのことでしょう。しかし私はもともとエクス-アン-プロヴァンスの人間です。敬愛していた父は商人でした。特にジェノヴァに肩入れするつもりはありません。貴国の政府が今まで通りに商売できるようにと考えている限りにおいては。」
「そのお言葉をお聞きできて安心いたしました。」
しばしの沈黙のあと、特使は少しためらいがちに言い出した。
「これはお伝えしようかどうか、迷っていたのですが、ジェノヴァにいらっしゃるご親族のことで、情報があるのですが。」
「何でしょうか?」
「あなたが乗っていた船がサラセン人に拿捕されてすぐに、あなたを探している人物がいたようですね。ジェノヴァに暮らすあなたの親族のところにも、捜索に向かっていたようです。その親族の女性は、甥がいたが、ある日突然いなくなった。弟が勝手にフランス女と駆け落ちし、弟が商用先で客死したとかで、そのフランス女が住む家が無く困っているというから、産んだ息子と一緒に住まわせてやったのに。恩知らずの甥は、突然いなくなった、と。」
叔母が身代金の支払いを拒否したことは分かっていたので、なんとも思わなかったが、この特使が、サンマルコ共和国が、果たしてどこまで私の過去を把握しているのか、私がかつて帝国の駐在ジェノヴァ大使の闇の仕事を請け負っていたことを知っているのかが気になった。
「ほう、よその国の庶民の家庭のことまで調べられるのですね。」
「私も若い頃は各地で商いの旅に出ておりましたので、個人的に商家の家とは交流があったりするのですよ。ご親族に何かお伝えしたいことがあれば、お力になれるかと。」
「私はもともと船乗りですよ。奴隷となってガレー船の漕ぎ手として生き抜いた事は事実ですが。そこまでの商家の家の出身でしたら、サラセン人に船に誘拐されていたとしても、身代金で自由の身になっているはずです。お人違いをなされているのでは?」
「差し出がましいことを申し上げて大変失礼いたしました。私が勘違いしたようですね。」
特使は深々と頭を下げ、私に詫びをしたが、その顔には「なるほど、何の隙も与えないご対応、さすがでございます」と書かれているようだった。
私はこのとき、彼の背後に控えるサンマルコ共和国とは、今後友好的な関係を構築できると確信した。
この会話で、お互いに利がある限り、たとえ情報をつかんではいても余計なことはしない、生粋の商人の国だと納得できたからだった。