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新しい神

第7章

 この仕事を受けたときから今までにない不安を感じていた私は、不測の事態に対応できるよう可能な限り情報を集めるようにした。自分が運ぶように依頼された荷物が何なのか、事前に確認していたのだ。

 本来なら依頼主の許可なく荷の中身を確認するなどバレたらとんでもないことだが、知っておきたかった。小さな木箱を空けると、分厚い立派なビロードの小袋が入っており、その袋の中あったのは、白い大理石と金でできた印璽だった。


 私ははっとした。昔、父の仕事を手伝っていたとき、特にとても大切な取引の契約書を作成するときに、これに似たものを父が使っていたのを思い出したからだ。それは何かと聞いた私に、父は

 「これは自分が書いたものだと証明するとてもとても重要なものだから、命の次に大事なものなのだ」と答えた。

 もともと王侯貴族の方々が使っていたものを、そういった方々に物を納める商人たちが使うようになってきたのだと。


 今、目の前にあるこの印璽は印章などが彫られた部分は金で出来ており、凝った装飾が施され彫りも複雑で美しい、実用品というより芸術品のような見事なものだった。とても一介の商人ごときが持てるものでもない。あきらかに高位の貴族や王族、皇帝といった方々のものであるのは間違いなかった。


 なぜそれを、闇のルートで運ばせるのか? なぜヴァティカン宮の中に保管させようとするのか?

もちろん依頼主の裏にいる黒幕の意図などわからなかったが、自分が何かとんでもない陰謀に加担させられていることだけはわかった。

 おそらく、この仕事を失敗しても、無事完遂したとしても、どのみち証拠隠滅の口封じで始末されるに違いない、そう確信したのだ。


 だから私は生き抜くために、この仕事の途中で逃亡する機会を狙っていた。あのヴァティカンからやってきた男が剣を振りかざしたときに、逃亡する決心がついたのだ。


 なんとか生き延びることができたが、ジェノヴァには戻れない。そうだ、ピサに行こう。港町としてはヴェネツィアやジェノヴァにおされて昔ほどの勢いはないが、水夫の仕事はあるはずだ。これからはピサの船乗りとして一人前になり、いずれ真っ当な商人になって成功しようと思った。

 ピサの港で運良くすぐ水夫の仕事にありついた時、私はマリアンヌの忠告に改めて心から感謝した。

 しかし、神はここにきて、最大の試練を私に与えたのだ。


 当時の地中海はサラセン人の船団による人さらいビジネスが横行していた。目的は貴族や裕福な商人や捕虜の親族に法外な身代金を要求することだが、大多数の庶民は捕まったら奴隷として売り飛ばされる運命だった。

 ヴェネツァア海軍の大船団というような船はもちろん狙われないが、小規模の商船は彼らの格好のターゲットだった。そして、私がピサから乗り込んだ商船が、サラセンの海賊に拿捕されたのだ。


 身代金を払えば解放されるのは知っていた。あの叔母が私のために金を払うとは思えなかったが、奴隷となってしまったら、近い将来、事故や怪我、病気で命を落とす運命が待っている。サラセン人に書けと言われ、一縷の望みを託して、身代金の請求先を書いた。


 ひと月以上待ったが返答はなく、私は奴隷として売られ、ガレー船の漕ぎ手をして生きていくしかなくなった。


 過酷な労働と、悲惨な生活環境に、生きる気力をなくし、中には耐えられずに自ら海に飛び込む者もいた。

 私が耐えられたのは、マリアンヌとの約束があるからだった。見知らぬ人間に対し、優しくかつ熱心に治療をし、自分を受け入れてくれるマリアンヌに、心も身体も傷ついていた私は心を奪われた。今の自分には彼女を満足させるような生活は保障できないどころか奴隷の身だが、いつの日か彼女の望みをかなえ、包み込めるような男になりたいと誓った。あの日、彼女を抱いて、愛し合って、今までの不幸がすべて受け入れられる気持ちになることができた。私にとって、マリアンヌは唯一の希望だったのだ。


 生き抜くために、日々の労働の合間に、船内のムスリムの水夫たちから言葉を教えてもらうことにした。人間は、意思が通じ合うと情が生まれる。進んで辛い仕事を請け負ったり、まじめな働きぶりも評価されたのか、彼らから虐待されることはなくなった。


 あるとき私が字を書くことが出来、計算が得意なのを知った船主は、私を漕ぎ手から詰み荷の管理の仕事に配置換えしてくれた。私が働いていたのは、ヴェネツィアと取引していたキプロスの船だったのだ。


 それから3年くらい真面目に働き、かなりムスリムたちと会話出来るようになった頃、キプロス王の船で働くことになった。キプロスはヴェネツィアとの取引が頻繁に行われており、ヴェネツィア商館もあったが、ときのよっては交渉の通辞を任されるようになった。


 通辞の仕事をした晩は、よく夢をみた。イタリア語を話すからだと思ったが、ジェノヴァではなく、父との商用旅行途上の夢だったり、親子三人で幸せに暮らしていた頃の夢だったりした。

 夢の中で、母は繰り返し言っていた。

 「いい、ジェローム。自分で何もせずに神様に助けてほしいなんてお祈りしても無駄よ。神様を信じているだけでは幸せにはなれない。自分で決めて行動しなさい。神様はあなたの行動に気がついたら、チャンスを与えてくれるはず。何も行動を起こさなかったら、神様はあなたの希望に気がついてくれないから。」


 ある日、キプロス王が海上視察に出るということで同船した。その日は午後から海が荒れると地元の漁師も舟を出していなかったが、昼過ぎには帰港する予定で出港した。

 ところが昼前に急速に天候が悪化し、空は穏やかな地中海とは覚えない真っ黒な雨雲に覆われ大粒の雨が降り出した。

 慌てて帰港しようとしたとき、座礁しやすいポイントにさしかかり、船が沈没してしまったのだ。周りに救助してくれるような船もなく、キプロス王とその側近たちは豪華な服を着ていた上に泳ぎには慣れていない。海上に放り出された水夫達は自分たちが助かるので精一杯で誰も助けようとしなかった。

私はその混乱のなか、溺れかかっているキプロス王のもとに泳いでいき、身体を支えながらマストにしがみついた。重い外套を脱がせ、破壊した船体の一部である板にキプロス王を持ち上げ、救助の船がくるまで王を励まし続けた。


 私はキプロス王の命を助けたことで、彼の絶大な信任を得ることができた。彼の秘書官のような立場に引き上げられたのだ。

 それまでの彼の側近たちの多くが、あの沈没事故で亡くなっており、嫉妬されたり、妬まれて仕事の妨害を受けたりすることはあまりなかったのは助かったが、それでも私がキリスト教徒であることを非難する者はいた。

 もちろん、キプロス王のプライベートな相手を要求されることがないわけではなかったが、それもまた彼の信用を得るためと割り切って受け入れた。彼は私に政治上な重要な事柄の判断や交渉の現場を任せてくれるようになった。


 キプロス王には4人の妻がいたが、好みの男性との関係を好み、そのためか後継者がいなかったのだが、50代になったとき、私は彼に呼ばれて、自分の後継者になって欲しいと言われた。


 神は私に生きるチャンスを与えてくださる。

 どの神でもかまわない、チャンスがつかみ取れるなら。

 神が私を見いだしてくれなくてもいい、私が神を選べばいい。


私は新しい神を選ぶことにした。

生き抜くために。

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