逃亡
第6章
マリアンヌと別れた朝には、腕の痛みはかなり和らいでいた。
私は早速港に向かった。いつも裏仕事を紹介する水夫仲間のところに行き、さすがに文句を言った。
「そりゃ悪かったな。ただ俺だって何でも紹介しているわけじゃないぜ。そんなヤバいことはない仕事のはずだったんだがなぁ。」
「殺されかけたんだぞ!見ろよこの傷あと。おかげであと数週間は海で使い物にならない。」
「悪かった悪かった。俺もそんな危険な仕事だと知らなかったんだ。」
「しかもまだ報酬は受け取っていないんだ。 怪我までさせられて、無報酬はないだろう?」
依頼主は誰なんだと聞きたかったが、マリアンヌの忠告を思い出して堪えた。
「え、そりゃ申し訳ない。サイモンは金を渡さなかったのか?」
「サイモンて、倉庫にいた気弱そうな男か?そうだよ。なんか取引が上手くいかなかったらしいからな。なんかボスらしい男が来て、叱責されていたが。」
「え? 大使がわざわざ現場まで?」
「大使?」
まずい、口を滑らせたという顔をした水夫仲間は、声を潜めて私に告白した。
「おまえだから信用して打ち明けるが、俺はもともと神聖ローマ帝国大使の警護の仕事をしていたのさ。だから個人的に大使をよく知っている。まあ、いろいろあって警護の仕事は辞めさせられたんだが、今でもこういった表に出せない仕事を頼まれているってわけだ。今回は運が悪かったと思って諦めてくれ。次は絶対ラクで報酬のよい仕事を回すからさ。」
腕が完全に治るまでは、水夫どころか何の力仕事もできない。だから「ラクで報酬のよい仕事」を請け負うことにした。
その神聖ローマ帝国のジェノヴァ駐在大使とやらの指示で、私は特定の人物の行動を監視したり、誰にも見つからないようように特定の人物に手紙を届けたりした。
いずれ船主となり海外で真っ当な商売をしたかったが、元手がないと何も始められない。危険を承知で、細心の警戒をしながら仕事を続けた。腕は快復したが、報酬の良さにずるずるとこの仕事を続けていた。
毎回確実に仕事をこなしていたから信用されたのだろうか、ある日、かなり難しい仕事の話がきた。
修道士のふりをして、ある荷物を持ってローマ近郊の村に住む女性の家に行き、そこで待っている人物とともにヴァティカン宮の中に入り、それを誰にも見られずに、ある場所に納めてくるようにという内容だった。
頭の中で「この仕事はまずいのではないか」という警報が鳴ったが、このときには仕事を断れるような状況ではなくなっていた。そのときはもう、私は大使の秘密を知りすぎている男だったのだ。断ったら断ったで、何か報復がある予感がした。
胴着の上に渡された修道士の服に身を包み、護身用の武器を携帯したが、今回はいざというときのために逃亡できるだけの資金を持って、ローマ郊外に向かった。そこまでの道中は全く何の問題もなく、平穏無事に指定された家にたどりつくことができた。あまりに順調なことがかえって私を不安にさせた。
その家の女主人は、私が訪問することを事前に聞いていたのだろう。初見の旅の修道士に対して、驚くほど親切な人だった。私がその家にたどり着いたとき、たまたま別の客がいたが、
「私の用事はもう済みましたから、おいとまいたします」と言って、その青年はすぐに出て行った。女主人は「いつもこんな片田舎まできてくれる親切で義理堅い行商の青年で、最初の出会いは、たまたま彼が行き倒れになりそうだったとき、救ったのだ」という話を楽しそうに話してくれた。そんな様子から、おそらく彼女も、単に私のように誰かに利用されているだけなのだろうと感じた。
「とにかく、修道士様のことは伺っておりますわ。明日、迎えの者がヴァティカンからいらっしゃるそうです。狭い家ですが、どうぞおくつろぎください。」
翌朝早く、その男はやってきた。女性と親しげに話しているところを見ると、昔からの知り合いのようだった。私はその男と一緒にすぐ出かけることになった。
「あら、もう出発なさるの。朝食もとらずに? 良かったらこれを持っていってくださいな。」
女主人はそういって、私と迎えに来た男にそれぞれ食べ物の包みを渡してくれた。
その家を出て、無言で1キロほど進んだところで、突然男が話しかけてきた。
「申し訳ないが、持ってきた荷物を確認させてくれないか?」
なぜ先ほどの家の中で確認せずに、わざわざ屋外で荷物を確かめようとするのか。人通りがないところで言い出したのも怪しい。私は服の中のナイフに手をかけたまま答えた。
「わかりました。大切なものですので、布袋に入れたまま腰に巻いております。少しお待ちください。」
私が粗末な外套の下から布袋をとりだし差し出した瞬間、その男は私に刃を振り下ろしてきた。ヴァティカンの聖職者が持っているとは思えぬ立派な剣だった。
身構えた私は腕を切り落とされる前に、布袋を地面に落とすと当時に身をかわした。腕にナイフを握っている私を見た男は、剣を向けたまま布袋を拾い上げ、近く木に隠していた馬に乗って、そのまま行ってしまった。
あの男が敵か味方かわからない。もしかして私のように使い走りさせられただけかもしれない。いずれにせよ、私の任務は失敗した。のこのこジェノヴァに戻ったところで消されるかもしれない。
私はそのままピサに向かい、ピサの港からコンスタンチノープル行きの商船の水夫となって海へ逃げたのだった。
あの立派な剣を持っていた男も、ヴァティカンに戻って消されることになったかもしれない。なぜなら彼も任務に失敗したからだ。
あの布袋に入っていたのは、女主人が朝、用意してくれた食べ物の包みだった。本当の荷物を、私は胴着の中に隠し持っていたのだ。