再出発
第5章
ラベンダーの香りのする荷物を持っていった女の居場所はすぐにわかった。しかし探し当てた時には、私は体力気力すべてを使い果たし、貧血で倒れる寸前だった。宿の部屋を何度かノックしたまま、ドアの前に倒れ込んでしまった。
そのあとの記憶はあいまいだ。気がついたらベッドに寝かされ、傷の手当をうけていた。
行き倒れの見知らぬ男をそのまま見捨てるのが当たり前なのに、部屋の中に入れて、ベッドに寝かせ、怪我の治療までするとは、この女は何なんだ。
「あら、気がついたのね。良かった。もう大丈夫よ。血は止まったし、傷口も綺麗にしてもう塞いだわ。まだ熱が高いでしょうけれど、明日にはかなり楽になっているはずよ。出血の割には傷が浅かったのは不幸中の幸いだったわ。」
「君は、誰なんだ?」そう聞きたかったが、声が出なかった。その日はそのままラベンダーの香りに包まれながら、眠ってしまった。
明け方、夢を見た。あの海に面した街の小高い丘の小さな村。子どもの私は、家の前の小さな庭で虫を捕まえたりして泥だらけで遊んでいた。草花やハーブを植えて、楽しそうに庭の手入れをしていた母のまわりで。
目が覚めたとき、私は今度こそ声に出して聞いた。
「君は、誰なんだ?」
心配そうに私の顔をのぞき込んでいた女性は、にこりと笑い
「あら、そんなこと聞けるなんて、もう安心ね。私はマリアンヌ。薬草使いの治療師よ。あなたが誰か聞きたいけれど、その前に栄養をとらなくちゃね。ちゃんと治療をしたんだもの、栄養を取らないと治るものも治らないわ。」
そう言って彼女は手際よく私の上半身を起こし、重湯のようなものを少しずつ私の口に流しこんだ。
「うん、食べられそうね。よかった。鶏肉のエキスも入っているからおいしいでしょ。あとで傷口の具合を診てみましょう。熱もかなり下がってきたし。良かったわ。」
なぜどこの誰かも分からぬ男に、ここまで親切にしてくれるのかわからなかった。
傷口を確認しながらマリアンヌは微笑んだ。
「うん、もう傷は心配ないわ。しばらく左腕は使えないけど、あなた、左利きかしら?」
「い、いや、右利きだ」
「うん、なら大丈夫よ。では右利きさん、なぜ私の部屋にやってきたの?」
ここまで親切にされた人間から当然の質問を受けて、私は何故か言葉に詰まってしまった。もらい損ねた報酬を払ってもらうつもりでやってきたが、怪我の治療をしてもらい、ここまで親切にしてもらった相手に、金銭を請求することなど出来なかった。
「ラベンダー」
「え?」
「ラベンダーの香りが」
「あなた、あの取引に関係があるの?」
「俺は・・・私は依頼を受けて、ラベンダーをあの倉庫まで届けた。そこで報酬を支払ってもらえる約束だったのに、取引のトラブルで支払ってもらえなかった。それであんた、いや、あなたに代わりに支払ってもらおうと考えて、ラベンダーの香りを辿ってここに辿り着いた。でも、私はあなたに交渉する権利はないな。あなたには支払う義務も責任もない。それどころか私の怪我の治療をしてくれて、看護してくれた。私のほうこそがあなたに何か返さないと。」
「治療のことは私が勝手にしたことだから気にしないで。目の前に怪我をして倒れている人がいて、自分がその傷を治療できる人間だったら、誰だってそうするわ。それより、あなた、誰かに命を狙われているのではないの?」
「いや、それは大丈夫だ。もし殺されるなら、あのとき倉庫でとどめを刺されていたはずだ。生かしておいたということは、雇い主からまだ使い道があると思われたからだろう。」
「本当に? あなたには、いざとなったら逃げ込める場所がある? 助けてくれる仲間がいる?」
「ああ。マリアンヌ、大丈夫だ。心配してくれてありがとう。もう大丈夫だ。」
「じゃあ、あなたの言うことを信じるわ。ええと」
「ジェロームだ。」
「ジェローム、でも無理しないでね。若いから予想以上に傷の快復が早いけど、あと1日は安静にしていて。明後日には多分起き上がれるはずよ。」
翌日もずっとつきっきりでマリアンヌは看護してくれた。ラベンダーの香りがただよう部屋で、私はジェノヴァにきて始めてぐっすりと眠ることができた気がした。
彼女の治療を受けた三日後には、すっかり気力体力ともに快復していた。部屋の隅でラベンダーの香油を調べているマリアンヌに、ベッドから上半身起き上がりながら声をかけた。
「マリアンヌ、聞いていいか?」
「何かしら?ジェローム」
「なぜここまで親切にしてくれるんだ? 右利きの男ってことしかわかってない奴、怖くないのか?」
「じゃあ、赤の他人の私に、自分の身の上話を聞かせてくれるの?」
「聞きたいのか?」
「もう充分よ、ジェローム、あなたは多分、商人の家の出でしょう? 今までのやりとりでなんとなく分かるわ。体つきは力仕事をしている人のそれだけど、言葉遣いが違うもの。」
「私は充分じゃない。マリアンヌのことが聞きたい。そういえば、一緒にいたあの男はどうしたんだ?」
「やっぱり、あのとき倉庫の近くにいたのね。そういえば、彼、帰ってこないわね。」
「え?心配じゃないのか?」
「彼は、護衛として私についてきてくれたのよ。夫婦かと思った? あなたが気づいている通り、あの取引は怪しいところがあったから、彼はその真相を探りにいっているわ。もしかして、あなたの雇い主のさらに先にいる黒幕のことまで暴くかもしれないわね。でもね、ジェローム」
今までずっとにこやかに話をしていたマリアンヌが、急に真剣な顔になって、私に忠告してくれた。
「約束してね、ジェローム。あなたは決して黒幕が誰かなんか、探らないで。どんなに報酬がいい仕事だろうと、身の危険を感じたら、すぐ手を引いて。権力を持たない私たちが生き残るには、それしかないのよ。あなたはいずれきっと大きなことを成し遂げる男だと感じる。それだけの大胆さと勇気と才能を感じるもの。でも決して慎重さだけは忘れないで。それが欠けていたせいで、才能も野心もありながら、志半ばにして命を落とした人間を何人も診てきたわ。」
「君はそうやって、運命を切り開いてきたんだね。」
「偉そうなこと言ってごめんなさい。何故かしら、ジェローム、あなたには絶対に生き抜いてほしいの。そして将来、周りの人を幸せにするために先頭たてるような、そんな器量の大きな人間になれると感じるわ。」
「最上級の褒め言葉だな。マリアンヌ。なんだか自分は何でもできる気がしてきた。」
「もう心も体も大丈夫ね。成功を祈っているわ。」
「マリアンヌ、あなたの忠告に従うから、あなたもわたしにひとつ約束してほしい。」
「何かしら?」
「あなたがが認めるような、そういう人間に私がなったときは、結婚してくれ」
マリアンヌは声をたてて笑い「ええ、待っているわ」と私の額にキスをした。
その晩は、左腕をかばいながら、マリアンヌと一緒のベッドで過ごした。
事後にマリアンヌは私に、もうひとつとっておきの忠告をくれた。
「生きていく上で、情報はとても大切。知っているということは、これから起こるべきことへの対処を事前に準備できるから最大の防御だわ。同時に使い方によっては相手をゆさぶる武器になる。でも一番大切なことは、どういう情報を知っているのか、周りに悟られないことね。」
「ふふ、とてもこんな時に男女が交わす内容の会話じゃないな。」
「ごめんなさい、でもジャローム、あなたには生き抜いてほしいから。」
「必ず君が認める男になって、妻にするから。そのときはどこに迎えに行けばいい?」
「私は、情報をどこよりも大切にする国の出身なの。」
なぜ彼女にあんなに惹かれたのかわからない。そして彼女がなぜ私を受け入れてくれたのかも。
マリアンヌのような女性には、今まで出会ったことはなかった。そしてこれからもそうだと思う。自分の才能と力だけで自分の運命を切り開いている、その強さに憧れを感じたのかもしれない。