試練と出会い
第4章
あの夏。
母は約束の休暇でジェノヴァの私のところに里帰りするはずだった。しかしすっかり母を気に入った伯爵令嬢が、夏の避暑地に同行してくれと母に懇願したらしい。令嬢は数年前に実母を病で亡くしており、すっかり私の母になついていたそうだ。
母は3週間だけ避暑地に同行し、そのあとジェノヴァにもどることにしたという手紙を最後に音信不通になってしまった。
イヤな予感がした。
神聖ローマ帝国内のある避暑地近くの川で、大雨による洪水で大きな橋が流された。
そこは古代ローマ時代からの街道の要衝で、ちょうどその橋を渡っていたさる伯爵家の馬車も流されてしまった。
皇帝の命令で急遽、軍隊が工兵として橋の復旧に向かったが、橋を架け直すのにひと月近くかかった。
働いていた両替屋の店先で、商人たちがそう話しているのを聞いた。
仕事が終わってすぐ、家に戻って母からの手紙を確認した。滞在予定の避暑地は、まさしくあの橋が流された街道をいった先の場所だった。
叔母に事態を伝えても「何かあったら、連絡がくるでしょう?」と言うだけ。翌日、知り合いの商人たちに片っ端から何か情報を知らないか聞いてまわった。
やっと事故にあった伯爵家の名前を知っている人を見つけた。
それまでは何かの間違いではないかと一縷の望みをつないでいた私は、絶望した。
金を稼いでどうなる? 尊敬していた父も、守りたい母ももうこの世にはいない。一生懸命まっとうに働いて、なぜこんな目にあわなければならない?
神は私の行動に気がついたら、生きるチャンスを与えてくれるはずではなかったのか? なぜ、一度チャンスを与えておきながら、すぐそれを奪うのか?
それからは、まともに生きることが馬鹿馬鹿しくなった。酒に溺れ、賭け事をするようになった。
叔母の家に住むのが耐えられなくなり、慣れない水夫の仕事を始めた。船上での暮らしは最初はきつかったが、身体を酷使していれば、余計なことを考えなくて済んだ。将来とか未来なんて、どうでもいい、ただただ酒代と賭場代を稼ぐために働いていた。
そんなとき水夫仲間から、陸に上がったときにいい仕事があるがやってみないか、と誘われた。危険もあるが、その分報酬が高いという。
闇取引の怪しげな商品を荷揚げし指定された倉庫に運んだり、覆面をした誰かの用心棒をしたり。運が悪ければ捕まったり、諍いに巻き込まれて怪我をしたり、最悪殺される危険もあったが、その日払いの金はありがたかった。
そんな二重生活にも慣れてきたころ、ある商品を夜中に港から倉庫に運び込む仕事を急遽依頼された。
依頼を受けた日は、嵐に見舞われたさんざんな航海から戻ったばかりで、数日間まともに食事も睡眠もとれていない状態だったが、高額な報酬にひかれて引き受けてしまった。
いつものように関税逃れの商品か何かだと思い受け取ると、ラベンダーの香りがする。ラベンダーの香料なら、量からいってかなりの金額になるのがわかった。なぜこんなものがと思いつつ、運び込んだ倉庫で待っていた男から報酬を受け取ろうとすると、支払いは明日の午後まで待って欲しいと言われた。
約束が違うと抗議したが、その男は翌日、すべてを手形ではなく即金で売り捌くからという。商売に慣れていないような気弱そうなその男は、明らかに動揺していた。脅したところで、金がなければ仕方ない。
その日はその倉庫で寝ることにした。ラベンダーの香りが充満していたせいかもしれない。その日は母の夢を見た。
夢の中の母は、私に語りかけてきた
「いい、ジェローム。自分で何もせずに神様に助けてほしいなんてお祈りしても無駄よ。神様を信じているだけでは幸せにはなれない。自分で決めて行動しなさい。神様はあなたの行動に気がついたら、チャンスを与えてくれるはず。何も行動を起こさなかったら、神様はあなたの希望に気がついてくれないから。」
翌日の昼頃、私は倉庫の近くに隠れて、取引が終わるのを待っていた。取引相手は男女の二人組だった。すぐに取引が終わるかと思いきや、誰もなかなか出てこない。それどころか、言い争う声が聞こえてきた。
しばらくして、二人組の男のほうだけが勢いよく飛び出していき、続いて女のほうが荷物を抱えて出て行った。
やっと取引が成立したかと思い、倉庫に入ると、気弱な男は、金は払えないと言う。
「私も騙された。言われた金の三分の一も払ってもらえなかった」
「何を言っているんだ。こちらだって約束された金をもらわないと」
「許してくれ、あの荷物には毒が入っていたんだ。も、もう少しで私も殺されるところだった。」
震える男の首筋を見ると、うっすらとごく浅い刀傷があった。
この男を締め上げてもどうしようもない、自分と同じように、元締めが誰かも知らずにこの仕事を引き受けたんだろうと判断した私は、あの荷物も抱えていった女の後をつけて、金を要求することにした。
油断した。先ほどまで震えて気弱だと思ったいた男に背を向けて倉庫を出ようとしたところで、いきなり背後から切りつけられた。反射的に左腕を上げたので、傷を負ってしまった。まともな状態だったら、返り討ちできたとは思うが、何しろここ数日間まともに食べておらず、その場で倒れてしまった。
そこへ、別の男がやってきた。気弱だったはずの男と何やら話している。身体を動かせず、薄目を開けてそっと見ると、かなり良い仕立ての衣服を着た偉そうな男が、気弱な男を叱責していた。
「私は何も知らん! おまえたちだけでうまく処理しろ!」
そう強い調子で偉そうな男は言い捨て、出て行った。
男達が私にとどめを刺さずにいなくなったことは幸いだったとしか言いようがない。母か神かわからないが、私にチャンスを与えてくれたのだ。ラベンダーの香りが残る薄暗い倉庫の中で、そう確信した。
このままでは失血死してしまうかもしれない。私は倉庫内に残されていたラベンダーを包んでいた布切れを拾い上げ、腕の止血をした。船乗りなら怪我の応急処置はできる。他はとくに怪我はしていないから歩けるはずだ。
何をするにせよ、金がいる。
私はあの荷物を抱えていった女を探すことにした。捜索は簡単だった。ラベンダーの香りを辿っていけば良い。
そうして私は、マリアンヌという希有な女性に出会ったのだ。