つかの間の幸せ
第2章
父と母との三人の生活は本当に幸せだった。父の商売もうまくいっていたので、ひもじい思いを我慢したこともなく着るものがなくて寒い思いをした記憶もない。それどころか、読みたい本はいつでも与えられた。父からはイタリア語、母からはフランス語とラテン語を習った。
そこはマルセイユに近い小高い丘にある村だった。母は父に頼んで家の前の小さな庭を作ってもらった。そこに好きな草花やハーブを植えて、楽しそうに庭の手入れをしていた母の姿を思い出す。そんな幸せそうな母のまわりで、虫を捕まえたりして泥だらけで遊ぶ時間が好きだった。
父が仕事で不在がちなのは寂しかったが、それも私が14歳になり、父の仕事を手伝うため、一緒に商用の旅に同行するようになってからは、世界を知る好奇心で満たされた。
母は寂しくなってしまったかもしれないが、喜ぶ母の顔を思い出しながら旅先でお土産を選ぶのは楽しかった。
突然この幸せな毎日が終わる。
父が旅先で病に倒れたのだった。
もしかしたら、毒を盛られたのかもしれない。同じところにいて、私は無事だったのだから。
今でも本当の原因はわからない。
父はちょうど手形を振り出して、大きな買い物をしたばかりだった。私には父の死を嘆き悲しむ余裕すらなかった。債権者が金を取り立てにおしかけてきたのだ。
私は債務者として父の代わりに仕入れた荷を売り捌き、少しでも早くまとまった金を用意しなくてはならなかった。父の手伝いをして商売に同行していたとはいえ、まだまだ経験の乏しかった私は、足下を見られ、父が仕入れた荷を安い値で買いたたかれた。
私が金策に走り回っていたが、ついに母の宝石も手放すしかなくなり、傷ついている母をさらに哀しませるとわかっていながら、頼み込むしかなかった。
母は、あのエクス-アン-プロヴァンスの屋敷にいたときの悲しげな笑顔で、父からもらった指輪を外し、私の手のひらに置いた。その翌朝、母はいなくなっていた。
私は母を捜し回った。村中を捜索し、村から街に降りてあちこち探してまわった。知り合いの商人や父とよく立ち寄った居酒屋や商店で聞いてまわった。父はきれいな商売を心がけていた人だったから、人望と信頼があり、みな心配して心当たりを探してくれた。でも2日たっても3日たっても母は見つからなかった。
母の消息がつかめないまま、私は泣く泣く母の指輪を売り、借金を完済した。
あとは母を探し出すだけだ。実家とは父との駆け落ち以来、縁を切られたと言っていた。もしかしてエクス-アン-プロヴァンスの屋敷に向かったのでは? すでに当主が代わって、あの老人の弟が継いでいると噂で聞いていた。恥をしのんでお金を借りにいったのかもしれないと思い、私はエクス-アン-プロヴァンスに向かうことにした。
支度をしている最中に、突然母が家に帰ってきた。
ジェノヴァに、父の家に行ってきて、父の姉にしばらくの間、居候させて欲しいと頼みに言っていたのだという。
「ジェローム、ジェノヴァに行きましょう。お父様のふるさとに。あなたはそこでやり直せばいいの。お父様が生まれ育った街に行きましょう。」